最古の炎上作家は三国志を書いた陳寿だった!?

最古の炎上作家は三国志を書いた陳寿だった!?

三国志を書いた陳寿は、実のところあまり評判が良い人物ではありません。それは後生の時代でも、そして陳寿が生きていた時代でも同じだったようです。いったい陳寿はなぜ「炎上」してしまったのでしょうか。


最古の炎上作家?

インターネットの世界では、現代日本で社会問題にもなっている炎上問題。

不適切な発言や不謹慎な行動で、芸人や知識人といったひとがSNSで激しいバッシングを受けることも決して珍しくなくなってしまいましたね。
こうした炎上をきっかけに仕事を降板させられてしまったり、世間の見る目が変わってしまったひとを、何人か思い浮かべることができるのではないでしょうか。

ところでそんな炎上ですが、実はかつての古代中国にも同じような状況でいわゆる「炎上」をしていたといえるような人物がいます。
それが、三国志の著者であり役人でもあった陳寿です。

陳寿が記した壮大な歴史ロマン

わたしたちが今でも楽しんでいる三国志。その三国志を書いたのは、古代中国の陳寿(233-297年)というひとです。
陳寿はもともと蜀の出身で役人をしていたのですが、蜀が滅ぼされた後には魏の後身である晋に仕えたそうです。

陳寿が三国志を書きはじめたのは、晋が呉を平定し、中華を統一した直後くらいからと言われているので、およそ280年ごろのことです。

陳寿が記した三国志の特徴は、客観的事実を非常に重視し主観を排除することで、簡潔に淡々と歴史を記述していること。また、人物の伝記をひたすらに並べた「紀伝体」、「烈伝体」という形で書かれていることも大きな特色となっています。
魏書、呉書、蜀書の三部構成の形で書かれており、中華を統一した晋の前身である魏を正統王朝として一応一段高く扱っているが、他の二国についてもかなりの分量を記しています。
中国の歴史書では、正統王朝以外に詳しく触れられていることはまれなので、そういった意味でも三国志が珍しい構成となっていることが分かるかと思います。

書は素晴らしいが……

そんな陳寿ですが、実は後世の評価はあまり良いものではありません。というよりも、むしろ悪評価を受けることが多い人物です。

そんな評価になってしまうのには様々な理由があるのですが、その要因のひとつとして、そもそも陳寿は生きている時から親不孝だと言われて評判が悪かったということがあげられます。

陳寿は元々蜀の役人だったのですが、当時蜀で権力を誇っていた宦官の黄皓に媚びへつらわなかったので、何度も官位を下げられたという過去を持っています。そのため、蜀のひとからの評価は初めから高くなかったわけです。

また陳寿は、自身の父が亡くなり喪に服している期間に、丸薬を作らせてを飲んでいた、という場面を目撃されて批判されています。
古代中国の思想では、喪中には死を惜しみ続けなければならず、たとえ自分が病気であっても自身の身体を労わることは親不孝と考えられていたので、陳寿の行動は親不孝と見なされたわけです。

こうした経緯もあって、蜀から晋に移った後もなかなか取り立ててもらえなかったと言われています。

親不孝ものの悪評はその後も続きます。
今度は母が亡くなった際、母親は遺言で「洛陽(晋の首都)に埋葬してほしい」という言葉を残しており、陳寿はその通りにします。
しかしこれが裏目に出てしまい、「故郷から離れた地に葬ろうとするなんて親不孝だ」、と再び非難をあびることになってしまいます。

結局のところ、一度ついてしまった親不孝という悪評はいつまでも拭えなかったということになりますね。

また陳寿の父は「泣いて馬謖を切る」で有名な、あの馬謖の参軍だったという説もあり、馬謖が斬られた際に連帯責任で諸葛亮に罰せられたと言われています。

そのため陳寿は諸葛亮を恨んでいたので、三国志の中で諸葛亮は「軍を臨機応変に率いるような戦略は苦手だったのだろうか」と批判を書き、また諸葛亮の息子の諸葛瞻にも「名声が実際に伴っていない」と悪口を言ったのだ、という批判をうけることも。

こうした親不孝という評判や、諸葛亮と確執があったと言われているというイメージのせいもあり、蜀の出身なのに蜀を良く書かないのは、故郷愛が無い奴だからだ、と言われることもあります。

実際のところ、どうだったの?


