春秋戦国時代 伍子胥の人生について

春秋戦国時代 伍子胥の人生について

伍子胥(ごししょ)は、中国の春秋時代に活躍した楚の武人です。彼の本名は員(うん)で、楚の平王によって父と兄が殺されたため、復讐を誓いました。彼は呉に亡命し、楚との戦いで、ついに復讐を果たしました。しかし、後に呉王夫差が越王勾践を破った際、降伏を許そうとする夫差に反対し、意見が受け入れられず、自害させられました。


伍子胥の生涯は復讐と忠誠の人生

伍子胥の生涯は復讐と忠誠の人生

伍子胥の生涯は復讐と忠誠の人生

伍子胥(ごししょ)は、中国の春秋時代における政治家、軍人です。

伍子胥は、春秋時代の楚の乾渓に生まれ、名家の子孫として育ちました。彼の家族は代々楚の重臣を務めており、伍子胥自身もその血筋を引く者として、政治的な影響力を持つ環境で成長しました。

伍子胥の父、伍奢は楚の重臣として知られ、平王の子である太子建の教育係を務めていました。彼は直言をもって王に仕え、その清廉な性格から信頼を寄せられていました。このような家族背景は、伍子胥にとって誇りであり、同時に彼の運命を大きく左右する要因となります。父の影響を受けた彼は、正義感と忠誠心を持ちながらも、後に家族を襲う悲劇に直面することになります。 

伍子胥の父である伍奢(ごしゃ)と兄は、楚の平王による権力闘争の犠牲となり、殺害されてしまうのです。この事件の背景には、平王の権力維持のための策略がありました。

伍子胥の家族は楚国の名門であり、父の伍奢は平王の信任を受けた重臣でした。しかし、平王は権力を維持するために、伍奢とその家族を脅威と見なしました。紀元前522年、平王は太子建との関係が悪化し、太子建を廃位しようとしました。この過程で、伍奢とその子供たちが標的となりました。

平王は伍奢を捕らえ、「都から離れているお前の息子たちを呼べ。そうすれば助けてやる」と言いながら、実際には彼らを全員殺すための罠を仕掛けました。伍子胥はこの計画に気づき、逃げることができましたが、父と兄の伍尚は捕らえられ、処刑されてしまいました。この事件は、伍子胥にとって復讐心を抱く大きな契機となりました。

逃亡の途中、伍子胥は漁師に助けられ、長江を渡ることになります。この漁師は、彼の身を守るために隠れる場所を提供し、命の危機から救ってくれました。伍子胥は感謝の意を示そうとしましたが、漁師は彼の名声を知り、金銭を受け取ることを拒否しました。この出来事は、伍子胥が後に呉国で復讐を果たすための重要な一歩となり、彼の運命を大きく変えることになります。 

伍子胥は復讐を誓い、呉国に亡命しました。呉では王・闔閭(こうりょ)に仕官し、その信任を得て軍事的な地位を確立しました。最終的には呉軍を率いて楚に攻め込み、平王の墓を暴いてその遺体に鞭打つという復讐劇を展開しました。この行為は「死者に鞭打つ」という故事成語として知られるようになりました。

このように、伍子胥の父と兄が殺害された背景には、平王による権力闘争がありました。彼らは政治的な陰謀や権力維持のための犠牲となり、その結果として伍子胥は復讐者として歴史に名を刻むことになったのです。

楚の平王

楚の平王

楚の平王

楚の平王は、紀元前529年から紀元前516年まで在位した春秋戦国時代の王です。平王の治世は政治的動乱に満ちています。
まずは、兄の霊王の不在を突いて霊王の太子を暗殺し、自ら王位を奪ったのです。
平王の際立った癖は、他国の王族や貴族の女性を奪い、自国に迎え入れることで権力を誇示することでした。特に、敵対関係にあった呉国の王女を妃とした行為は、両国間の緊張を高め、戦争や外交関係に大きな影響を与えました。これらの行動は個人的な欲望だけでなく、国家戦略としての意図が強く、当時の政治的背景や文化的慣習を反映しています。

楚の平王は、陰湿な奪権闘争で王位を手に入れたものの、君主としては無能であったとされています。彼の際立った癖は、おべっか使いの家臣・費無忌の言いなりになることでありました。費無忌の策略により、平王は本来太子健の妻となるはずだった秦の王女を自らの妻とし、好色な一面を露わにした。この行為で太子健との関係は悪化し、費無忌の讒言を信じた平王は太子健を遠方に追放してしまうほどです。平王の無能さ、好色さ、そして家臣に操られる癖が、国政の混乱を招いたのです。

