劉備(玄徳)の仁愛がたくさん発揮される荊州での出来事

劉備(玄徳)の仁愛がたくさん発揮される荊州での出来事

劉備(玄徳)にとって荊州は後に蜀を建国する上での足場固めとなる土地ですが、そのような(蜀の攻略を思案する)状況に辿り着くまでには実に紆余曲折がありました。様々な出来事において劉備(玄徳)の仁愛がクローズアップされ、多くの人材が劉備(玄徳)のもとに集まります。


喉から手が出るほど欲しかった軍師を手放す 徐庶(元直)との出会い

喉から手が出るほど欲しかった軍師を手放す 徐庶(元直)との出会い

喉から手が出るほど欲しかった軍師を手放す 徐庶(元直)との出会い

劉備(玄徳)が最初に出会った軍師です。この頃、曹操(孟徳)が少しずつ荊州攻略に手を付けはじめます。まずは樊城にいた曹仁(子孝)が五千の兵で劉備(玄徳)のいる新野を攻めますが、兵力半分以下(約二千)の劉備軍にあっさりと敗れてしまいます。

この勝利で劉備(玄徳)は兵法の重要性を痛感して徐庶(元直)を厚遇するのですが、ある日、徐庶(元直)が劉備(玄徳)の元を去る意を申し出ます。故郷にいる母から体調が思わしくなく、不安で寂しい思いをしているので帰ってきてほしい…そんな手紙が来たのです。そして、徐庶(元直)の故郷は曹操(孟徳)の領地内です。

これは、曹操(孟徳)の巧みな裏工作でした。その可能性を疑いながらも、徐庶(元直)は悩みます。喉から手が出るほど欲しかった軍師でしたが…劉備(玄徳)は「義」を通してこう言います。

「お母さんを安心させてあげなさい。そして君が自由が効く身になったらまた帰って来てほしい」

こうして、劉備(玄徳)は徐庶(元直)と別れます。必然的に徐庶(元直)は曹操軍に組み込まれてしまいましたが、後年、徐庶(元直)は決して劉備(玄徳)のマイナスになるような策は用いず、陰ながら、劉備(玄徳)を支援して行きます。

三顧の礼 諸葛亮(孔明)との出会い

三顧の礼 諸葛亮(孔明)との出会い

三顧の礼 諸葛亮(孔明)との出会い

徐庶(元直)との別れは諸葛亮(孔明)との出会いのきっかけにもなりました。徐庶(元直)は、自分が立ち去る代わりに諸葛亮(孔明)を紹介したのです。

当時、自身の領地こそ持っていなかった劉備(玄徳)でしたが、その人徳は荊州内に知れ渡り、新野城主としてそれなりの地位を築いていました。使者を出して諸葛亮(孔明)を城に呼んでもよかったのですが…。

大賢人をお迎えするのに失礼があってはならない。

というスタンスで、諸葛亮(孔明)が住む庵へ自分から訪問します。1、2回目は留守。3回目にしてようやく諸葛亮(孔明)に会うことができます。

これが世に言う「三顧の礼」です。

劉表(景升)が懇願するも荊州継承を断り続ける

劉表(景升)が懇願するも荊州継承を断り続ける

劉表(景升)が懇願するも荊州継承を断り続ける

劉備(玄徳)が荊州に身を寄せていた頃、劉表(景升)は劉備(玄徳)との関わりの中で、劉備(玄徳)の天下人としての実力、人徳、カリスマ性などに惚れ込み、自分に代わって荊州太守になってほしいと懇願します。

自身の年齢や健康状態から引退を検討していましたが、長男の劉琦は病弱、次男の劉琮はまだ幼かったため、跡継ぎ問題に悩んでいたこともその要因です。

諸葛亮(孔明)も劉備(玄徳)の荊州継承をを強く推します。「天下三分の計」遂行のために荊州は絶好の足場となります。しかも劉備(玄徳)は劉表(景升)と遠い一族にあたる劉一門。世間的にも劉備(玄徳)の荊州継承は何の問題もないように見えます。しかし、劉備(玄徳)は固辞し続けます。

表向きには劉表(景升)に「しっかりした御息子がいるのに私が太守を引き継ぐことはできない」と伝えていますが、諸葛亮(孔明)などの側近には「彼(劉表)が私(劉備)に太守を引き継ぐことはある種の不幸(病気などの災いが要因となっている部分が多いので)であるのに対して、私(劉備)にとっては最上の喜び(待望の領地を得られるため)である…これが忍びない」と漏らしています。

