黄巾の乱から董卓の台頭まで
■ 黄巾の乱から董卓の台頭まで
黄巾の乱から董卓の台頭まで
三国志がメインとなるのは中国史において後漢末期(184年)から西晋による中国大陸統一(280年)を指し、約100年に渡る戦いの歴史となります。184年に発生した、黄巾の乱と呼ばれる民衆の大規模反乱を平定した後から群雄割拠の時代が始まります。
各地の太守(戦国大名のようなもの)がそれぞれ独立して兵力を持っており、その地方の治安を担っていました。しかし、皇帝がいる都では宦官とよばれる側近たちが政治を牛耳り、黄巾の乱が平定された後も変わらず政治は腐敗していました。そこで宦官を始末するべく追討軍が結成され、各地の太守や将軍たちがこぞって終結してきます。中でも西涼(北西地方)の太守で後漢の将軍でもあった董卓(トウタク 生年不明―192年)がゴタゴタの中で皇帝を保護し、権力を手中に収めました。
反董卓連合軍が結成された【陽人の戦い】
■ 反董卓連合軍が結成された【陽人の戦い】
反董卓連合軍が結成された【陽人の戦い】
董卓は幼い皇帝をないがしろにして、政治を握り、暴虐の限りを尽くします。有力者の金品を強奪したり、民衆を惨殺したり、董卓の行いを諌める人はすぐに誅殺されてしまいました。これに対し袁紹(エンショウ 154年―202年)や袁術(エンジュツ 生年不明―199年)を中心として反董卓連合軍が結成され、孫堅(ソンケン 155年―192年)らが参戦しました。
呂布(リョフ 生年不明―198年)ら猛将がいる董卓軍は強大で、なかなか連合軍は一つにまとまることもなく連敗してしまいます。しかし、軍を立て直した孫堅が董卓軍の華雄を打ち破ると、董卓は都に火を付けて焼き払い、長安へ撤退します。董卓を打倒すことはできませんでしたが、反董卓連合軍はそこで解散となりました。都を失った後漢の権威は失われ、各地の群雄たちはこぞって勢力争いを繰り返す動乱の時代が幕開けました。この一連の戦いを【陽人の戦い】といいます。
曹操の飛躍を決定づけた【官渡の戦い】
■ 曹操の飛躍を決定づけた【官渡の戦い】
曹操の飛躍を決定づけた【官渡の戦い】
董卓や呂布が亡くなり、中原で支配力をみせていたのが曹操(ソウソウ 155年―220年)です。曹操は皇帝を手中にし、その才能と人望で多くの優秀な部下を擁し、権力を手に入れていました。一方、名門家ともいうべき袁紹は、河北(中国北東)を平定し、その兵力は10万以上ともいわれていました。単純な兵力では袁紹が大いに勝っており、曹操の5倍以上は有していました。
200年には袁紹陣営では曹操との対決が迫り、曹操軍の兵糧不足を読んで持久戦を主張する参謀の沮授(ソジュ 生年不明―200年)を疎んだ他の重臣たちが兵力に任せた短期決戦を主張し、袁紹は短期決戦を選択します。沮授は自軍の武将たちをよく理解しており、袁紹に様々な進言をしますが、そのほとんどが却下されてしまいます。また、沮授は自軍の兵糧の守備隊を念のために増員させようと袁紹に進言しますが、これも却下されてしまいます。このころの袁紹はこれまで河北を平定するのに貢献してきた沮授の意見を採用することがありませんでした。