伍子胥の父の伍奢が、このような状態で追いやられたのは、残念の極みでした。

伍子胥の呉国亡命と孫氏の兵法との出会い

伍子胥の呉国亡命と孫氏の兵法との出会い

伍子胥の呉国亡命と孫氏の兵法との出会い

伍子胥は復讐を果たすために全てを捧げる決意を固めました。彼の心には、家族を奪った楚への強い怒りと復讐の念が渦巻いていました。この感情は彼の行動を駆り立て、彼は逃亡生活の中で復讐の計画を練り続けました。彼は自らの命を懸けてでも、楚に対する復讐を果たすことを決意し、そのために必要な知識や戦略を学び、力を蓄えていきました。彼の心の中で復讐は単なる目的ではなく、彼の存在意義そのものであったのです。 

伍子胥は、呉に亡命し、そこで新たな人生を始めることになりますが、常にこの誓いを胸に秘めていました。伍子胥は呉国に亡命後、呉王闔閭の側近として仕官し、彼の政治的な影響力を強化しました。彼は、呉王僚の信任を受け、国の内政や外交において重要な役割を果たしました。

伍子胥は、呉国の軍事戦略においても重要な役割を果たしました。彼は、兵法の権威である孫武を登用し、軍事力の強化に成功しました。孫武の知識を活用することで、呉国の軍事的な基盤を固めました。この連携により、呉国は戦争において優位に立つことができ、敵国に対しても強力な姿勢を示すことができたのです。 

伍子胥の政治的手腕により、呉国は急速に発展しました。彼は楚国との戦争に向けて、周到な準備を進め、国力を浪費させる戦略を採用しました。特に、伍子胥は小規模な攻撃を繰り返すことで、楚国の軍事的な動きを鈍らせ、呉国の戦力を整える時間を稼いだのです。

血と涙の誓い - 伍子胥の復讐

血と涙の誓い - 伍子胥の復讐

血と涙の誓い - 伍子胥の復讐

月光が呉の宮殿の庭を銀色に染め上げる夜、一人の男が佇んでいた。伍子胥(ごししょ)。その瞳には、悲しみと怒りが渦巻いていた。風が彼の長い髪を揺らし、まるで過去の亡霊のように彼を包み込んだ。

伍子胥の心の中で、あの忌まわしい日の記憶が蘇る。楚の平王の兵士が父・伍奢(ごしゃ)と兄・伍尚(ごしょう)を連れ去っていく光景。彼らの悲鳴。血に染まった地面。そして、自分の無力さ。
「父上、兄上...」伍子胥は歯を食いしばった。「必ず、あなたがたの仇を討ちます。楚を、この手で滅ぼしてみせます。」

その時、背後から声が聞こえた。
「伍子胥よ、お前の苦しみはよくわかる。」
振り返ると、そこには呉王・闔閭(こうりょ)が立っていた。月光に照らされた王の顔には、深い憂いの色が浮かんでいた。
「しかし、復讐心だけで国を動かすわけにはいかん。楚は強大だ。我が呉にとって手ごわい相手だ。」

伍子胥は王の目をまっすぐ見つめ返した。その瞳には、燃えるような決意が宿っていた。
「王よ、私の復讐は単なる私怨ではありません。」伍子胥の声は低く、しかし力強かった。「楚は今、内乱で弱っています。今こそ、呉が立ち上がるべき時なのです。楚を倒すことは、呉の未来を守ることにもなるのです。」

闔閭は黙って伍子胥の言葉に耳を傾けた。その瞳に、何かが宿るのを伍子胥は見逃さなかった。希望の光だった。
「だが、」王は慎重に言葉を選んだ。「お前の憎しみが、呉を破滅に導くことになってはならん。」
「だからこそ、」伍子胥は静かに答えた。「孫武の力をお借りしたいのです。彼の兵法があれば、必ず勝利できます。私の復讐と、呉の繁栄。両方を実現させるために。」

