曹操の意志を継いだ曹丕は天下統一できる人材だったのか。

曹操の意志を継いだ曹丕は天下統一できる人材だったのか。

曹操の息子であり、曹操の成し得なかった天下統一を引き継いだ曹丕ですが、結果的に曹丕は天下統一をできずに死んでいきます。それでは曹丕は「天下統一」に値する人物だったのでしょうか。


曹丕の一生

三国志の歴史の中で最も有名な武将と言えば曹操と言う意見が多いと思います。曹操は三国志の歴史の中で相対する呉や蜀と対等に戦っており、戦乱の世中で常に活躍していた武将の1人でもあります。しかし、曹操は天下統一を目指したその半ばで死んでしまいます。

そんな曹操に跡を託されて皇帝となったのが曹丕です。曹丕は曹操の跡を継ぐとされていましたが、それ以前に曹丕には年上のお兄さんである曹昂がいました。お兄さんがいて、後継として皇帝になるのはまだまだ先であったため、曹丕は曹操のもとに従軍していました。皇帝の跡をすぐ継ぐというわけではありませんでした。しかし曹昂は張繍の奇襲によって戦死してしまいます。

この頃曹丕は現在の小学生位の歳でしたが、既に戦場などで戦える馬の技術や文才などをみせ、文武両道の武将として成長していきました。

時は流れ曹丕が20歳の頃になると、曹操も天下統一に向けて活躍している最中でした。魏軍も人材募集などを行っており、大人数の大集団となっていました。国力としては敵対国である呉や蜀を退けるほどとなっています。

そんな中で出てきたのが後継者問題です。当時後継者として注目されていたのは実質後継者として最有力とされていた曹丕、曹丕と同じ母親から生まれていた曹植、そして曹沖の3人でした。

年も1番上で文武両道で、武将としての才能がたけていた曹丕でほぼ確定と言われていましたが、曹操が曹丕に魏を任せるのはこれから約10年後の話になります。

後継者争いは最終的には曹丕と曹植の一騎打ちとなってしまいます。当初3人の候補で後継者争いを行う予定でしたが、曹沖は13歳という若さでこの世を去ってしまいます。

そのため残った曹丕と曹植で後継者を争うことになります。曹植は文才も豊かであり、とてもおおらかな性格をしていたとされています。そこだけ聞くとかなり良い人であり、害のない人物であったと思いますが、どうやらお酒が大好きであり、お酒の失敗も多かったようです。

その他もろもろ紆余曲折がありながら、曹丕は太子となり曹操が亡くなった後、魏の皇帝についただけではなく、後漢の献帝から禅譲を受けて魏の王朝を開くこととなります。禅譲とは皇帝が自分の血縁を引き継いでいない人物に地位を譲ることです。

これは儒教の考えのもとで生まれた考え方のようです。そしてこの禅譲は神話の頃の皇帝からこなされてきたと伝えられていますが、実質禅譲を行った最初の皇帝はこの曹丕と言われています。

曹丕は出世をして曹操が持っていた地位をあっさりと抜いてしまいます。しかし、禅譲が済んだ後、特に派手な活躍などもせず、大きな功績も残さずにあっという間に曹丕は死んでしまいます。

曹丕の死因は風邪をこじらせたことが悪化していき、肺炎にかかってしまいそれが原因で40歳と言う年齢でなくなってしまいます。曹丕が魏の皇帝となり世を治めて7年と言うあっという間の期間でした。

自分が死ぬと悟った曹丕は死ぬ間際に有名な軍師であり、曹丕の側近として活躍した司馬懿に自分の跡を頼み、曹叡を跡継ぎとして指名しました。世を治めてからの短さと言い、あまりにも速い死だったと言われています。

しかし、そんな短い人生であった曹丕ですが正史の三国志魏書には50ページほど曹丕の誕生時の話から禅譲に関わる事まで書かれています。三国志の歴史の中ではかなり良い扱いを受けていた人物だったのではないでしょうか。

曹丕の性格が甘かった!?

曹丕の一生は上記の流れで終わってしまいます。それでは曹丕の人生の中に隠されていた曹丕が天下統一から遠のいていった要因を説明します。

曹丕が周りをあまり信頼しておらず、周りの意見を聞かなかったということも魏が繁栄しなかった原因とも言えるでしょう。

曹丕が皇帝を務めていた際に、他の二国である蜀と呉をどうするかと言う話し合いになる機会がありました。

曹丕は部下たちにまず蜀と呉が戦争になるのかということを聞くと、蜀は現在関羽がなくなってしまった時期であり、攻撃を仕掛けるという事はないでしょうと言う意見がほとんどでした。ただその中でも必ず関羽の仇を取りに行くために戦うと言う意見もありました。

結果的に蜀は関羽の仇を取るために進軍するという結果になります。この時点で蜀は進軍すると言う意見を述べていた人影を信頼すべきでした。そして、この戦いの最中に呉は魏に対して降伏してきます。

これをこぞって喜ぶ人もいれば、これは作戦であり魏の攻撃を避けるための降伏であると言う人もいました。しかし曹丕はあくまで降伏してきたのなら攻撃する必要もないということで見逃す結果となりました。

しかしこれはやはりただただ攻撃を避けたいだけであり、後に蜀を打ち倒しその勢いのまま魏と相対する勢力になりました。よく非情と言うことで有名である曹丕ですが、こういった戦況に関与することに関して言うのであれば、全く非情になれなかったことがミスリードとなったことでしょう。

魏の弱体化が原因!?

また、魏の皇族である曹爽が実権を握っていた際に、司馬懿のクーデターによって処刑されると言う前代未聞の大事件が起きてしまいます。

これによって、曹操から代々引き継がれてきた曹一族の実権が崩れてしまい、司馬懿や司馬師などの司馬一族によって権力を奪われてしまいます。こういった内乱によって魏の力はドンドンと弱まってしまいます。

逆に司馬氏の権力の略奪に怒りをあらわにして逆クーデターを起こす重臣たちも多くいました。もともと力のあった魏の皇族たちですが、いつの間にかとても勢力が弱くなっており、クーデターを起こすも司馬氏から実権を取り返すことができませんでした。これには曹丕が大きく関わっています。

後継者争いに勝利した曹丕ですが、反対派の巻き返しに恐れており、自分を後継者としてよく思っていない皇族たちもいると考えた結果、皇族に小さな領地や待遇しか与えなかったと言われています。

これにより皇族の力は弱まっていき、司馬氏のクーデターに対して反旗を翻す皇族もあまり魏にはいなかったと言う結果になってしまいました。これによって魏は滅ぼされてしまい、司馬氏が実権を握る晋によって魏の跡は継がれていきます。

曹丕が行った行為が後世の魏にも大きく影響していき、それに魏を滅ぼす原因にもつながってしまいます。

まとめ

今回は曹丕が天下統一を成し得なかった原因について紹介しましたが、曹操の息子ということもあり期待もあったかと思いますが、曹一族は曹操より下の息子たちはそこまで才能がなかったのかもしれません。

ただ、曹丕も自分なりのやり方を貫いていたとは言えるでしょう。周りの環境の移り変わりに対応しきれなかったという点で魏はあっという間に衰退していったのでしょう。

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