蜀の君主 劉備(玄徳)
■ 蜀の君主 劉備(玄徳)
蜀の君主 劉備(玄徳)
前漢の末裔にして、蜀の初代皇帝。貧しい暮らしを経て、民を助けたいという思いが生まれました。
「三国志演義」の主人公なので、(史実に置いて)不参加の戦いにも登場することがあります。
巨漢の関羽と張飛とともに義兄弟の契り(桃園の誓い)を交わしたほか、知略に長けた諸葛亮の元を3度訪れたこともあります。赤子を抱えて単騎で駆け抜けた趙雲も、劉備(玄徳)の配下です。
また、諸葛亮が考案した「天下三分の計」により、成都に城を建てました。
晩期では義兄弟の死がきっかけで病に倒れましたが、その後も諸葛亮によって蜀はしばらく守られ続けました。
桃園の誓いとは
■ 桃園の誓いとは
桃園の誓いとは
「桃園の誓い」は、劉備(玄徳)・関羽・張飛の3人が義兄弟の契りを交わした出来事を指します。左から長男・次男・三男です。
その内容は、「俺たちの生まれた時間は違うけど、死ぬときは一緒だ」というもの。逆賊討伐を募る掲示板を見ていた際、劉備(玄徳)はため息をつきました。すると張飛に声をかけられ酒場に連れていかれたあと、関羽とも出会います。
やがて彼らは意気投合したため、張飛の家の庭で契りを交わしたのです。このとき、桃が多く咲いていました。
史実でこの出来事は起きていませんが、有名なエピソードとして長く語り継がれています。
名族に肩入れした劉表
■ 名族に肩入れした劉表
名族に肩入れした劉表
劉備(玄徳)が前漢の皇族の末裔であるのに対し、劉表は「後漢」のそれにあたります。荊州を治めていました。
孫堅(呉の君主の父親)が玉璽を手に入れたことで、名族の袁紹が激怒。袁紹は孫堅を失脚させるために、劉表を頼りました。劉表が孫堅を攻撃したことで、孫堅がリベンジとして荊州に侵攻します。
劉表には部下の黄祖がいたため、黄祖に孫堅への返り討ちを命じます。黄祖がわざと撤退することで孫堅を誘導したのち、大量の矢で射殺しました。
劉表は孫堅を殺した人物として有名ですが、一方で劉備(玄徳)を同族として城を与えています。魏の曹操が侵攻してきた頃には病で倒れていたため、後を劉備(玄徳)に託したそうです。
違う道を歩んだ劉キと劉琮
■ 違う道を歩んだ劉キと劉琮
違う道を歩んだ劉キと劉琮
劉キ
長男。父の劉表に可愛がられていましたが、継母の嫌がらせによって父からの対応が一変します。弟(劉琮)へのひいきに嫌気がさした劉キは、諸葛亮からのアドバイスで他方へ移りました。のちに劉備(玄徳)に管理職を任されますが、翌年に病死してしまいます。
劉琮(りゅうそう)
次男。周囲が兄を追い払ったことで劉表の後継者となりますが、その後曹操に降伏します。
曹操への降伏後は、演義と史実で大きく変わります。演義では曹操の部下に殺害されますが、史実では仲間とともにキャリアアップしています。
期待外れの兄弟 劉岱と劉ヨウ
■ 期待外れの兄弟 劉岱と劉ヨウ
期待外れの兄弟 劉岱と劉ヨウ
宗族の血を引く兄弟。ある人物はこの劉兄弟を登用する際、こう評価します。
「この兄弟なら、2人の力で天下を変えられるでしょう」
しかし、兄弟ともにこの期待を後に裏切ってしまいます。
劉岱
董卓の討伐に参加。多くの武将が参加した結果、董卓を追い払ったことで毎日宴会ムードに。兵糧が尽きて解散した後、かつて討伐に参加していた武将と口論になり、殺害してしまったのです。
劉ヨウ
19歳の頃、盗賊に捕まった叔父を助けたことがある劉ヨウ。兄とともに登用されるも、戦いから逃れるために辞退します。部下には、武勇に長けた太史慈がいましたが、周囲の目を気にして上手く使いこなせなかったそうです。(その後、太史慈は呉で大活躍します)
魏の重臣 劉曄(りゅうよう)
■ 魏の重臣 劉曄(りゅうよう)
魏の重臣 劉曄(りゅうよう)
さて、「劉」という姓を見ると無所属か蜀を思い浮かべるかもしれません。しかし、この劉曄は魏(曹操)の下で様々な策を提案しました。曹丕と曹叡が後を継いだ時代でも貢献しています。
曹丕の時代では、部下の裏切りや、劉備(玄徳)による呉への復讐を予測。曹丕はこれらの話を受け入れませんでしたが、予想を当てることは容易ではないと筆者は思います。
(余談ですが、関羽は呉の人物に殺害されたため、蜀は呉に対し報いを持ち掛けます)
ところが、曹叡の時代では優柔不断ぶりが顕著になります。政論について曹叡と朝まで語り合ったのち、晩に語ったこととは違うことを言い出すのです。それ以降は信用されず、魏の武将に首をはねられました。
蜀のパイオニア 劉焉
■ 蜀のパイオニア 劉焉
蜀のパイオニア 劉焉
劉焉は、三国志が始まったころに活躍した政治家です。入蜀の先駆けとして有名ですが、それはなぜでしょうか?