闔閭はしばらくの間、黙って庭の奥を見つめていた。そして、ゆっくりと伍子胥に向き直った。
「わかった。」王の声には、新たな決意が感じられた。「楚討伐の許可を与えよう。お前の覚悟と、孫武の知恵。それらが呉を勝利に導いてくれることを信じている。」

伍子胥は深々と頭を下げた。その時、彼の心の中で何かが大きく動いた。長年抱き続けてきた復讐の炎が、今や呉国全体を包み込む大きな炎となって燃え上がったのだ。
「必ず、勝利をお約束します。」伍子胥の声は、もはや悲しみに満ちてはいなかった。そこにあるのは、未来への強い決意だった。

その夜、月は静かに呉の宮殿を見下ろしていた。そこでは、一人の男の復讐の誓いが、国家の運命を変える大きな力となって生まれ変わろうとしていた。
伍子胥は空を見上げた。星々が彼を見守っているようだった。
「父上、兄上。」彼は心の中でつぶやいた。「もうすぐです。あなたがたの魂が安らかに眠れる日が、必ず来るのです。」

風が再び吹き、伍子胥の長い髪が舞った。それは、まるで新たな時代の幕開けを告げるかのようだった。呉と楚の戦いは、もはや避けられない。

そして、その呉と楚の戦いは、後に 柏挙の戦い と呼ばれる中国の歴史を大きく変えることになったのだ。

3万の軍が20万の軍を破る 柏挙(はっきょ)の戦い 

3万の軍が20万の軍を破る 柏挙(はっきょ)の戦い 

3万の軍が20万の軍を破る 柏挙(はっきょ)の戦い 

紀元前506年の「柏挙の戦い」は、3万の呉軍が20万の楚軍を破ったという驚くべき戦闘でした。この結果は、単なる兵力の差を超えた要因があったことを示しています。

勝因の一つに、伍子胥と孫武(孫子)の卓越した戦略的思考と指揮能力が挙げられます。彼らは数的不利を覆すための巧妙な戦略を立てたのです。

〇優れた戦略と指揮

・地形の活用

呉軍は地形を上手く利用し、楚軍の数的優位性を相殺しました。狭い峠や河川を利用し、楚軍が全軍を展開できない状況を作り出しました。

・奇襲戦術

呉軍は夜間や楚軍が予期しないタイミングで攻撃を仕掛け、楚軍の陣形を崩しました。このような不意を突いた戦術は、敵の混乱を招きました。

〇呉軍の士気の高さ

・伍子胥の復讐心

伍子胥は家族を楚に殺された過去があり、その強い復讐心が軍全体に伝わりました。この個人的な動機が兵士たちの士気を高め、強い結束力を生み出しました。

・呉王闔閭の指揮

呉王闔閭自身が戦場に立ち、兵士たちを鼓舞したことも士気を高めました。王の直接の指揮は、兵士たちにとって大きな力となりました。

〇楚軍の内部問題

楚軍内部にはいくつかの問題があり、それが呉軍の勝利を後押ししました。

・内紛
楚国内では政治的な混乱が続いており、軍の統制が乱れていました。この内部の不安定さが、戦闘において楚軍の士気を低下させています。

・油断
楚軍は自らの数的優位に慢心し、呉軍を軽視していた可能性があります。その結果、予想外の呉軍の攻撃に対応できなかったとも考えられます。

〇具体的な戦術

呉軍は、巧妙な戦術を駆使して楚軍を圧倒しました。

・分断戦術

楚軍の大軍を小規模な部隊に分断し、それぞれを個別に撃破しています。分断して戦うことで、数の差を無力化したのです。

・疑似撤退

一度退却するふりをして楚軍を油断させ、その隙に反撃する戦術も用いました。こうした戦術は、敵の心理を揺さぶる効果があります。

・集中攻撃

呉軍は、楚軍の指揮系統を狙った集中攻撃を行い、混乱を引き起こしました。指揮官が混乱すれば、兵士たちも動揺しやすくなります。

〇情報戦

・スパイの活用

呉軍は楚軍の動きを事前に把握しており、それに基づいた効果的な対策を立てています。

・偽情報の流布

呉軍は楚軍に誤った情報を流し、楚軍に誤った判断をさせることで混乱を引き起こしました。

「柏挙の戦い」での呉軍の勝利は、単なる兵力の差だけでなく、優れた戦略、戦術、士気の高さ、そして指揮官の能力によるものです。伍子胥と孫武の戦略的才能、呉軍の士気、楚軍の内部問題が複合的に作用し、この驚異的な勝利をもたらしたといえます。この戦いは、歴史的にも、兵力の数が勝敗を決するのではなく、戦略や指揮がいかに重要であるかを示す貴重な例となりました。

