実は魅力たっぷり?呉をまとめあげた孫権(仲謀)について!

実は魅力たっぷり?呉をまとめあげた孫権(仲謀)について!

三国志と聞いたら劉備(玄徳)、諸葛亮(公明)、もしくは曹操(猛徳)という名前が浮かび上がるのではないでしょうか。正義を掲げる「蜀」に対し悪の「魏」が立ちはだかるという構図を思い浮かべている人もいるでしょう。そんな人たちにとっては孫権(仲謀)?呉?と思うかもしれませんが実は魅力たっぷりなのでご紹介します。


孫権(仲謀)が呉の盟主に

孫権(仲謀)が呉の盟主に

孫権(仲謀)が呉の盟主に

孫権(仲謀)は兄、孫策(伯符)が亡くなったため呉の盟主となりました。父の孫堅(文台)、兄の孫策(伯符)が軍事的基盤をすでに作ったから恵まれた環境での盟主スタートを切ったといういわれ方もされますが、私は逆だと思います。孫策(伯符)は小覇王と言われるくらい武に飛んだ人物です。現代風に言ってみれば超難関医学部に余裕で一発合格してしまう兄がいたという感じです。その後を継ぐという場合普通家臣は「こいつは兄に遠く及ばない」と思うことでしょう。
しかしその兄が「賢者を用い才能を重んじて心を尽くさせて江東を保持していくことに関して私はお前に及ばない」と言ったのです。
そこまで見抜いている兄もすごいですがそういわせた孫堅(仲謀)は見る目があるということでしょう。
曹操(猛徳)は人材発掘に関しての目がありました。劉備(玄徳)には将軍がついていきたいと思わせる儀がありました。孫権(仲謀)はそのどちらもがあったのではないかと思います。
曹操(猛徳)と劉備(玄徳)が対局にあるとしたら孫権(仲謀)は中間点に位置し、まさに三国がきれいな正三角形を作っている形だと思ってもらえればより楽しくなるのではないでしょうか。

他者の孫堅(仲謀)に対する評価

他者の孫堅(仲謀)に対する評価

他者の孫堅(仲謀)に対する評価

三国志を編纂した陳寿は三国志呉書の孫権伝で孫堅(仲謀)をカキのように記しています。
孫権は身を屈して辱を忍び、蔡を重んじ計をとおとび、勾践の奇英有り。人の傑なり。故にみずから公表にほしいままにして鼎峙の業を成す。
身を屈して辱めを忍ぶとは魏国に対して何度も窮地に追いやられていても反撃のチャンスをじっとこらえて待っていたということです。
勾践の奇英とは春秋時代末期に呉王夫差に敗れて報復を誓った越王が優れた士の意見を尊重し報復を成し遂げたということです。
鼎峙の業を成すは三大勢力を成す。ということです。
これは曹操(猛徳)、劉備(玄徳)に劣らなかったという解釈でいいのではないでしょうか。

孫権(仲謀)の人材発掘力

孫権(仲謀)の人材発掘力

孫権(仲謀)の人材発掘力

孫権(仲謀)は曹操(猛徳)と同じように読書家でした。読書に関してただ一つ彼が曹操(猛徳)と違う点があるとすれば、それは人に勧めるか勧めないかの違いだと思います。曹操(猛徳)は許著(仲康)や典韋などに読書を勧めなかったのではないかと思います。しかし孫権(仲謀)はやんちゃな呂蒙(子明)や蒋欽(公奕)と言った次世代の呉のリーダーになりうる存在の将軍に読書を勧めます。
特に呂蒙(子明)は学問を身に着けるのにはまり、周瑜(公瑾)、魯粛(子敬)の後を受けて呉国の軍師名将にまでなりました。呂蒙(子明)はよほどの悪ガキだったのでこのサクセスストーリーはいわばビリギャル的なものがあります(もちろんレベルは全然違いますが)
もちろんこれは呂蒙(子明)の努力のたまものと言えますが、学問の入り口に孫権(仲謀)がいたからここまで成長したと言っても過言ではありません。
このように孫権(仲謀)は人を焚きつける力は三国志一だったのではないかと思います。

