泣いて馬謖(ばしょく)を切る
■ 泣いて馬謖(ばしょく)を切る
泣いて馬謖(ばしょく)を切る
聞いたことはあるけどどういう意味?
■ 聞いたことはあるけどどういう意味?
聞いたことはあるけどどういう意味?
泣いて馬謖を切るという言葉を聞いたことがあるでしょうか。これは三国志の時代に生まれた言葉で孔明が可愛がっていた武将馬謖を泣きながら斬ったことからこの言葉ができました。
現在の意味は優秀な者でも規律違反を犯したものはペナルティを課さなければいけないということです。しかし面白いのがこの解釈の仕方です。一般的には孔明は馬謖を可愛がっていたから斬りたくないのに法に基づいて斬ったため涙しているという解釈です。
ところが違う見方もあります。劉備(玄徳)が死ぬ間際孔明に対し「馬謖は口先ばかりの男だから信用してはいけない」と言いました。孔明は劉備(玄徳)の話といえど、これは聞き入れませんでした。(自分では馬謖が優れている人物だと思っていたからです)
しかし馬謖の規律違反が実際に起こってしまいました。さて、馬謖を斬らなければいけなくなった孔明は「なぜ私は劉備(玄徳)のように人を見る目を持たなかったのだ」と涙しました。どちらが正しいかは孔明にしか分からないことです。
白眉(はくび)
■ 白眉(はくび)
白眉(はくび)
さらっと答えられたらかっこいい慣用句!
■ さらっと答えられたらかっこいい慣用句!
さらっと答えられたらかっこいい慣用句!
白眉という言葉をご存知でしょうか。白眉というのは兄弟の中で最も優れているという意味です。もしくはもっと広義的な意味では「大勢の中で最も優れていること」の例えです。
意味がわからないですよね。白い眉毛と兄弟の優劣になぜ関係性があるのかさっぱりです。しかしこれも実は三国志から来ている言葉です。
三国志の時代、蜀の馬氏(馬良や馬謖らで、常の字がつく)は5人兄弟でした。みんな出来がよかったのですが、その中で強いて一番出来が良かったのが馬良とされています。その馬良の眉の中には白毛が混じっていました。
そのことから白眉が全体で一番優れているものの例えとされています。しかしはっきり言ってこれは結構強引な感じがあり、孔明の兄弟(諸葛瑾と諸葛亮)や孫堅の息子(孫策と孫権)はどう説明をつければいいのでしょう。当時この言葉を流行らせた人が気になりますね!
破竹(はちく)
■ 破竹(はちく)
破竹(はちく)
言葉の出現というものをまざまざと感じさせられる!
■ 言葉の出現というものをまざまざと感じさせられる!
言葉の出現というものをまざまざと感じさせられる!
よくプロ野球チームなどが連勝を重ねた際に「破竹の勢い」なんていう言葉を耳にしますよね。実はこれ、三国志の時代の言葉なのです。三国志と言ってもその時代の末期の段階で、蜀が滅び、晋と呉(さらに魏が晋に乗っ取られた後の話です)の頂上戦争という時にできました。
呉に進軍しようという晋の中では「このまま攻め込む」という案と、「一旦軍を退いて後でまた攻める」という案とに分かれていました。しかし晋の将軍、杜預(とよ)は竹を割く際、最初の節さえ切ってしまえば後は簡単に割れていく=(まさしく破竹)」と解き、進軍を決意させました。
そして晋が呉を破り天下統一を果たしました。負けていたら破竹という言葉は浸透しなかったでしょう。時代や国を超えて破竹という言葉が今日に定着する所以でした。
遼来来(りょうらいらい)
■ 遼来来(りょうらいらい)
遼来来(りょうらいらい)
泣く子も黙る張遼は呉の点滴
■ 泣く子も黙る張遼は呉の点滴
泣く子も黙る張遼は呉の点滴
