喉から手が出るほど欲しかった軍師を手放す 徐庶(元直)との出会い
■ 喉から手が出るほど欲しかった軍師を手放す 徐庶(元直)との出会い
喉から手が出るほど欲しかった軍師を手放す 徐庶(元直)との出会い
劉備(玄徳)が最初に出会った軍師です。この頃、曹操(孟徳)が少しずつ荊州攻略に手を付けはじめます。まずは樊城にいた曹仁(子孝)が五千の兵で劉備(玄徳)のいる新野を攻めますが、兵力半分以下(約二千)の劉備軍にあっさりと敗れてしまいます。
この勝利で劉備(玄徳)は兵法の重要性を痛感して徐庶(元直)を厚遇するのですが、ある日、徐庶(元直)が劉備(玄徳)の元を去る意を申し出ます。故郷にいる母から体調が思わしくなく、不安で寂しい思いをしているので帰ってきてほしい…そんな手紙が来たのです。そして、徐庶(元直)の故郷は曹操(孟徳)の領地内です。
これは、曹操(孟徳)の巧みな裏工作でした。その可能性を疑いながらも、徐庶(元直)は悩みます。喉から手が出るほど欲しかった軍師でしたが…劉備(玄徳)は「義」を通してこう言います。
「お母さんを安心させてあげなさい。そして君が自由が効く身になったらまた帰って来てほしい」
こうして、劉備(玄徳)は徐庶(元直)と別れます。必然的に徐庶(元直)は曹操軍に組み込まれてしまいましたが、後年、徐庶(元直)は決して劉備(玄徳)のマイナスになるような策は用いず、陰ながら、劉備(玄徳)を支援して行きます。
三顧の礼 諸葛亮(孔明)との出会い
■ 三顧の礼 諸葛亮(孔明)との出会い
三顧の礼 諸葛亮(孔明)との出会い
徐庶(元直)との別れは諸葛亮(孔明)との出会いのきっかけにもなりました。徐庶(元直)は、自分が立ち去る代わりに諸葛亮(孔明)を紹介したのです。
当時、自身の領地こそ持っていなかった劉備(玄徳)でしたが、その人徳は荊州内に知れ渡り、新野城主としてそれなりの地位を築いていました。使者を出して諸葛亮(孔明)を城に呼んでもよかったのですが…。
大賢人をお迎えするのに失礼があってはならない。
というスタンスで、諸葛亮(孔明)が住む庵へ自分から訪問します。1、2回目は留守。3回目にしてようやく諸葛亮(孔明)に会うことができます。
これが世に言う「三顧の礼」です。
劉表(景升)が懇願するも荊州継承を断り続ける
■ 劉表(景升)が懇願するも荊州継承を断り続ける
劉表(景升)が懇願するも荊州継承を断り続ける
劉備(玄徳)が荊州に身を寄せていた頃、劉表(景升)は劉備(玄徳)との関わりの中で、劉備(玄徳)の天下人としての実力、人徳、カリスマ性などに惚れ込み、自分に代わって荊州太守になってほしいと懇願します。
自身の年齢や健康状態から引退を検討していましたが、長男の劉琦は病弱、次男の劉琮はまだ幼かったため、跡継ぎ問題に悩んでいたこともその要因です。
諸葛亮(孔明)も劉備(玄徳)の荊州継承をを強く推します。「天下三分の計」遂行のために荊州は絶好の足場となります。しかも劉備(玄徳)は劉表(景升)と遠い一族にあたる劉一門。世間的にも劉備(玄徳)の荊州継承は何の問題もないように見えます。しかし、劉備(玄徳)は固辞し続けます。
表向きには劉表(景升)に「しっかりした御息子がいるのに私が太守を引き継ぐことはできない」と伝えていますが、諸葛亮(孔明)などの側近には「彼(劉表)が私(劉備)に太守を引き継ぐことはある種の不幸(病気などの災いが要因となっている部分が多いので)であるのに対して、私(劉備)にとっては最上の喜び(待望の領地を得られるため)である…これが忍びない」と漏らしています。
まさに、劉備(玄徳)の「情」の部分が如実に表現されています。しかしながら、この場面においては、「私情」と「天下の業」を混同し過ぎでは…との意見が多いというのも事実です。
継母に命を狙われた劉琦の助けとなる
■ 継母に命を狙われた劉琦の助けとなる
