張遼 病にたおれ、魏王朝震撼!
■ 張遼 病にたおれ、魏王朝震撼!
張遼 病にたおれ、魏王朝震撼!
文帝(曹操の子、曹丕)との謁見を終えた張遼は、ふたたび派遣先にもどります。ところがさすがの張遼にも老いの影がさしてきたのでしょうか、彼は病気になってしまいます。
文帝は張遼の身をとても心配し、侍中(じちゅう/注)の劉曄(りゅうよう)に、皇帝直属の医師を連れて行かせ、張遼を診療させました。医師を派遣するだけでなく、わざわざ国の重臣に連れて行かせるところに、文帝がいかに張遼を重んじていたかが分かります。
(注)侍中(じちゅう)……皇帝の側に仕え、その諮問(質問)に答える役職。
(注)劉曄(りゅうよう)……曹操に参謀として仕え、多くの献策をし、その覇業に貢献。曹操の死後は魏を建国した文帝(曹丕)に仕え、国家の重臣として遇された。先見の明があることで知られ、武将・孟達(もうたつ)の裏切りや、劉備の呉への侵攻を予見するなどした。
もっとも、ただ見舞いに行かせたわけではないのかもしれません。
重臣である劉曄を派遣するのですから、対呉戦線の中心で戦い続けた張遼と、今後の対策について話し合っていてもおかしくありません。この時期、孫権は魏に対して(一時的に)服属していましたが、そのうちまた反逆するのは目に見えていました。
よって、いつ孫権が背いてもいいように、いまから万全の準備をしておく必要があります。また張遼に万が一のことがあれば、その後任の人選もしなくてはなりません。こう考えると、文帝が医師を派遣するにあたって、わざわざ重臣・劉曄を伴わせた理由が、納得できます。張遼の健康は、もはや彼ひとりの問題ではすまず、魏王朝の「安全保障」に大きく関わる重大事だったのです。それほどに、張遼という武将は大物になってしまっていたのです。
国中が心配した、張遼の容態
■ 国中が心配した、張遼の容態
国中が心配した、張遼の容態
さらに文帝は、自ら張遼の近くに行幸(ぎょうこう/注)した際、現地での仮の御所に張遼を呼び出しました。病がいえぬまま馳せ参じた張遼に対し、文帝はその手を取っていたわり、自らの衣服を与えるなど、格別のはからいを見せました。そして皇帝と同じ食事を、わざわざ張遼のもとへ送らせたといいます。
文帝としては、張遼への破格の待遇を示した形ですが、張遼にとってはあまりありがたくないことだったかもしれません。病がいえぬうちに、わざわざ皇帝の仮御所まで出向き、気を使わなくてはならないのですから、いくら張遼といえどキツイ仕事だったはずです(皇帝の前では口が裂けても言えませんが、かえって迷惑だったんじゃないでしょうか)。
(注)行幸(ぎょうこう)……皇帝が外出すること。
張遼の病を心配したのは、皇帝や重臣ばかりではありません。かつての彼の部下たちも、張遼の病状について情報がないかと、道に出ては新たな手紙や知らせを待ったといいます。
先にもお話してきたように、張遼はただ勇猛で強いだけの武将ではありませんでした。合肥で10万の孫権軍に奇襲をかけたときも、彼は敵に取り囲まれた部下たちを救い出してから城に引き上げています。張遼は、厳しい戦いを勝ち抜く強さだけでなく、決して部下を見殺しにしない優しさをも備えていた、まさに究極の武人でした。こんな張遼だからこそ、かつての部下たちにも長く慕われ続けていたのですね。
ふたたび孫権軍に勝利
■ ふたたび孫権軍に勝利
ふたたび孫権軍に勝利
魏の人々の心配の甲斐あってか、張遼の病はどうにか小康(しょうこう)状態となり、彼は職務に復帰しました。その後やはりというべきか、またしても孫権が魏に反逆します(この時期の孫権は、情勢次第で魏に従ったり、背いたりを繰り返していました)。
222年、文帝は孫権を討つべく、張遼に出陣を命じました。張遼は病身をおして出陣し、魏の皇族の武将・曹休(そうきゅう)とともに孫権軍と対峙します。
(注)曹休(そうきゅう)……曹操の一族。武将としての才能があり、曹操に愛された。劉備(玄徳)や孫権との戦いで幾度も手柄を立てたが、228年、呉の陸遜(りくそん)に大敗し、間もなく死去した。
このとき孫権は、張遼が出陣してきたと聞いて、大いに恐れて言いました。
「たとえ病んでいるとはいえ、張遼の軍とはぶつかってはならぬ。慎め!」
孫権も成長し、大国の君主らしい慎重さを身につけたのでしょうか。あるいは合肥で張遼に大敗したトラウマがあったのでしょうか。とにかく彼は、張遼を徹底して用心するよう、部下に命じたのです。
この戦役で、張遼は同僚たちとともに、呉の武将・呂範(りょはん)を破りました。呂範の船団は暴風雨におそわれ、多くの船が転覆し、数千人が戦死したといいます。いくら孫権軍が水上の戦いに強いといっても、そんな状態では張遼たちの相手ではなかったのですね。
(注)呂範(りょはん)……呉の武将・政治家。孫策・孫権に仕え、重用された。
武の巨星堕つ
■ 武の巨星堕つ
武の巨星堕つ
しかしこの戦いの直後、張遼の病はいよいよ重篤になりました。そしてついに、長江にほどちかい江都で、その生涯を終えたのです。
文帝はこの悲報に接し、張遼を想い涙したといいます。そして張遼に「剛候」の称号を贈り、その武勇と忠節をたたえたのです。
また文帝は後に詔(みことのり/注)を下し、張遼と李典の合肥における功績をたたえました。
(注)詔(みことのり)……皇帝の命令書。
「合肥の戦役において、張遼と李典は800人の歩兵を率い、10万の賊軍(孫権軍)を破った。
古来、歴史において、このような用兵はなかったであろう。
合肥の戦勝は、いまに至るまで賊軍の戦意を喪失させており、国家の武の要というべき功績であった」
文帝はこのように張遼(および李典)の功績をたたえ、その子供に爵位を与えることを表したのです。
ちなみに筆者は、ここでつい別のことを考えてしまいました。
合肥の戦いでは、奇襲作戦に出陣にした張遼・李典とは別に、楽進が城を守っていたのです。地味な役割を与えられたばかりに、文帝の詔で評価してもらえなかったのですから、ちょっと可哀想ですね。あの楽進の激しい性格を考えると、さぞかしヘソを曲げてしまうのではないかと思います。
(ちなみに楽進は、張遼より先にこの世を去っていました)
以上、あの張遼が病にたおれつつも、最後の戦いに奮戦する姿をご紹介しました。次回は張遼死後の対呉戦線について、彼が残した影響もふくめ、ご紹介できたらと思います。