三国志・慈愛と嫉妬が入り混じる後宮での闘争劇『呉編』

三国志・慈愛と嫉妬が入り混じる後宮での闘争劇『呉編』

陰湿な権力闘争が繰り広げられる「後宮」。ここはまさに女性たちの戦場です。今回は呉の後宮の様子についてお伝えしていきます。そこにはまさかの「あの英雄」の娘も登場します。


孫権の妻

孫権の妻

孫権の妻

呉の初代皇帝に即位した孫権には、多くの妻がいました。
① 謝夫人→子はなし
② 徐夫人→子はなし(孫登を養育)
③ 歩夫人(練師歩皇后)→娘は魯班、魯育
④ 袁夫人→子はなし
⑤ 王夫人(大懿皇后)→子は孫和
⑥ 王夫人(敬懐皇后)→子は孫休
⑦ 藩夫人(皇后)→子は孫亮
他にも寵愛を受けた側室は多くいたことでしょう。はたしてどのような女性たちだったのでしょうか。今回は孫権の妻たちについてお伝えしていきます。

①プライド高き謝夫人

①プライド高き謝夫人

①プライド高き謝夫人

三国志演義には登場しませんが、三国志正史では孫権の最初の妻は「謝夫人」とされています。孫権の母親が進めた縁談です。会稽郡の名士の娘で、父親は後漢の朝廷にあって尚書令を務めています。
しかし孫権の寵愛が徐夫人に移ると、身分の序列は徐夫人が上、謝夫人を下にするよう孫権からの命令が下ります。プライドの高い謝夫人はこれを拒絶。以後、孫権からは疎んじられて病死しています。

②嫉妬深き徐夫人

②嫉妬深き徐夫人

②嫉妬深き徐夫人

「徐夫人」は孫堅の挙兵当時から従っていた徐琨の娘です。徐琨の父親は孫堅の妹を妻としており、徐家は孫権にとっては親族となります。徐夫人は初め呉郡の陸尚に嫁いでいましたが、死別し、孫権と再婚しています。
孫権には身分の低い女性に産ませた孫登という子がおり、徐夫人は母親代わりとしてその養育にあたっています。
後に孫権は徐夫人の嫉妬深さに嫌気がさし離縁。孫登が正式に太子となっても、徐夫人が皇后に認められることはありませんでした。
孫登はとても聡明で、将来を期待されていましたが若くして病で亡くなっています。

③徐夫人のライバル歩夫人(練師歩皇后)

③徐夫人のライバル歩夫人(練師歩皇后)

③徐夫人のライバル歩夫人(練師歩皇后)

徐夫人と長きに渡り孫権の寵愛を争ったのが歩騭の同族である「歩夫人」です。容姿の美しさは評判で、孫権に見初められて二人の娘を産んでいます。徐夫人とは対称的な性格で、嫉妬せず、後宮にいる他の女性たちからの信頼も厚かったと記されています。後宮では歩夫人のことを皆が皇后と呼んだそうです。しかし孫権も決断できず、結局は徐夫人も歩夫人も皇后に認めていません。ただし238年に歩夫人が亡くなると、孫権は皇后の位を追贈しています。
生前は皇后となることができませんでしたが、孫権の最初の皇后は歩夫人ということになるのです。

④名門袁家の血を受け継ぐ袁夫人

④名門袁家の血を受け継ぐ袁夫人

④名門袁家の血を受け継ぐ袁夫人

もともと孫権の父親である孫堅は、袁術の配下にありました。孫権の兄である孫策もまた同様です。しかし、孫策が江東に地盤を持つと袁術から離反し、独力勢力として力をつけていくことになります。
孫権はそんな袁術の娘を側室に迎えているのです。これは袁術が皇帝を自称し、他の群雄たちの攻撃を受けて滅んだ後のことになります。逆賊の汚名を着た袁術の娘を孫権は妻にしたのです。しかも孫権は歩夫人亡き後、この「袁夫人」を皇后に立てようとしました。