ところがこうした悪評は実際のことろ、事実無根な誹謗中傷。陳寿を非難したいがための難癖にすぎません。

そもそも本当に陳寿の父が馬謖の参軍を務めていたのかは不明ですし、諸葛亮や諸葛瞻にもちゃんと褒めたことも書きつつ、客観的事実として評価を記述しているだけなのです。

たとえば諸葛亮の場合だと「内政を治めることに関してその政治の才能は管仲・蕭何に匹敵するほど素晴らしいのだが、軍事において結果を残せなかったということは、臨機応変に戦を指揮するというよりは内政のほうが得意だったのだろうか?」というように、決して戦下手だといっているわけではなく、それよりも政治能力がずば抜けていたということを表現するための比較として出しているだけです。

諸葛瞻に関しても、「諸葛瞻は部下からの信頼が篤く、部下が何か成功した際にもことさらに諸葛瞻の名前を出して彼の功績にしようとしていたので、実際に諸葛瞻が行った以上の評価を受けることもあった」ということを書いたにすぎません。

結局のところ、悪いイメージばかりが先行して、何をやっても(書いても)批判されてしまうような状況になってしまっていたことが、陳寿の悪評の最大の原因なのでしょう。


ところで、そんな陳寿には言い逃れができないエピソードがあるので最後にそれをご紹介します。

それは丁儀、丁ヨクという人物に関するエピソード。
ある日陳寿は、丁儀の息子に「わたしに米千石をくれたら、お父上のことを独立した伝記として書いて褒めてあげますよ」と言ったそうです。
しかし息子が断ったので、結局陳寿は丁儀と丁ヨクの独立した章を立てなかったのだとか……。

もしかすると、陳寿の悪評は身から出た錆……なのかもしれませんね(笑)

それでも陳寿は素晴らしい

とはいえ、確かに陳寿には賄賂を要求したり、と決して褒められた事ではない部分もあるようなのですが、だからといってここまで批判されるほどに酷いとはとても思えません。

そもそもが親不孝だという評価は、薬を飲むことは現代の常識で考えれば普通のことですし、母親の意を汲んで埋葬したことも当たり前の親孝行です。
諸葛亮、諸葛瞻についての記述も、客観的事実を重視したからのことです。

また蜀を褒めていないという批判に関しても、的外れな指摘だと言わざるをえません。たとえ陳寿が、かつては蜀の人でも、三国志執筆時には晋に仕える役人。露骨に蜀を褒める、などということは不可能だったのです。

むしろ逆に、三国志内には、そんな中でもなんとか蜀を持ち上げられないかと苦心した跡が見えます。

例えば、それは人物の記述。
陳寿は記述において、孫権には「権」と呼び捨てるが、劉備(玄徳)には「先主」劉禅は「後主」とかならず敬意を払った呼び名をしています。ちなみに曹操は「太祖」や「曹公」と、蜀同様の表現をしています。

また劉備(玄徳)や劉禅の第一夫人のことを「皇后」と記述していることも、陳寿の工夫です。
皇后の夫は当然皇帝なので、直接は書くことができなくても、遠回しに劉備(玄徳)や劉禅を皇帝として扱っていることを表現しているといわれています。
ちなみに呼び名と同じように、曹操の夫人は「皇后」と呼んでいる陳寿ですが、孫一家の夫人は単に「夫人」と書いているだけ。

非難されないギリギリを狙って、なんとか蜀を贔屓しようとしていたことは間違いないでしょうが、できれば呉にもその優しさを分けてあげて欲しいものです。

まとめ

というわけで今回は、三国志の著者である陳寿を取り上げました。
陳寿に対する悪いイメージが、決してすべてが事実ではないということが伝わったなら幸いです。

一度イメージがついてしまうと、払拭するのはなかなか難しいもの。
どこからか燃料を見つけてきて、ほとんどイチャモンとも言えるような批判をする人がいるということは、今も昔も変わらないということなのでしょうか……。

陳寿は悲しい因果を背負わされた不幸の人です。
それでも、こうして千年以上のときを越えて三国志が読まれ続けているということが、陳寿が素晴らしい書家だったというなによりの証左なのではないでしょうか。

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