魏とその君主・曹操って?
■ 魏とその君主・曹操って?
魏とその君主・曹操って?
三国志は、3つの国「魏」「呉」「蜀」の歴史を描いた物語です。
そのうちの1つ「魏」は、主に能力重視。武勇・知略ともに優れた部下が多くいます。君主である曹操やその息子・曹丕らが存続させていたことから、「曹魏」と称されることもあります。
三国志最大の戦争「赤壁の戦い」では蜀と呉の猛攻によって敗北しましたが、のちの「合肥の戦い」では呉を見事打ち負かしています。やがて「樊城の戦い」では、呉の協力を経て蜀の軍神・関羽を撃破しました。
史実に脚色を加えた『三国志演義』では、蜀がヒーロー的な位置づけであるのに対し、悪役のようなニュアンスで描かれています。
魏の君主・曹操(孟徳)
■ 魏の君主・曹操(孟徳)
魏の君主・曹操(孟徳)
「治世の能臣、乱世の奸雄」と呼ばれた男。彼もまた文武両道です。さらに、不正な権力者に臆せず、政治を徹底的に改革させたこともあります。
悪漢・董卓の暗殺失敗を機に、「曹魏」として国を治めることを決意しました。曹操が逝去したあとは、曹丕が初代皇帝に。さらなる未来は、曹丕の息子・曹叡(そうえい)に託されました。
三国志演義で悪党のレッテルを貼られる曹操ですが、部下に頼り切ることなく自身も努力を怠ることはありません。
五大将軍とは
■ 五大将軍とは
五大将軍とは
五大将軍は、曹操に認められた名将5人を指します。メンバーは張遼・于禁・徐晃・楽進・張コウ。
同じく蜀にも「五虎大将」が存在しているため、似たような位置づけと考えてよいでしょう。また、四方将軍を任されたこともありました。
陳寿(中国かつての筆者)による『三国志・魏書』では、第17巻「張楽于張徐伝」にてまとめられています。
魏の名将といえば、夏侯惇や夏侯淵・曹仁らを思い浮かべるかもしれません。しかし、彼らは曹操の親族なのでこちらとは別扱いとなっています。
蜀の五大将軍「五虎大将」とは
■ 蜀の五大将軍「五虎大将」とは
蜀の五大将軍「五虎大将」とは
蜀の君主は劉備(玄徳)。彼は、趙雲・関羽・張飛・馬超・黄忠の5人を大きく称えました。
なかでも関羽は、敵味方問わず「軍神」として人々の心を惹きつけていました。関羽が一時的に曹操の配下となっていたときは、曹操が限りなく尽くしたのです。
やがて神格化され、アジア圏では関帝廟が設置されるようになりました(日本では、横浜中華街が代表的)。
趙雲も、三国志演義では義に厚いイケメン武将として描かれています。「長坂の戦い」では、赤子を連れたまま単騎で大軍を駆け抜けました。
五大将軍その1:張遼
■ 五大将軍その1:張遼
五大将軍その1:張遼
五大将軍の筆頭に位置付けられた武将。合肥の戦い(魏 VS 呉)にて、圧倒的な勝利をもたらしたことで有名です。
優れた武力を持っていたため、かつては董卓や呂布の配下として活躍していました。呂布が曹操と劉備(玄徳)に処刑されてからは、魏に忠義を尽くします。
また、礼節を欠かさない人物でもあったので、敵の関羽からも信頼されていました。一時的に魏の配下だった関羽は、魏から離れる際に張遼に本音を明かしたことがあります。そして、張遼を通じて曹操に3つの条件を提示したそうです。
泣く子も黙る張遼
■ 泣く子も黙る張遼
泣く子も黙る張遼
合肥の戦いでは、戦時中に楽進や部下から反感を買っていたことがあります。しかし、張遼は「国のためなら1人でも構わない」と強い意志を示したため、協力して敵を挟み撃ちにします。
勝利を収めて以来、呉では「泣く子も黙る張遼」と噂されるように。呉に住む子どもが泣き止まない場合、「張遼が来るぞ」と言えば必ず泣き止むほどでした。
五大将軍その2:于禁
■ 五大将軍その2:于禁
五大将軍その2:于禁
于禁もまた、強い意志を持った魏の武将です。楽進とともに高い地位にありました。
三国志最初の戦争「黄巾の乱」で友人とともに戦っていましたが、その友人の戦死後は馴染みとして曹操の配下に。以後、魏の古き武将として様々な戦いで活躍しました。「潼関の戦い」では、五虎大将の1人・馬超との一騎討ちも行っています。
呂布軍の拠点・下邳城を攻略した際、呂布を生け捕りにしたことがあります。呂布は、多くの敵を怖気づかせた猛将として「天下無双」という二つ名がありました。そんな強敵を捕らえたことは、大きな功績といえるでしょう。赤壁の戦いでは、水軍提督を務めていました。
生きるために降伏した于禁の晩年
■ 生きるために降伏した于禁の晩年
生きるために降伏した于禁の晩年
樊城の戦いでは樊城を包囲していましたが、川の氾濫によって関羽に降伏。関羽が殺害されたあとは呉へたらい回しにされた挙句、呉の部下から罵声を受ける羽目に。
数年の時を経て、于禁は曹丕の元へ帰還。曹丕は于禁に曹操の墓を参拝させましたが、これには理由があります。曹操の墓には、忠義に背き関羽に降伏した于禁の様子が描かれていたのです。これを見た于禁は屈辱のため病に伏し、この世を去りました。
