とにかく趣味人であった曹操
■ とにかく趣味人であった曹操
とにかく趣味人であった曹操
曹操孟徳。言わずと知れた、三国志の主役格の登場人物の一人です。よく知られた評語として、「治世の能臣、乱世の姦雄」というものがあります。ずっと後世、『十八史略』という、「概説・中国の歴史」みたいな感じの本の中で書かれたもので、あまり褒めてません。「乱世だから活躍できたが、平和な時代に生まれていたらちょっと優秀な官吏くらいなもので一生を終えていたろう」といったようなニュアンスです。
果たしてそうでしょうか。政治家・実質的な魏の建国者としての功績は、この際あっちに置いておきます。それを除外しても、曹操には多くの文化的業績があります。
例えば、曹操は食通として名を知られ、料理の研究家としてもハイアマチュアであったらしく、酒造法の歴史にその名前が残っていたりします。
また、息子の曹植が大物すぎるのでその前では霞んでしまうとはいえ、詩人としてもかなりの才能があったようです。
しかしまあ、その程度は趣味の領域といってしまえばそこまでで、能臣が片手間でやれるレベルのことかもしれません。
偉大な兵法家としての一面
■ 偉大な兵法家としての一面
偉大な兵法家としての一面
しかしこれはどうでしょうか。「今日読まれている『孫子』のテキストは、事実上、曹操が今の形にした」。これは大変な業績です。『孫子兵法』といえば、今でも広く読まれていて、世界史上の兵法書の代表格みたいに言われている本なのですから。
曹操の評ですが、『十八史略』よりはるかに以前、陳寿は「正史」『三国志』の中で「非常の人、超世の傑」と述べています。「只者ではなかった。時代を越えた英雄だった」という意味です。こちらの方が、よほど曹操の文武にまたがる才能への評としては相応しいものと考えられるのですが、ともあれ、まずは『孫子』について解説していきましょう。
『孫子』を書いたのは誰だったのか
■ 『孫子』を書いたのは誰だったのか
『孫子』を書いたのは誰だったのか
『孫子』は、諸子百家といわれる、三国志以前の古代中国のさまざまな学問体系の中の一つ「兵家(へいか)」を代表する書物です。
説明が前後しますが、現在読まれている『孫子』は、『魏武帝註孫子』もしくは『魏武註孫子』などと言われ、曹操が註釈を加えたものです。曹操は死後になってから魏の武帝と呼ばれたので、名前はそれに由来します。
ところで諸子百家の本にはよくあることなのですが、この『孫子』も長いこと、誰が書いたのか、あるいは何人がかりで書いたのか、よく分からなくなっていました。昔、有名だった説は、『孫という姓の、兵学者の一族が代々書き継いだもので、その中でも特に重要だったのが孫武と孫臏(そんぴん)の二人であった』というものです。
また、孫臏が一人で書いたものだ、という説もあり、こちらも結構支持されていました。
ですが今ではこれらの考え方は否定されています。孫臏という兵法家は確かに実在し、その作品も発見されたのですが、それは少なくとも『魏武帝註孫子』には収録されていない別のテキストであった、ということが分かったからです。
そもそも、曹操による『魏武帝註孫子』よりも成立の古い『漢書』には、『呉孫子兵法』という兵法書があり、82巻と図9巻からなる、という記述があります。これは現存しませんが、漢書が書かれた頃にはそのようなものが存在したのだと考えられます。つまり、『孫子』のテキストにはミッシングリンクがあるのです。
『孫子』の最初の執筆者は「孫武」という人物
■ 『孫子』の最初の執筆者は「孫武」という人物
『孫子』の最初の執筆者は「孫武」という人物
現在では、現存する『孫子』の著者は孫武である、というのが通説になっています。いますが、これも諸子百家にはよくあることなのですが、孫子が本名ではない(子、は敬称です)のは当然として、武というのも名ではなく称号のようなものだという説があり、その説を採った場合、本名は不明ということになります。
呉に仕えた名将?それとも、伝説上の人物?
■ 呉に仕えた名将?それとも、伝説上の人物?
呉に仕えた名将?それとも、伝説上の人物?
ともあれその伝記については『史記』に記述があり、紀元前500年前後の人で、斉の出身でのちに呉に移り住み、越王・勾践のライバルとして有名な呉王・闔閭に仕え、十三篇からなる兵法書を著して王に献上した、とされています。
呉の名将としていろんな活躍をした、という話が残っているのですが、真偽のほどは疑わしいという説もあり、また、他に孫武について記した史料が少ないという問題もあって、詳しいことはよく分かりません。過去には「架空の人物だった」という説も根強かったほどです。
孫武の死後の『孫子』たち
■ 孫武の死後の『孫子』たち
孫武の死後の『孫子』たち
いずれにせよ、孫武の年代のあと、『孫子』と呼ばれていた兵法書はあちこちで珍重され、多くの人が(多分勝手に)内容を付け加えるなどしていったようです。その中には孫武の子孫も実際にいたのかもしれませんし、そうでない人もいたのかもしれません。そのあたりは何とも言えないところです。
推測になりますが、漢書のいう『呉孫子兵法』は孫武の書いた13篇を中心に、追加の章が加えられたものだったのではないか、と考えられます。参考になるのは、兵法書ではありませんが『荘子』という書。こちらは内篇七篇、外篇十五篇、雑篇十一篇という形で現代に伝わっているのですが、おそらくは「荘子」自身が書いたのは内篇のみで、外篇は他人の筆によるもので価値がだいぶ下がり、雑篇に至っては読む価値もない、みたいな評価を受けていることが多いです。『孫子』も、おそらくそういうことになっていたのでしょう。
「魏武」曹操による『孫子』の再編纂事業
■ 「魏武」曹操による『孫子』の再編纂事業
「魏武」曹操による『孫子』の再編纂事業
曹操は乱世を生きた英雄です。兵法の編纂は、趣味的な側面もまったくなかったわけではないでしょうが、それにしても実用性の高い事業です。「内容のレベルが低い」余分な書き足しの部分はばっさりとカットして、使えるところだけ残す、という発想になるのは必然だったでしょう。
というわけで、無駄に長く書き足され過ぎていた『孫子』は、曹操の手でもとの13篇にまで再編集され、本来の姿に近いものに戻りました。また、曹操自身も、本文ではなく本文に対する註釈、まあ付け足しや解説のような形で、自身の見解を述べました。歴戦の武人であり、また優れた文人でもある曹操の書いたものですから、それ自体価値のある註釈である、と今に評されています。
曹操はいつ頃、『孫子』の編纂を行ったのか?
■ 曹操はいつ頃、『孫子』の編纂を行ったのか?
曹操はいつ頃、『孫子』の編纂を行ったのか?
さて、『魏武帝註孫子』がいつ頃曹操によって作られたかですが、推測が混じるとはいえかなり詳しく割り出すことができます。曹操は文中で自分のことを「操」と書いています。赤壁の戦いより後になると曹操は君公に叙され、「孤」という一人称を使うようになるので、それより前であるはずです。
また、官渡の戦いの後であるという傍証もあり、204年に死んだ人物が曹操の『孫子』について言及していた、という状況証拠もあります。すると、おそらくは201年から203年にかけて、と絞り込むことができるのです。
なお、そのあとにも続編を作ったり、別の兵法書を書いたりもしたらしいのですが、それらは残念ながら、長い年月のうちに散逸してしまいました。
とはいえ、貴重な『孫子』のテキストを曹操の業績のおかげで現代の人々も読むことができるのですから、この点については我々も曹操に感謝してもよいのではないでしょうか。