楚の平王の死体を伍子胥が鞭打って父兄の恨みを晴らしたという

楚の平王の死体を伍子胥が鞭打って父兄の恨みを晴らしたという

楚の平王の死体を伍子胥が鞭打って父兄の恨みを晴らしたという

柏挙の戦いは、 呉軍は、楚の都である郢を落とすという快挙を成し遂げます。これは、楚にとって大きな屈辱であり、呉の勢いを示す、呉が中国の覇権を握るきっかけとなった天下分け目の決戦でした。この戦いを機に、呉は春秋時代の最強国の一つに数えられるようになりました。

郢に入場した呉軍には、当然、伍子胥が居ました。伍子胥は、平王の墓を探し出し、平王の死体を掘り出して鞭打って父兄の恨みを晴らすという暴挙を行いました。

これが、今でも使われている「死者に鞭打つ」です。今では、死者の言動や行為を非難することを意味する慣用表現となっています。

「平王よ! 見よ、これが汝の最期だ。父上、兄上、あなたがたの無念はこれで晴れたか?
幾年もの歳月、この日のために生きてきた。
お前の残酷な仕打ち、あの日の絶望、すべてが今、この鞭に込められている。
だが、なぜだ? なぜ心が満たされぬのだ?
復讐を遂げた今、虚しさだけが残る。
父上、兄上、あなたがたは戻らない。この復讐が何になろう。
されど、我が誓いは果たされた。呉の勝利、楚の滅亡、そしてお前への鞭打ち。
全てが終わった今、魂よ、安らかに眠れ。
我が心の炎は消えぬが、これにて一つの幕は閉じるのだ。
平王よ、呪われよ。そして、許されよ。
我らの宿命は、ここに完結する。」

復讐の炎、永遠に消えず - 伍子胥の悲劇的結末

復讐の炎、永遠に消えず - 伍子胥の悲劇的結末

復讐の炎、永遠に消えず - 伍子胥の悲劇的結末

伍子胥の生涯は、復讐の炎に照らされた壮絶な旅路であった。その炎は、楚の平王への復讐を果たした後も、楚が滅亡しているわけではなく、決して消えることはなかった。それどころか、その炎は彼の魂を焼き尽くすまで燃え続けたのである。

呉王夫差に仕えた伍子胥だったが、やがて彼の功績は軽んじられ、その存在は疎まれるようになっていった。かつての英雄は、今や宮廷の片隅で冷たい風に吹かれる枯れ葉のように、その生命力を失っていったのである。

しかし、伍子胥の心の中で燃え続ける復讐の炎は、決して消えることはなかった。それは彼の魂そのものとなり、彼を最後の決断へと導いていった。自ら命を絶つという選択は、彼にとって最後の、そして最大の復讐の形だったのかもしれない。

彼の遺言は、まるで時を超えて響く雄叫びのようだった。檟の木を植え、その棺で自らを葬ることを望んだ伍子胥。そして、自らの目をくじいて復讐を誓う姿は、彼の決意が死をも超えて続くことを世に示した。それは、まるで不死鳥のように、灰の中から再び蘇る復讐の誓いであった。

伍子胥の亡骸が無残にも江に投げ込まれた時、天も地も悲しんだことだろう。しかし、その水面に映る月は、伍子胥の魂が永遠に生き続けることを静かに語っていたのかもしれない。

夫差は伍子胥の名を歴史から消そうとしたが、それは砂浜に書かれた文字を消そうとするようなものだった。波が来るたびに、その文字はより心に深く刻まれていくのだ。伍子胥の物語は、復讐という人間の根源的な感情の悲劇を、永遠に語り継ぐ伝説となったのである。

伍子胥の生涯は、復讐に捧げられた壮大な叙事詩だった。その最後の一節は、悲劇的でありながらも、人間の意志の強さを世に示す力強いものとなった。彼の魂は、今もなお、歴史の河を静かに流れ続けている。そして私たちに、復讐の代償と、信念を貫くことの意味を問いかけているのだ。





この記事の三国志ライター

映画キングダムを見て、春秋戦国時代に興味を持ちました。

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