ルールに忠実で、古くから魏に携わっていた于禁。悲しい末路を迎えましたが、生きるために降伏したことは英断だと感じます。
五大将軍その3:徐晃
■ 五大将軍その3:徐晃
五大将軍その3:徐晃
徐晃は、主に「官渡の戦い」「合肥の戦い」「樊城の戦い」で勝利に導きました。また、張遼と共に戦うことが多かった武将です。
かつては楊奉の配下として曹操への帰順を進言しましたが、楊奉はこれを無視。楊奉が曹操に倒されて以来、曹操に忠義を尽くします。
輝かしい功績を挙げても驕る様子はなく、寡黙を貫き通した徐晃。曹操への恩を大切にしていたため、徒党を組むこともありませんでした。
三国志演義では、大斧の名手として描かれています。
徐晃が主に活躍した戦い3つ
■ 徐晃が主に活躍した戦い3つ
徐晃が主に活躍した戦い3つ
曹操とその幼馴染・袁紹が対立した「官渡の戦い」。徐晃は、袁紹軍の兵糧庫を焼き払うことに成功しました。
曹操軍の兵力が7万であるのに対し、袁紹軍はその10倍。圧倒的な兵力差でしたが、徐晃らの活躍もあって勝利を収めました。
三国志演義におけるこの戦いでは関羽に助けられていますが、史実では自らの力で敵の精鋭兵たちを破っています。
「合肥の戦い」では、呉の君主・孫権の孤立に成功。張遼と手を組み、孫権を包囲しました。
さらに、「樊城の戦い」では関羽を破っています。長距離での進軍を経て正面突破したため、曹操は徐晃を褒め称えました。
この功績は、のちに「長躯直入(長躯)」という故事成語を生み出したのです。
五大将軍その4:楽進
■ 五大将軍その4:楽進
五大将軍その4:楽進
魏の中で最も古い武将。董卓討伐にあたって曹操が兵を募らせていた際、一番最初に駆け付けました。
小柄でありながら、度胸が据わった人物ともいわれています。進軍する際は、楽進が常に先陣を切っていました。
「赤壁の戦い」で曹操が敗北したあと、楽進は襄陽(じょうよう)にとどまります。そして、追い打ちをかけようとする関羽ら蜀軍を敗走させました。これにより、ちょうど暴走していた近隣の異民族も降伏します。
「合肥の戦い」では、迎撃後にわざと逃げ出したことで孫権軍を橋へ誘導。部下がその橋を切り離し、張遼らが挟み撃ちを行います。楽進の誘導により、孫権軍に大きなダメージを与えました。
五大将軍その5:張コウ
■ 五大将軍その5:張コウ
五大将軍その5:張コウ
五大将軍4人とはそれぞれ別働隊を率いていた武将。
張コウといえば、かつて袁紹の下で働いていたことが有名ですが、それ以前は別の君主と共に黄巾の討伐を行っていました。
官渡の戦いにおいて、計略を袁紹に採用されなかった張コウ。
しかし、曹魏の配下になってからは粘り強さを発揮。五虎大将である趙雲・張飛・馬超・黄忠の4人とそれぞれ一騎討ちに挑んでいます。
主な戦争では、合肥の後に起きた「定軍山の戦い」「街亭の戦い」で活躍しています。特に街亭の戦いを語るなら、張コウの存在は欠かせません。
定軍山の戦いで五虎大将と交戦
■ 定軍山の戦いで五虎大将と交戦
定軍山の戦いで五虎大将と交戦
山沿いにある蜀にとって、漢中は交通の便がいい地域です。蜀が動いたことを知った曹操は、夏侯淵や張コウに漢中の守備を頼みます。
しかし、主力の夏侯淵が黄忠に討たれたため、張コウが急きょ軍を率いることに。
兵糧庫を狙いに来た黄忠を迎撃したのち、救援として駆け付けた趙雲とも交戦しました。
逆転のチャンスを活かした張コウ
■ 逆転のチャンスを活かした張コウ
逆転のチャンスを活かした張コウ
魏は定軍山の戦いで敗北しましたが、街亭の戦いでは張コウによって挽回しています。
諸葛亮(蜀の天才軍師)による吹聴は、魏の軍師・司馬懿を失脚させました。さらに、諸葛亮は魏の部下・姜維に目をつけて帰順させます。
司馬懿の出陣を受けて、蜀では馬謖が(諸葛亮の指示により)街亭を守備。
諸葛亮は、屈強な魏軍を知略で翻弄してきました。この街亭の戦いも蜀の勝利目前でしたが、馬謖が独断で守備を放棄します。これを見た張コウは、馬謖を追い込んで勝利を収めました。
一方、蜀では諸葛亮が馬謖を処断。馬謖は蜀の後継者に相応しい人物でしたが、泣く泣く斬ったことから「泣いて馬謖を斬る」という言葉が生まれました。
忠誠心と強さを兼ねた五大将軍
■ 忠誠心と強さを兼ねた五大将軍
忠誠心と強さを兼ねた五大将軍
五大将軍と五虎大将は、ただ対照的なだけでなく、互いに交戦したことがあります。
特に、樊城の戦いや関羽とは関連性が強いように見えます。また、潼関の戦いでは馬超が于禁と張コウを破りましたが、彼らはハイライトになるほどの存在感があります。
メンバー内では楽進と張遼が仲たがいをしましたが、合肥の戦いを経て協力し合うようになります。
個々の能力が高くても、横柄であれば天下統一の実現は難しかったでしょう。
優れた武力と強い信念を抱いた五大将軍。魏が屈強である秘訣は、彼らにあるのかもしれません。