夫婦で猛将馬超を退けた【趙昂と王異】

夫婦で猛将馬超を退けた【趙昂と王異】

三国志では女性ながら戦闘に参戦したのは稀な存在でした。魏に仕えた趙昂(偉章)の妻だった王異は、馬超(孟起)にも一歩も引かない決死の覚悟で戦いました。この夫妻は協力して馬超に立ち向かい、子どもを殺されながらも馬超を退けることに成功しています。数多くの災難に遭いながらも魏に貢献した王異と趙昂を紹介していきます。


身を挺して娘を守った王異

身を挺して娘を守った王異

身を挺して娘を守った王異

趙昂が羌道の県令を務めているとき、反乱が起こりました。この反乱軍の首謀者である梁双は王異が住んでいた城を占領し、趙昂と王異の男子を2人殺害しました。王異は自身に乱暴される被害が及ぶとみて、自害しようと考えます。しかし、王異は隣にいる6歳の娘を見てそれを思い留まりました。

さすがに6歳の娘を残していくのは忍びなかったのでしょう。王異は娘がだれを頼りに生きていけばいいか心配し、自身や娘が乱暴を働かれないように、汚物で服を汚し、食事も抜いてわざと痩せ細った姿をして梁双を欺きました。

当時の時代背景では女性は捕まると、捕虜となって強引に婚姻させられることもありました。王異は敢えて汚くすることで自分と娘を守っていきます。これには中国四大美女に出てくる西施になぞらえ、どんな絶世の美女であっても不潔な服を着れば、道行く人が鼻をつまんでいくという逸話からきています。

梁双は後に郡の長官と和解し、王異はやっとの思いで解放されることになりました。趙昂はすぐに迎えを送り、王異は娘とともに脱出を図ります。

死を以って償おうとする

死を以って償おうとする

死を以って償おうとする

去の賢婦と呼ばれた人物でした。王異は正式な使者が訪れなければ、死者が迫っても部屋から出ないのが婦人の務めと解釈し、溺死や焼死した婦人の伝記を読んでその姿を胸に刻み込んできました。

しかし、反乱軍に捕まり、死ぬこともできなかった自分は姑ら親族に顔を合わすことができないと言い、ただ恥を忍んで生き延びたのは娘が心配だったからと伝えます。王異は娘に別れを告げると、隠し持っていた毒を飲み干します。致死性があるわけでもなく、王異は気絶に至りましたが、娘の異変に気づいた周囲の人によって解毒剤を飲まされて命は助かりました。

猛将馬超との決死の戦い

猛将馬超との決死の戦い

猛将馬超との決死の戦い

趙昂は出世を重ね、今度は家族を連れて冀城に移住しました。当時の周辺状況は、馬超が曹操に敗れるものの、次第に勢力を盛り返していました。周囲のほとんどの県は羌族の力で馬超に味方する形になり、冀城は孤立していました。馬超は冀城を攻めると、城主の韋康は籠城を決断して魏軍の援軍を待ち受けます。

王異は弓を以って応戦し、兵たちを慰問して士気を高めることに注力します。馬超は大軍で包囲し、猛攻撃をしかけてきたので、城中の兵士は疲れ果て、兵糧も付きかけていました。さすがに限界を感じた韋康は馬超に和議を求めています。趙昂や楊阜が再三反対の意見を述べますが、韋康は一向に聞き入れずにいました。

なかなか来ない援軍にしびれを切らし、韋康は援軍の使者を放ちますが、馬超に見つかり使者が殺される事態を受けると、韋康は降伏の決断を下したといいます。

趙昂は城主の降伏について、王異にも相談しています。王異は援軍が近くまで来ている可能性があるのなら、臣下として君主を諌めて、兵たちを鼓舞して士気を上げて、忠義を全うして死ぬべきと強く訴えます。一時は降伏に傾きかけていた趙昂でしたが、妻の意見を聞いて思い直し、もう一度引き止めようとします。しかし、このときには韋康の心は決まっており、曹操へ開場した後だったといいます。

馬超に一時的に仕える

馬超に一時的に仕える

馬超に一時的に仕える

馬超は韋康を裏切って処刑し、評判の良かった趙昂を召し抱えたいと考えました。しかし、家族を曹操によって斬首させられ、先の戦いで離間の計略をもって裏切られた馬超はなかなか人を信頼できずにいました。そこで馬超は、趙昂の男子を人質として差し出させ、自身の妻に王異を探らせようとします。

馬超の妻である楊氏が宴を開き、王異は招かれると、馬超の信頼を勝ち取るために上手く立ち回ります。過去の賢人を話にだし、馬超をおだて上げていくと、楊氏が王異に感心していきました。すっかり王異が気に入った楊氏が馬超にその旨を伝えると、趙昂は馬超からの信頼を勝ち取ることができました。この功がきっかけで、趙昂や楊阜は馬超に処罰されることがありませんでした。

馬超を倒す計画を実行

馬超を倒す計画を実行

馬超を倒す計画を実行

楊阜は実家の葬儀を理由に一時的に城を離れることができ、外から馬超討伐の計画を練ります。城内に残った趙昂は腹心たちと計画を遂行していき、馬超の隙をうかがいます。いざ計画が実行できようとしたとき、趙昂は王異に馬超に人質になっている息子の身を案じて相談しています。しかし、王異は息子の命よりも忠義を重んじて、馬超を倒すべきであり、息子を気にかけているのなら、自分が先に死ぬとまで述べています。王異は忠義のためならば息子も命を絶つことを考え、何よりも猛将馬超を欺くのに、小手先の計略では通用しないと思っていたのかもしれません。冀城の内外から攻められた馬超は一時的に退却し、漢中に逃げました。

馬超は漢中で張魯の助けを借り、再度攻め上がってきますが、趙昂と王異は祁山へ立て籠もって籠城戦を続けています。今度は楊阜が外にいるおかげで、魏軍と連絡が通じ、援軍を依頼することが可能でした。趙昂や王異は必死に戦い、やがて魏軍の張コウが援軍として駆付けて包囲が解けることになりました。馬超は裏切られた思いから怒り狂って人質になっていた趙昴の息子を殺しています。馬超は漢中を諦めており、今度は益州の劉備(玄徳)を頼って落ち延びました。曹操は二人を高く評価し、趙昂は馬超を退ける活躍を見せた11名に選ばれて爵位を受け取っています。

王異と趙昂の忠義

王異と趙昂の忠義

王異と趙昂の忠義

王異は娘とのやり取りでもある通り、決して子どもを見殺しにするような人物ではありませんでした。むしろ3人の息子を殺されて、王異はその無念さがひしひしと伝わるような性格だったといわれています。

一方で趙昂は王異が過去に捕虜になっていたことから、かなり労わって優しくなっていたのかもしれません。よく相談しては妻の意見を聞き、それを実行しようとしていました。このことからも二人の仲はとてもよく、馬超によっての激戦がなければ幸せな家庭を築き上げていたに違いありません。

小説の三国志演義でも二人は同様の扱いを受けており、忠義に厚い武将と妻として描かれており、馬超を退けた強者として存在しています。一般には蜀側となっている演義においても、馬超との戦いのシーンでは王異を支持する人は少なくないでしょう。





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