袁夫人もまた、おそらく容姿端麗だったことでしょう。少なくとも良妻だったという記述は残っています。奥ゆかしい性格もしていたのか、袁夫人は子を産めなかったことを気にしており、なんと皇后になるという提案を辞退しています。
後に太子である孫登が亡くなり、250年には新たに孫亮が太子となりました。このとき、孫亮の母である潘夫人の讒言によって袁夫人は殺されています。

⑤魯班の讒言で疎まれた王夫人(大懿皇后)

⑤魯班の讒言で疎まれた王夫人(大懿皇后)

⑤魯班の讒言で疎まれた王夫人(大懿皇后)

「王夫人」は、孫権の寵愛を受けて224年に孫和を産みます。孫和は、太子である兄の孫登が早くに亡くなったために次期太子に任命されましたが、異母姉である魯班の讒言を受けて孫権の信頼を失いました。王夫人は皇后になることなく失意のまま亡くなったといいます。
孫和はその後、権力闘争に敗れて廃太子となり、都を追われ幽閉。自害させられることとなります。しかし孫和の子である孫皓が皇帝に即位すると、王夫人は大懿皇后と諡号されました。この孫皓こそが呉の最後の皇帝です。

⑥後宮を追い出された王夫人(敬懐皇后)

⑥後宮を追い出された王夫人(敬懐皇后)

⑥後宮を追い出された王夫人(敬懐皇后)

「王夫人」は、孫権の寵愛を受けて235年に孫休を産みます。しかし孫登の死後、孫和が皇太子となると、孫和の母の王夫人が後宮の女性たちを追放しました。その中の一人に孫休の母の王夫人がいます。どちらも王夫人であるという点がやや紛らわしいですが、別人です。

やがて孫亮が皇帝の座を追われることになると、孫休に白羽の矢が立ちました。こうして孫休は呉の三代目皇帝となったのです。このとき孫休はすでに亡くなっていた母の王夫人に敬懐皇后と諡号しています。孫休は丞相として権力を握っていた孫綝を誅し、教育や農地改革などを推奨する新しい政治を開始しています。

⑦嫉妬深き潘夫人

⑦嫉妬深き潘夫人

⑦嫉妬深き潘夫人

孫権の存命中に皇后に立てられたのは「潘夫人」だけということになります。潘夫人の父親は罪により死刑となっており、潘夫人は姉とともに奴隷として働かされていましたが、その容姿の神々しさが孫権の目に留まり、後宮に入って243年に孫亮を産みました。
義母兄である孫登が早くに亡くなり、孫和が廃嫡されたために、孫亮が皇太子となり、呉の二代目皇帝に即位しています。

孫亮が太子となると、潘夫人が皇后となりました。罪人の身の上から皇后にまで登り詰めたのです。しかし嫉妬深く、後宮で周囲からの信頼の厚かった袁夫人を讒言によって殺害。孫権が病で倒れると潘夫人は懸命に看護しましたが、疲労して眠っていたところを、恨みを持った宮女らによって絞殺されてしまいます。孫権はこの事件に関わった宮女をすべて処刑しました。

まとめ・ドロドロした呉の後宮

まとめ・ドロドロした呉の後宮

まとめ・ドロドロした呉の後宮

ということで、なかなかすっきりとしない呉の後宮の権力闘争についてお伝えしました。
注目すべきはやはり袁術の娘を皇后に立てようとした点でしょうか。袁家は四世三公の名門でしたから、血統としては超一流ではあるものの、袁術は皇帝を僭称して名は地に落ちています。しかし孫権自体もまた皇帝を名乗ることになるわけですから、そんなことはあまり気にしていなかったのでしょうか。むしろ孫権は袁術の遺志を受け継いでいたのかもしれませんね。

このように「後宮」は、三国志に登場する女性たちの戦いの場でもあったわけです。しかし、どうにも陰湿ですね。しかも呉の後宮の話からは、孫権の優柔不断さを感じざるをえません。呉は内部から崩れていったということでしょう。





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