まさに、劉備(玄徳)の「情」の部分が如実に表現されています。しかしながら、この場面においては、「私情」と「天下の業」を混同し過ぎでは…との意見が多いというのも事実です。

継母に命を狙われた劉琦の助けとなる

継母に命を狙われた劉琦の助けとなる

継母に命を狙われた劉琦の助けとなる

跡継ぎ問題で揺れていた荊州。ヒール役は劉表(景升)の側近蔡瑁(徳珪)です。彼の姉は劉表(景升)の後妻で次男劉琮の母親でもありました。そのため、劉琮を跡継ぎにするために日頃から前妻が産んだ劉琦の命を狙っていたのです。叔父と継母から命を狙われている…。そんな衝撃的な相談を劉備(玄徳)は劉琦から受けます。

劉備(玄徳)は諸葛亮(孔明)に何かと劉琦を助けてやってほしいと頼みますが、諸葛亮(孔明)は渋っています。劉備(玄徳)をも巻き込んでいる荊州の跡継ぎ問題…下手に首を突っ込んで荊州の諸侯に睨まれたくなかったからです。

しかし、最終的には劉琦に策を授け、劉琦は命を落とさず江夏城へ脱出することができます。

後日、曹操(孟徳)が五十万の兵力で荊州を陥落させてしまいます。劉備軍は猛烈な攻撃を受け、劉備(玄徳)の妻(側室:甘夫人)は井戸に身を投じて自害、かつてない絶体絶命のピンチが劉備軍を襲います。

そこに、わずか一万の兵で勇敢にも援軍に来たのは劉琦でした。曹操軍に対しては「わずか」でも、総勢二千人程度の劉備軍にとってはこの上なく頼もしい援軍。劉琦は自身が治めている江夏城に劉備(玄徳)一行を迎え入れ、とうとう劉備(玄徳)を助けるのです。

劉備(玄徳)は跡継ぎ問題で命を狙われている劉琦を助けようとしました。それは、政治的には大した利益もない「損得勘定なし」の行動でした。しかし劉備(玄徳)のその行動は、後日、命を張った「損得勘定なし」の劉琦の行動を呼んだのです。

我が子の無事より部下への労いを優先する 趙雲(子龍)

我が子の無事より部下への労いを優先する 趙雲(子龍)

我が子の無事より部下への労いを優先する 趙雲(子龍)

208年、河北一帯を完全に平定した曹操(孟徳)は本格的な南征軍を興します。劉備軍はひとたまりもなく、新野城を撤退しますが、劉備(玄徳)を慕う農民たちが逃げ遅れ、曹操軍の急襲を受けてしまいます。

さらに劉備(玄徳)と妻子が離ればなれとなり、行方不明。警護役となっていた趙雲(子龍)が必至に妻子を守りながら本隊(劉備)を探し回ります。

劉備の妻(側室:甘婦人)は敵からの攻撃で痛手を負い、逃亡の足手まといになるまいと、子供(阿斗:後の劉禅)を趙雲(子龍)に託して、井戸に身を投じて自害します。趙雲(子龍)は、劉備(玄徳)の子供を抱いて、曹操軍の軍勢の中を駆け回るのです。

そして、曹操軍の囲いを突破し阿斗を無事劉備(玄徳)の元へ届けたのでした。誰もが「我が子をよくぞ守ってくれた」と労いの言葉をかける…と思った矢先、劉備(玄徳)から思わぬ言葉が飛び出します。

「君(趙雲)の手柄(阿斗を守った)は本当に有難かったのだが、まずは君(趙雲)が無事で何よりだ。子はまた産めば得られるが、君(趙雲)のような優れた将はまたと得られるものではない。我が子のために危険な目に遭わせてしまって申し訳なかった。」

…要するに「我が子より君(趙雲)の方が大切だ」と言ったのですね。

この言葉に趙雲(子龍)は深く感激します。その後、赤壁の戦い、蜀建国のみならず、劉備(玄徳)没後も加えて、長い間劉備軍および蜀のために大きな役割を果たして行きます。

