父親の存在・張苞の場合
■ 父親の存在・張苞の場合
父親の存在・張苞の場合
張苞、字は不明です。生まれもよくわかっていません。父親は三国志トップクラスの猛将である張飛です。蜀の初代皇帝・劉備(玄徳)と義兄弟の契りを交わした張飛は、その武勇と激しい気性で劉備軍をまとめています。諸国をさすらう放浪の身の上だった劉備軍は、張飛の活躍のおかげで存在価値を認められていたのです。張飛は蜀が建国された際には車騎将軍に任じられています。まさに重臣中の重臣です。三国志正史を編纂した陳寿はこの張飛を、関羽・馬超・黄忠・趙雲と同じ伝に綴っています。これが後世に「五虎大将軍」として伝わることになるのです。張苞は張飛の長子として誕生しました。
父親の存在・関興の場合
■ 父親の存在・関興の場合
父親の存在・関興の場合
関興、字は安国。生まれは張苞同様、よくわかっていません。父親はやはり五虎大将軍の一人、関羽です。劉備(玄徳)、張飛とは義兄弟であり、旗上げから苦労を分かち合った仲です。関羽は武勇もさることながら、その忠義心の篤さが有名で、あの曹操からも認められていました。劉備(玄徳)が漢中王となったときには関羽は前将軍に任じられています。そして劉備(玄徳)が益州を治め、代わって関羽が荊州を治めました。関羽には養子に迎えた関平がおり、関興は次子という扱いになります。
張苞、関興は蜀建国に大いに貢献した英雄の二世なのです。
父の死
■ 父の死
父の死
張苞と関興、それぞれの父親は同じような時期に亡くなっています。先にこの世を去ったのは、関興の父・関羽です。219年のことになります。北の曹操領を攻め込んでいる最中に同盟国・孫権の裏切りにあって捕らえられ、処刑されました。孫権は関興にとっての父親の仇です。張苞の父・張飛は部下の裏切りにあって寝首を掻かれて殺されています。221年のことでした。ちなみに義兄弟の長兄にあたる劉備(玄徳)は223年に病没しました。こうして蜀の主要メンバーは一新されていくことになります。
それでは、張苞、関興の二人はいつごろ活躍したのでしょうか。
なぜ二人がペアで語られるのか
■ なぜ二人がペアで語られるのか
なぜ二人がペアで語られるのか
張苞と関興はペアで語られることが多いです。理由は二人が義兄弟だったからです。父親同士は兄が関羽で、弟が張飛ですが、その子らは逆で、兄が張苞で弟が関興とされています。ですから張苞から先にご紹介しました。なぜ張苞が関興の兄となるかというと、張苞の方が関興よりも年上だったからだといいます。関家と張家は二世代に渡って義兄弟の契りを交わしていることになるわけです。とても珍しい例ですね。父親同士の仲が良いわけですか、子供同士も幼いころから仲が良かったのかもしれません。兄弟同然に育ったのでしょうか。
張苞と関興は本当に義兄弟なのか
■ 張苞と関興は本当に義兄弟なのか
張苞と関興は本当に義兄弟なのか
三国志ファン、特に「蜀推し」の方々は、やはり張苞と関興が義兄弟として大暴れして欲しいという願望が強いのではないでしょうか。そして父の仇を討つべく呉を相手に大活躍する。これだけでもワクワクしますね。もちろんそういったストーリーで描かれることもありますが、実はこれは「三国志演義」の創作です。蜀びいきの三国志演義が話を盛り上げるために設定したわけです。つまり二人が義兄弟であったかどうかは不明です。少なくとも、劉備(玄徳)の呉征伐に二人が揃って駆けつけていないことは確かです。理由は、張苞がそれ以前に亡くなっているからです。「三国志正史」によると張苞は父・張飛よりも先に亡くなったとあります。張飛は呉討伐戦となる「夷陵の戦い」の準備をしている最中に殺されていますから、それより前に亡くなっているということは、張苞は夷陵の戦いに参戦できないことになります。
三国志演義における夷陵の戦い
■ 三国志演義における夷陵の戦い
三国志演義における夷陵の戦い
いくら蜀びいきの三国志演義といえども、さすがに夷陵の戦いの大敗までを覆して描くことはできませんでした。夷陵の戦いというのは簡単に説明すると、裏切った呉を倒すべく劉備(玄徳)が出陣したものの新鋭・陸遜によって火攻めにあって大敗、一説にはこれで八万の兵を失ったといいます。諸葛亮も趙雲も同行しておらず、このまま描くと劉備(玄徳)の失態を伝えて話が終わります。関羽を殺された怨みを晴らすどころか、奪われた荊州もそのままで返り討ちにあった格好です。蜀ファンは到底納得できません。
そこで蜀ファンが喜べるエピソードが創作されたわけです。「父の仇を討つ張苞、関興の活躍」と、「黄忠の死に花」、「追撃してくる陸遜を惑わす諸葛亮の石兵八陣」などがそれに当たります。全体としては驚くべき大敗なのにも係わらず、このエピソードのおかげで蜀ファンはなぜか気持ちよく次の展開、諸葛亮の大活躍へ進めることができます。
実際は張飛の寝首を掻いた張達、范彊の首を張苞は討っていません。関興もまた関羽を捕らえた潘璋を討ってはいないのです。史実の潘璋はこの夷陵の戦いの武功が認められて平北将軍・襄陽太守に昇進しています。潘璋が亡くなったのは234年のことになりますから、三国志演義よりも10年以上長く生きていたことになるのです。潘璋は孫権が呉の皇帝に即位した229年には右将軍となりました。蜀ファンの三国志演義としては関羽を捕らえた潘璋の出世は許せなかったのでしょう。
まとめ・張苞と関興
■ まとめ・張苞と関興
まとめ・張苞と関興
それでは張苞は三国志正史ではどのように描かれているのでしょうか。実はまったく記録に残っていません。あるのは張飛よりも先に亡くなったこと、張家の家督は弟の張紹が継いだことくらいです。関興と義兄弟だったかどうか以前に、強かったかどうかもわかりません。戦場での活躍はゼロです。
関興はどうでしょうか。若くして関羽の跡を継ぎ、20歳で侍中となったとあります。しかしそのまま若くして亡くなったそうです。こちらも戦場での活躍はまったく記載されていません。
もちろん関羽・張飛の子が軟弱だったとは思えません(夏候惇の子の夏侯楙の例があるので絶対とは言い切れませんが)。しかし三国志演義のような活躍はできていないのは間違いないでしょう。
ある意味、張苞・関興の武勇が優れているというイメージは、三国志演義のもつ影響力の大きさを物語っているのかもしれませんね。もちろん三国志正史が真実とは限りませんが。私としては三国志演義に登場する張苞と関興が好きですね。