遼来来とは日本語に置き換えると「鬼が来るぞ」と言うような子供向けの脅し文句です。もしくは張来張来とも言います。
赤壁の戦いで魏を圧倒した呉ですが、その後はパッとした成果を挙げることができません。一つは周瑜が早くして死んでしまったことがあるでしょう。
そしてもう一つは魏に張遼がいたからだと思います。合肥の戦いで10万の呉兵に対し張遼は7千。そんな状況でも張遼の強さの呉兵は進軍することができず、曹操に対して致命傷を与えることはできませんでした。もしここで張遼を突破出来たら呉の立ち位置は変わっていたでしょう。
そんな張遼は呉にとっては天敵です。それ以降呉の民は張遼にビビり、「泣いていたら張遼が現れる」と言い聞かせ子供を黙らせるようになりました。
死せる孔明生ける仲達を走らす
■ 死せる孔明生ける仲達を走らす
死せる孔明生ける仲達を走らす
三国志の中で最も有名な言葉とされているが
■ 三国志の中で最も有名な言葉とされているが
三国志の中で最も有名な言葉とされているが
三国志で一番有名な言葉の一つが「死せる孔明が生ける仲達を走らす」ではないでしょうか。仲達は司馬懿のことです。慎重な司馬懿は孔明を見ると策が練られているのではないかと疑心暗鬼になる人物でした。
孔明はそれを利用して、「私が死んだと知った司馬懿が攻めて来る。そうしたら私のふりをしろ」と言うのです。部下が孔明のように振る舞ったら司馬懿は逃げたとされます。ここまで聞いたら「孔明は凄く司馬懿は弱い」そう思うかもしれませんが最終的三国志の覇者は司馬懿の孫である司馬炎です。
それを考えると逃げた司馬懿は正しい選択肢を選んだと言ってもいいのではないでしょうか。
呉下の阿蒙(ごかのあもう)
■ 呉下の阿蒙(ごかのあもう)
呉下の阿蒙(ごかのあもう)
呂蒙の出世ぶりが分かる言葉!
■ 呂蒙の出世ぶりが分かる言葉!
呂蒙の出世ぶりが分かる言葉!
呉下の阿蒙というのは若かりし頃の呂蒙のことを指します。呂蒙は孫権に言われ勉学に励んだらのめり込むように兵法を学び、学問でも魯粛をあっといわせるほどの人物ですが、若い頃は違っていました。
若い頃は血気盛んで情感を殺してしまうほど自分をコントロールできませんでした。強いけど勉強嫌いの呂蒙に対して孫権は「せめて一軍の指揮官として恥ずかしくないだけの教養を身につけろ」と言われ嫌々勉学に励むのでした。
勉学に励んだ呂蒙は孫権の思っていた以上の成果を上げることに成功!文武に優れた武将となりました。若い頃の呂蒙を知っていた魯粛がそんな呂蒙を見て「呉の城下でやんちゃする阿蒙(阿=〜ちゃんといった感じです)ではないのだな」と言いました。
そのことから無学で教養のない連中の事を「呉下の阿蒙」と言うようになりました。逆を言えば勉学に励めば「立派な呂蒙になる」と言う意味合いも含んでそうですね。
ちなみに呂蒙は関羽を倒した武将で蜀の歯車を大きく狂わせた武将と言えるでしょう。孫権が勉学を勧めなかったら怒りえなかったことであることは間違いないです。
まとめ
■ まとめ
まとめ
故事成語をさらっといえたらちょっとかっこいいかなと思い、三国志の時代にできた言葉をまとめてみました。意味だけでなく、その言葉の成り立ちを知るともう忘れないのではないでしょうか。
受験勉強で意味だけひたすら覚えようとしていた故事成語ですが、ストーリーを知ると「なるほど!」と思いどんどん次の故事成語を知りたいと思うようになります。ここに挙げただけでなくまだまだ三国時代に生まれて今に至るまで使われている言葉はあるので是非調べてみてください。
かっこいいからと言って多用すると「変な奴」「すかしてる奴」と思われてしまうのであまり多用しないことをお勧めしますが……