まとめ

まとめ

まとめ

劉備(玄徳)は中国の統一を成し遂げた訳でもなく、また、蜀がそれをした訳でもありません。にもかかわらず、三国志の物語において、なぜ劉備側の面々がクローズアップされるのか…といえば、それは「損得勘定なしの人同士の心の繋がり」が多いからです。それらは天下の業において遠回りを余儀なくされることも多いでしょうが、その「心」が天下の業と同じ方向を向いた時、その「力」は単なる職制上の繋がりよりも遥かに強固で永続性を持つものとなります。荊州滞在時には特に劉備(玄徳)の仁愛に関わる出来事が多く、それがまた、三国志全体を面白くしています。





この記事の三国志ライター

関連する投稿


実は凄かった荊州を支配した実力者【劉表】

荊州を支配した劉表は、三国志演義では優柔不断で頼りない印象を受け、劉備や孫策の引き立て役になっていました。しかし、三国時代には激戦区となる荊州を、存命中に実効支配していたのは劉表の影響力が強かったからといえます。そんな劉表の凄さをみていきましょう。


女性目線から見た「関雲長」曹操と関羽

関羽、男として魅力的。義の人、一騎当千。曹操、悪党のイメージ強いです(泣)。策略家、女好き、等関羽に比べあまり印象が良くないです。この二人を主人公にした映画から、曹操の片思いに重点を置いて観てみようというこの企画。宜しかったら最後までお付きお願いします。


【三国志の歴史を変えた!?】孔明と劉備(玄徳)の出会い三顧の礼とは

三国志は魏・蜀・呉の三つの国が戦いを繰り広げた物語です。この三国の戦いには歴史の分岐点となる事件がいくつもありますが、今回は蜀の天才軍師・諸葛孔明と三国志の主人公・劉備(玄徳)。彼らは一体どのようにして出会うことになったのでしょうか。そして二人が出会うことによって歴史はどのように変化したのでしょうか。


【武将考察】趙雲、決死の阿斗救出劇-長坂の戦い

【武将考察】シリーズの第1回。長坂の戦いでの趙雲の活躍とそこから見えてくる趙雲の性格などについて考察します。


英雄たちの物語はここから始まった!「桃園の誓い」とは?

三国志は今から約1800年前、昔の中国の史実です。(史実を元にした小説でもあります。)役人のわいろなどが横行し、治安の乱れた世を正そうと同じ志を持った若者3人が出合うところから三国志ははじまります。この出会いのシーンで最も有名なのが「桃園の誓い」なのです。


最新の投稿


春秋戦国時代 伍子胥の人生について

伍子胥(ごししょ)は、中国の春秋時代に活躍した楚の武人です。彼の本名は員(うん)で、楚の平王によって父と兄が殺されたため、復讐を誓いました。彼は呉に亡命し、楚との戦いで、ついに復讐を果たしました。しかし、後に呉王夫差が越王勾践を破った際、降伏を許そうとする夫差に反対し、意見が受け入れられず、自害させられました。


孫氏の兵法の孫武(そんぶ)とは?

『孫氏の兵法』における「孫氏」とは、古代中国の軍事思想家である孫武です。兵法書『孫子』を著し、戦争や軍事戦略に関する理論を全13篇から構成。特に「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」が有名で、戦争を避けることが最も優れた戦略であると説いています。 参考:ドラマ 孫子兵法 ‧


『キングダム』における羌瘣とは?

羌瘣は、漫画『キングダム』に登場する架空のキャラクターです。彼女は羌族出身の少女で、精鋭の暗殺者集団「蚩尤(しゆう)」に属していました。彼女は、原作、映画においても非常に魅力的なキャラクターです。その環境や周辺を史実を参考に紐解いてみます。


赤兎馬とは? 三国志初心者必見 三国志における名馬の物語

赤兎馬とは、三国志演義などの創作に登場する伝説の名馬で、実際の存在については確証がなく、アハルテケ種がモデルとされています。体が大きく、董卓、関羽、呂布など、三国時代の最強の武将を乗せて戦場を駆け抜けました。


春秋戦国時代 年表 キングダム 秦の始皇帝の時代の始まり

キングダム 大将軍の帰還 始まりますね。楽しみにしていました。 今回は、秦の始皇帝「嬴政」が、中華統一を果たす流れについて記述しようと思います。映画、キングダムのキャストの性格とは若干違うかもしれませんが、参考程度に読んでみてください。


アクセスランキング


>>総合人気ランキング