文官の貢献
■ 文官の貢献
文官の貢献
三国志といえば戦場で槍を振るって敵を討つ武将や、知略を駆使して大逆転を演じる軍師などの活躍に注目が集まります。他勢力の君主のもとに出向き同盟を結ぶ外交官もスポットライトを浴びることがありますが、内政メインの文官の功績はほとんど知られていません。あまりにも地味すぎるからでしょうか?
三国志ファンでも関羽や張飛のことはよく知っていても、「簡雍はどんな活躍をしたの?」とか「孫乾って何か功績を残しているの?」という質問にはなかなか答えられないのではないでしょうか。
しかし内政の手腕に優れている人材がいるからこそ、統治している領地の民の信頼を得ることができます。劉備(玄徳)の家臣にもそんな地道な作業をコツコツ積み上げてきた文官たちがいたはずなのです。今回はそんな中から名文官だと推測される「簡雍」「孫乾」「麋竺」の三人をご紹介していきます。
劉備(玄徳)旗上げからの家臣・簡雍
■ 劉備(玄徳)旗上げからの家臣・簡雍
劉備(玄徳)旗上げからの家臣・簡雍
三国志演義の主役でもある劉備(玄徳)の物語は、関羽や張飛と義兄弟の契りを結ぶところから始まりますね。有名な「桃園の誓い」です。一説ではこのとき、今後に迷いが生じることのないよう、それぞれの家族を皆殺しにしたといいます。ゼロからスタートするためですね。ここから劉備(玄徳)たちは流浪のような人生を長く過ごすことになるわけですが、実は劉備(玄徳)・関羽・張飛の他にも志を同じくした人物がいました。
それが「簡雍」です。字は憲和といいます。劉備(玄徳)と同じ涿郡の出身です。おそらく劉備(玄徳)が関羽や張飛に知り合う前から面識があったのではないでしょうか。戦場での活躍ぶりはまったく伝わっていませんが、義勇軍の一員として劉備(玄徳)の指揮のもと剣を振るっていたはずです。劉備(玄徳)が益州を拠点にしてからは、昭徳将軍に任じられています。これまでの経験を買われての人事だとことでしょう。
一癖ある簡雍
■ 一癖ある簡雍
一癖ある簡雍
どうやら簡雍は挙兵当時から劉備(玄徳)の相談役だったようです。参謀的役割も担っていたのかもしれません。使者の役目もたびたび果たしたと記されています。最も有名なのは成都に籠城する劉璋への使者です。三国志正史には、このとき劉璋は簡雍をたいへん気に入ったと記されています。降伏を受け入れ、劉璋は簡雍と同じ輿に乗って城を出ました。
一方で簡雍は一風変わった人物として知られており、主君の前でも姿勢はだらしなく、諸葛亮などに対してはごろ寝したまま論議したと伝わっています。それでも統治の仕組みに問題を感じると、放置せずに提起して正すという実直な仕事ぶりだったようです。
放浪を続ける劉備(玄徳)に最初から最後まで従ったわけですから、忠義に篤い人物だったということは間違いありません。
徐州で劉備(玄徳)に仕えた孫乾
■ 徐州で劉備(玄徳)に仕えた孫乾
徐州で劉備(玄徳)に仕えた孫乾
初期の劉備(玄徳)の陣営で外交の使者として活躍したのが「孫乾」、字は公祐です。ただし挙兵当初からの家臣ではありません。劉備(玄徳)が陶謙の遺言で徐州刺史となった際に召されたとあります。
冀州牧の袁紹と同盟を結ぶ使者となっています。その後は荊州牧の劉表と同盟を結ぶ使者になっています。劉表は孫乾の人柄をかなり信用したようで、劉備(玄徳)とほぼ同格の扱いをしています。益州を支配するようになってからは秉忠将軍に任じられました。
三国志演義では孫権への使者となったり、張魯の陣営への使者としても活躍しています。
おそらく内政においてもかなり貢献したのだと思われますが、具体的な点は伝わっていません。人柄もよくわかりませんが、使者を務めるぐらいですから誠意溢れるような感じだったのではないでしょうか。関羽や張飛のアドバイザーもしていたようですから、兵法にも通じていたのかもしれません。
徐州の名士・麋竺
■ 徐州の名士・麋竺
徐州の名士・麋竺
劉備(玄徳)配下の文官の一番手といえば「麋竺」字は子仲です。麋竺は人徳に優れているだけでなく、弓馬も得意で、さらに徐州では有数の資産家でした。麋竺の家に仕える小作人は1万人に及んだといいます。これはかなりの規模です。流浪の身の上だった劉備(玄徳)にとっては頼りがいのあるスポンサーだったともいえます。
麋竺はもともと徐州牧・陶謙に仕えていましたが、その跡を引き継ぐことになった劉備(玄徳)に肩入れしていきます。劉備(玄徳)が呂布に下邳を奪われた際には、麋竺は妹を劉備(玄徳)の夫人とし、二千の私兵と軍費を提供しました。曹操は麋竺を太守にまで任命していますが、劉備(玄徳)が曹操に背いたことを知ると官を辞し、すべての財産を捨てて劉備(玄徳)に従っています。
諸葛亮より上位だった麋竺
■ 諸葛亮より上位だった麋竺
諸葛亮より上位だった麋竺
このような献身的な支えがあってこそ劉備(玄徳)は益州で再興することができたのです。だからこそ益州平定後は諸葛亮よりも上位の安漢将軍に任じられています。蜀が建国されてからも健在であれば丞相として活躍したことでしょう。しかし、それ以前に麋竺は病気になりそのまま息を引き取ります。
病気になった原因は、弟である麋芳の行動です。麋芳が劉備(玄徳)を裏切り、孫権に寝返ったため、荊州の総司令官だった関羽は退路を断たれて崩壊し、捕らえられて処刑されてしまいます。麋竺は処罰されることがありませんでしたが、恥と怒りのあまりに病気になったと伝わっています。
まとめ・文官の功績はあまり記されていない
■ まとめ・文官の功績はあまり記されていない
まとめ・文官の功績はあまり記されていない
劉備(玄徳)から信頼された三人の文官「簡雍」「孫乾」「麋竺」ですが、内政の功績などはほとんど伝わっていません。益州に腰を据えるまでの劉備(玄徳)にとっては、内政に力を注ぐほどの余裕がなかったのかもしれませんね。しかし、縁の下の力持ちとなった三人の働きがあればこそ、劉備(玄徳)は乱世の中を生き残れたはずです。益州平定後の彼らへの厚遇ぶりがそれを物語っています。
文官三人の立場で見た三国志、劉備(玄徳)はどのようなものだったのでしょうか。ちょっとだけ興味がありますね。三人はどんな思いで敗北を繰り返す劉備(玄徳)に仕えていたのでしょう。そして、はたしてどれほどの激務だったのでしょうか。その仕事ぶりは、現代人であれば過労死していたレベルだったかもしれません。「志」があればこそ、三人は最後まで頑張れたのでしょうね。