曹操(猛徳)の評価は高い

曹操(猛徳)の評価は高い

曹操(猛徳)の評価は高い

曹操(猛徳)の孫権(仲謀)に対する評価は劉備(玄徳)のそれと違いかなり高いです。曹操(猛徳)、孫権(仲謀)がともに読書家で劉備(玄徳)が読書嫌いということもあるかもしれません。とりわけ曹操(猛徳)が孫権(仲謀)を買っているのは「子供をもうけるのならば孫権のごときがよい」という一言で容易に想像がつきます。親子ほど離れている曹操(猛徳)は孫権(仲謀)の胆力と軍略を相当買っていたのでしょう。
もしかしたらそれゆえの赤壁の戦いだったのかもしれません。早く攻めないと孫権(仲謀)は江東で力を蓄え後々物凄い脅威となるというのを予測して多少無理をしてでも攻めに出た。そう考えると疫病がはやっても強引に責めたという行動も納得がいきます。
袁述(公路)は兄の孫策(伯符)を買っていましたが、曹操(猛徳)は孫権(仲謀)を買っていたのではないかと思います。

孫権(仲謀)が強固な国を造っていった

孫権(仲謀)が強固な国を造っていった

孫権(仲謀)が強固な国を造っていった

孫策(伯符)が言うように攻めに出るなら孫策(伯符)の方が凄かったでしょう。しかし、また彼が言うように国力を挙げて屈強な国を造るという意味では孫権(仲謀)の方が勝っていたのかもしれません。というのも孫権(仲謀)は諸政策を打ち出すのに熱心でした。それが出来なければ外圧に耐えることが出来ないと考えたからです。
原住民(山越)を討伐し、彼らを移住させ屯田制を打ち出しました。また10万人以上の投降してきた山越を軍隊に組み入れたり開墾農業をやらせたりしました。
造船にも力を入れ水上、海上交易を盛んにさせ今のカンボジアやベトナムと友好関係を結び海外貿易を行い飛躍的に経済を発展することができました。

孫権(仲謀)の失敗

孫権(仲謀)の失敗

孫権(仲謀)の失敗

とは言え孫権(仲謀)がしたことすべてが成功したわけではありませんでした。国の基盤を作り、南と貿易を栄えさせたり開墾したりすることにより一つ弊害が出てしまいました。それは
元々呉を支えていた北方出身の豪族としてはつまらなく感じてしまったことです。さらに監察制度を設け家臣の些細な過失まで糾弾するようになったため度々不満を漏らすものが出てきてしまったのです。
孫権(仲謀)がいきているうちはまだよかったのですが、跡継ぎを決める際にはもめるようになり側近中の側近と言っても過言でもない陸遜(伯言)まで納得いかない感じとなってしまいました。
良かれと思ってやったことでしょうが、監察制度や南方への力入れが裏目に出たようです。
何事もやり過ぎは禁物でたまに羽目を外すぐらいの方が人間味があっていいのかもしれませんね。

まとめ

まとめ

まとめ

孫権(仲謀)はあまり多くを語られないという訳ではありませんが、やはり劉備(玄徳)、曹操(猛徳)に比べたら脚光は浴びていません。そんな彼について少しでも見方が変わったり、思い入れが強くなったり、こんなことがあったんだと思ってもらえれば幸いです。
長年呉を支えていただけあって魅力たっぷりの孫権(仲謀)ですが晩年はちょっとトチッてしまった感があると思うのは私だけでしょうか。結局呉は孫権(仲謀)が亡くなってから盟主に恵まれず、最終的には孫晧(元宗)というどうしようもない奴が誕生してしまいました。
まだ元気なうちに次の代にバトンパスをするのも重要なようですね。





この記事の三国志ライター

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