知識を身につけた劉焉は、教師として名声を得ました。そして皇帝に携わる管理職へと登りつめます。
あるとき政治の乱れを感じた劉焉は、派遣として益州という地域に向かいます。益州では重税が問題となっていたため、劉焉がその地域の管理職となります。のちに蜀の本拠地になったので、これが「入蜀の先駆け」といわれる所以です。
しかし、これまで献身的だった劉焉は堕落し、豪華な馬車を作ることで威厳をアピールしました。住民たちに優しく接しながらも、野心を秘めていたのです。
やがて様々な不幸に苛まれ、そのまま病死します。
悲運の息子たち
■ 悲運の息子たち
悲運の息子たち
劉焉には4人の息子がいましたが、そのうちの3人は長安に仕えていました。
長男の劉範と次男の劉誕は、長安でクーデターを起こします。このころは暴君の董卓が殺害されたばかりで、腹心の李カクが実権を握っていました。
しかし、クーデターは失敗。戦死した劉範と処刑された劉誕は、長安の市場で晒し首になってしまったのです。
また、三男の劉ボウだけ父の側にいました。劉ボウは将軍として認められたものの、精神を病んで他界します。
未亡人となった呉氏は、やがて劉備(玄徳)の妻として迎えられました。
独立した四男 劉璋
■ 独立した四男 劉璋
独立した四男 劉璋
若いころは、劉範や劉誕と共に長安で仕えます。皇帝は劉璋を益州に派遣しましたが、劉焉が「2度と戻すな」と言ったためそのまま君主になります。
しかし、劉璋は国を治める力に乏しかったため、益州での反乱を治めることに難儀していました。
劉璋を見限った重臣たちは、「劉備(玄徳)に後を任せよう」と提案。劉璋は劉備(玄徳)を受け入れましたが、彼の熱意を疑ったことで不仲になります。
やがて劉備(玄徳)は成都城に向けて進撃。劉璋軍の抵抗は打ち砕かれたのち、劉璋は「これ以上民を苦しませたくない」と降伏しました。
劉備(玄徳)の命を受けて荊州の警察となりましたが、のちに呉に荊州を奪われたことであっさり帰順してしまいます。
漢王室と由縁のある劉氏
■ 漢王室と由縁のある劉氏
漢王室と由縁のある劉氏
今回紹介した劉氏は、誰もが漢王室の血を受け継いでいます。しかし、最も後世まで語り継がれたのは劉備(玄徳)だけです。
劉氏にまつわる話といえば、荊州と益州が思い浮かぶかもしれません。
また、荊州は劉表の領地ですが、のちに関羽が(呉に)殺された場所となります。関羽は劉備(玄徳)の義弟だったため、呉に復讐を誓ったのは言うまでもありません。
もし劉岱が日々の宴会に流されなかったら、評価通りの人物像に近づいていたでしょう。盗賊を倒した劉ヨウもまた、もったいないことをしたと思います。
王家の血を引いているといえど、結局その血を活かすのは己の強い意思ではないでしょうか。