継母に命を狙われた劉琦の助けとなる
跡継ぎ問題で揺れていた荊州。ヒール役は劉表(景升)の側近蔡瑁(徳珪)です。彼の姉は劉表(景升)の後妻で次男劉琮の母親でもありました。そのため、劉琮を跡継ぎにするために日頃から前妻が産んだ劉琦の命を狙っていたのです。叔父と継母から命を狙われている…。そんな衝撃的な相談を劉備(玄徳)は劉琦から受けます。
劉備(玄徳)は諸葛亮(孔明)に何かと劉琦を助けてやってほしいと頼みますが、諸葛亮(孔明)は渋っています。劉備(玄徳)をも巻き込んでいる荊州の跡継ぎ問題…下手に首を突っ込んで荊州の諸侯に睨まれたくなかったからです。
しかし、最終的には劉琦に策を授け、劉琦は命を落とさず江夏城へ脱出することができます。
後日、曹操(孟徳)が五十万の兵力で荊州を陥落させてしまいます。劉備軍は猛烈な攻撃を受け、劉備(玄徳)の妻(側室:甘夫人)は井戸に身を投じて自害、かつてない絶体絶命のピンチが劉備軍を襲います。
そこに、わずか一万の兵で勇敢にも援軍に来たのは劉琦でした。曹操軍に対しては「わずか」でも、総勢二千人程度の劉備軍にとってはこの上なく頼もしい援軍。劉琦は自身が治めている江夏城に劉備(玄徳)一行を迎え入れ、とうとう劉備(玄徳)を助けるのです。
劉備(玄徳)は跡継ぎ問題で命を狙われている劉琦を助けようとしました。それは、政治的には大した利益もない「損得勘定なし」の行動でした。しかし劉備(玄徳)のその行動は、後日、命を張った「損得勘定なし」の劉琦の行動を呼んだのです。
我が子の無事より部下への労いを優先する 趙雲(子龍)
■ 我が子の無事より部下への労いを優先する 趙雲(子龍)
我が子の無事より部下への労いを優先する 趙雲(子龍)
208年、河北一帯を完全に平定した曹操(孟徳)は本格的な南征軍を興します。劉備軍はひとたまりもなく、新野城を撤退しますが、劉備(玄徳)を慕う農民たちが逃げ遅れ、曹操軍の急襲を受けてしまいます。
さらに劉備(玄徳)と妻子が離ればなれとなり、行方不明。警護役となっていた趙雲(子龍)が必至に妻子を守りながら本隊(劉備)を探し回ります。
劉備の妻(側室:甘婦人)は敵からの攻撃で痛手を負い、逃亡の足手まといになるまいと、子供(阿斗:後の劉禅)を趙雲(子龍)に託して、井戸に身を投じて自害します。趙雲(子龍)は、劉備(玄徳)の子供を抱いて、曹操軍の軍勢の中を駆け回るのです。
そして、曹操軍の囲いを突破し阿斗を無事劉備(玄徳)の元へ届けたのでした。誰もが「我が子をよくぞ守ってくれた」と労いの言葉をかける…と思った矢先、劉備(玄徳)から思わぬ言葉が飛び出します。
「君(趙雲)の手柄(阿斗を守った)は本当に有難かったのだが、まずは君(趙雲)が無事で何よりだ。子はまた産めば得られるが、君(趙雲)のような優れた将はまたと得られるものではない。我が子のために危険な目に遭わせてしまって申し訳なかった。」
…要するに「我が子より君(趙雲)の方が大切だ」と言ったのですね。
この言葉に趙雲(子龍)は深く感激します。その後、赤壁の戦い、蜀建国のみならず、劉備(玄徳)没後も加えて、長い間劉備軍および蜀のために大きな役割を果たして行きます。
まとめ
■ まとめ
まとめ
劉備(玄徳)は中国の統一を成し遂げた訳でもなく、また、蜀がそれをした訳でもありません。にもかかわらず、三国志の物語において、なぜ劉備側の面々がクローズアップされるのか…といえば、それは「損得勘定なしの人同士の心の繋がり」が多いからです。それらは天下の業において遠回りを余儀なくされることも多いでしょうが、その「心」が天下の業と同じ方向を向いた時、その「力」は単なる職制上の繋がりよりも遥かに強固で永続性を持つものとなります。荊州滞在時には特に劉備(玄徳)の仁愛に関わる出来事が多く、それがまた、三国志全体を面白くしています。