逆に曹操は参謀の荀攸(ジュンユウ 157年―214年)や郭嘉(カクカ 170年―207年)の意見を取り入れ、袁紹軍の兵糧を守備していた部隊を奇襲攻撃します。その結果、兵力で勝っていた袁紹軍は大混乱に陥り、総崩れとなっていきました。この【官渡の戦い】では曹操軍の圧勝に終わり、袁紹は多くの武将が曹操に寝返ったり、打ち取られたりして戦力低下が免れない事態となっています。また、長年貢献してきた沮授が曹操軍に捕えられます。曹操は沮授の才能を高く評価し、自軍に降るように説きますが、沮授は主君を裏切ることはせずに脱走を図り、曹操の部下に殺されてしまいます。
袁紹配下の武将たちはこぞって敗戦の責任を押し付け合い、袁紹は有能な武将まで処刑することになりました。ここに曹操と袁紹の器の大きさが結果につながっていることがうかがえます。
歴史が変わった【赤壁の戦い】
■ 歴史が変わった【赤壁の戦い】
歴史が変わった【赤壁の戦い】
曹操が袁紹を破り、中原から河北を制圧すると、とうとう南下を始めました。そこで荊州を手中に収め、次なるターゲットは江東(中国南東)の孫権(ソンケン 155年―192年)となりました。孫権は劉備(玄徳)と同盟を組み、曹操に対抗します。
孫権軍を掌握していたのは都督の周瑜(シュウユ 175年―210年)であり、圧倒的兵力差のある曹操軍に対し、自軍の有利を見抜いていました。黄蓋(コウガイ 生年不明―215年)が偽の降服で曹操に寝返る振りをして曹操軍の船団に近づき、火を付けます。大軍とあって船を密集させていた曹操軍はたちまち火計の餌食になりました。また、周瑜の読み通り、曹操軍は慣れない土地で疫病にかかり、満足に戦うことができませんでした。劉備(玄徳)と孫権の連合軍は曹操軍を打ち破り、曹操陣営に多大な被害をもたらしました。208年に起きたこの戦いを【赤壁の戦い】といいます。
陸遜の名を広め、劉備(玄徳)最後の戦いとなる【夷陵の戦い】
■ 陸遜の名を広め、劉備(玄徳)最後の戦いとなる【夷陵の戦い】
陸遜の名を広め、劉備(玄徳)最後の戦いとなる【夷陵の戦い】
劉備(玄徳)が益州(蜀)に入り、その地盤を固めようとしていた矢先、荊州を収めていた配下の関羽(カンウ 生年不明―220年)が呉の呂蒙(リョモウ 178年―219年)によって打倒されます。劉備(玄徳)は関羽の弔い合戦として呉を大軍で攻めることを自ら主張します。奇しくも関羽と共に旗揚げ時から参戦している張飛(チョウヒ 生年不明―221年)も部下の裏切りに遭い、殺されてしまいます。張飛を暗殺した部下はそのまま張飛の首を手土産に呉へ降服してしまいます。これに激怒した劉備(玄徳)は、諸葛亮(ショカツリョウ 181年―234年)が引き留めるのを無視して221年に荊州を攻め入ります。
呂蒙はすでに亡くなっており、後を継いだのが陸遜(リクソン 183年―245年)でした。陸遜は数に勝る劉備軍に対し、火計に弱い布陣を敷いていたのを見抜きます。陸遜は夜襲をかけて劉備陣営に火を放ちます。たちまち火の手につつまれた劉備軍は混乱して後退しますが、陸遜はそれを読んでおり、四方から追撃を喰らわせ、劉備軍は壊滅状態に陥りました。劉備(玄徳)は白帝城に逃げ帰り、失意のもとで亡くなりました。劉備(玄徳)は諸葛亮に後事を託しています。この一連の戦いを【夷陵の戦い】といい、大軍を率いた劉備(玄徳)を破った陸遜はこの後に名声を手にしています。
まとめ
■ まとめ
まとめ
これらの戦いには三国志の歴史の変化点が記されています。また、【官渡の戦い】、【赤壁の戦い】、【夷陵の戦い】は少ない兵力側が勝利しており、その後の三国志において非常に重要な変化点となっています。この3つの戦いについては三国志ファンなら覚えておきたい戦いといえるでしょう。