悲運の名将と呼ばれた【周瑜】【曹沖】【郭嘉】その訳は?

悲運の名将と呼ばれた【周瑜】【曹沖】【郭嘉】その訳は?

三国志には悲運の名将といわれる武将がいます。才能に溢れていても短命であったり、主君に恵まれなかったりと、華々しい活躍ができなかったこともあります。そんな悲運の名将についてご紹介していきます。


絶大な人気を誇る赤壁の戦いの英雄【周瑜公瑾】

呉の大将軍といえば周瑜(シュウユ 175年―210年)を挙げる人は少なくないでしょう。周瑜は美周郎といわれ、容姿端麗、頭脳明晰であり、音楽の才能も持ち合わせていました。出身もエリート一家であり、知力だけでなく、武芸にも秀でていました。これだけでもう主役級の器といえます。

孫策と義兄弟になる周瑜

周瑜は江東(中国南東部)を収めていた孫堅(ソンケン 155年―192年)の息子である孫策(ソンサク 175年―200年)と同い年であり、2人は非常に仲が良く、周瑜は孫策が父の跡を継いで旗揚げするときには共に参戦しています。

孫策も周瑜を重宝し、その勢力は父に匹敵するほどまでに拡大していきます。荊州を攻略すると絶世の美人といわれた大喬と小喬の姉妹をそれぞれ孫策と周瑜が妻に迎え、名実通りに義兄弟になりました。

周瑜は孫策の元で敏腕を振るいますが、200年に孫策が25歳の若さで急死します。孫策は死の間際、後継者に自身の息子ではなく、弟の孫権(ソンケン 182年―252年)を指名し、補佐を周瑜と重臣の張昭(チョウショウ 156年―236年)に託します。

赤壁の戦いで曹操を打ち破る

孫権が跡を継ぐと、まだ若い孫権を侮り軽く見ている者がいるので、周瑜は率先して臣下の礼をもって接し、周囲にも示しました。曹操(ソウソウ 155年―220年)が一大勢力を築くと、遂に孫権に降服の使者を送ってきます。重鎮たちは揃って降服を勧めますが、悩んだ孫権は周瑜に相談し、周瑜は曹操との対決を進言しています。

208年、曹操が10万以上の兵力で南下し、荊州を手に入れると、曹操は大軍を率いて長江に陣を敷きました。孫権の周囲は再度降服論が巻き起こりますが、都督となっていた周瑜は再度開戦を示唆し、孫権や他の重鎮を説得していきます。周瑜は曹操の弱点を見抜いており、曹操陣営には水軍に慣れていないこと、土地の風土に慣れていないことから疫病が発生すること、曹操の水軍の主力部隊は荊州の兵であり、本心から従っているわけではないという点を挙げています。周瑜の推察通り、曹操軍は疫病が蔓延し、ろくに戦えない状態に陥り、周瑜は曹操軍を打ち破ります(赤壁の戦い)。この戦いで大敗北を喫した曹操は依然の勢いがなくなりました。

先を見越しながらも36歳の若さでこの世を去る

周瑜は赤壁の戦い後、曹操が支配していた地域の奪回に向かいますが、その時の戦いで流れ矢で負傷し、その傷が原因で36歳の若さで亡くなっています。周瑜の死は孫権を大いに悲しませ、後に呉を建国し、皇帝を称した孫権は周瑜がいなければ皇帝にはなれなかったと述べています。

周瑜は死の直前、曹操が戦力を立て直すのに時間がかかることを見越し、益州(中国南西)を手に入れて孫権の勢力を拡大してから曹操と対決することを考えていました。周瑜の死後は劉備(玄徳)が益州を手に入れて、孫権と共同で曹操に当たるという天下三分の計が成されていますが、周瑜がもしも健在だったとすると天下二分の計になっていたかもしれません。

曹操が最も溺愛した天才児【曹沖】

曹沖は天才ともてはやされていれても、決して奢らず、平等に接しており、頭脳明晰なだけではなく、優しさを持ちあわせていました。

天才といわれるエピソード

曹沖のエピソードとして有名なのが、孫権から曹操への像の贈り物です。曹操は家臣たちにこの像の重さを量るにはどうしたらいいかを尋ねます。しかし、家臣たちは一向に答えが出ませんでした。

曹沖は船に像を乗せてある程度沈め、その水面との境目に印を付け、船から像を出した後で今度印が水面に沈むまで石を乗せ続けます。水面と船の印が同じになると、あとは石の重さを量れば像の重さが分かると言いました。若干10代でありながら、この聡明さに曹操はいたく感心し、自身の後継者にも考えていたほどといいます。

曹操に評価されていた曹沖

実際に曹沖が病死すると曹操は深く悲しみ、後継者となっていた曹丕(ソウヒ 187年―226年)に対し、「自分にとっては悲しい出来事だが、お前(曹丕)にとっては嬉しい出来事だ」と強烈な皮肉を言い放っています。

三国志史上で最も優れた人物ともいわれる曹操に、ここまで評価される曹沖がもしも長生きしていれば、魏の歴史も晋(家臣の司馬一族が建国)に乗っ取られることがなかったかもしれません、

曹操の初期に渡る活躍を支えた戦略家【郭嘉】

郭嘉(カクカ 170年―207年)は洞察力に優れ、人の長所や短所を良く見抜き、先を見通す目に優れた能力を発揮しました。郭嘉は袁紹(154年―202年)に士官しようとしていましたが、袁紹の才能を見限り、曹操の元へいきます。曹操からライバルとなる袁紹の攻略法を聞かれると、郭嘉は10個の勝因を語りました。曹操に気に入られた郭嘉は後に多くの助言をしていくことになります。

三国志最強の呂布(リョフ 生年不明―193年)を水攻めで降伏させており、劉備(玄徳)を攻める際には袁紹に背後を突かれることを心配した他の家臣たちをよそに、袁紹の性格からして優柔不断で迅速な行動ができないことを予測しています。

先を予測する戦略で大活躍

また、袁紹との決戦となった官渡の戦い(200年)でも、家臣たちは後方から孫策が襲い掛かるのを恐れていました。しかし郭嘉は、孫策は急激に勢力を伸ばしており、粛清も過敏に行われているにも関わらず、孫策は一向に気にも留めていないことから、いつか裏切られてしまうことを予測しています。

さらに、袁紹を倒して北方の領地を攻めるとき、他の家臣たちが劉表(リュウヒョウ 142年―208年)が匿っている劉備(玄徳)を使って攻めてくるのではないかと心配をしていました。しかし、郭嘉は劉表が劉備(玄徳)を使いこなせることが出来ないであろうことを予測しており、安心して遠征できるとも言い放っています。

郭嘉が生きていれば赤壁の大敗はなかった?

これらは実際にその通りになっており、郭嘉の先見の明がどれだけ優れているかを物語っています。郭嘉は207年に37歳という若さで病死してしまいます。曹操は悲しみに暮れていたといいます。後に赤壁の戦いで惨敗を喫しますが、曹操は「郭嘉が生きていれば、このようなことはなかった」といっています。郭嘉はもともと南方の遠征では疫病に悩まされると予測しており、事実その通りの結果となっています。同世代の周瑜と戦う機会はありませんでしたが、もしも郭嘉が赤壁に従軍していれば、同じ結果になったかは定かではありません。

まとめ

長生きできなかった悲運の名将たちですが、もしもこの武将が生きていれば…というのは三国志の醍醐味ともいえることでもあります。周瑜対郭嘉という戦略対決が実現していれば、どちらに軍配が上がったのか、考えるだけでもワクワクしてしまいます。

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