「泣く子もだまる」最強の武将 張遼(9) 敗軍にも勇将あり

「泣く子もだまる」最強の武将 張遼(9) 敗軍にも勇将あり

合肥(がっぴ)の攻防戦において、わずか800の兵で10万の孫権軍を圧倒した張遼。さらには引き上げる孫権軍を猛烈に追撃し、多大な被害を与えたのです。


賀斉の活躍

張遼の猛追を受けた孫権ですが、勇者・凌統(りょうとう)の働きもあり、なんとか川を渡って逃げることができました。
ここでもうひとり、合肥での敗戦を収拾した孫権軍の武将がいます。その名は賀斉(がせい)。あまり有名な人ではありませんが、各地で乱が起きるたびに対応を任された、反乱鎮圧のスペシャリストというべき名将です。
小説「三国志演義」は群雄同士の戦いをメインに描いているので、反乱討伐で活躍した武将にはスポットが当たりにくい面があります。よって賀斉のように、実力の割には無名な武将がどうしても出てくるわけです。
(なお、三国志ファンの目には地味に映る賀斉ですが、実際は派手好きな人物で、とても豪華な武具を身に着けていたといいます)

このとき後方で待機していた賀斉は、孫権の危機を知り、3千の兵を率いて出陣します。そうして逃げのびてきた孫権を船に迎え入れてから、味方の救援に向かったのです。孫権軍は張遼の追撃を受けて大混乱におちいっていました。後に魏との戦いで功をあげる名将・徐盛(じょせい)も負傷し、さらには将軍のシンボルである旗まで奪われてしまっていたのです。
賀斉は徐盛を救援した後、奪われた旗も取りもどし、孫権軍の名誉をかろうじて守りました(旗はただの飾りではなく、軍の威信の象徴でもあったので、敵に奪われることは大変不名誉なことだったのです)。

勇者・凌統、奇跡の帰還

さて、話を凌統にもどしましょう。孫権を逃がすため、身体を張って奮戦した彼は、傷だらけになりつつも奇跡的に生きのびます。橋が壊されていたため、彼は甲冑を身に着けたまま、川を泳いで退却したのです。戦いの強さもさることながら、傷を負った身体で、重いヨロイをつけて川を泳ぎきるのですから、大変な体力と精神力の持ち主ですよね。まったく、すごい武将がいたものです。

凌統の奇跡的な帰還に、孫権は驚きつつも大変喜びました。しかし凌統が戦いで受けた傷は大変なもので、まさに瀕死の状態だったのです。孫権は凌統を自分の船に乗せて、その衣服の着替えまで手伝ったといいます。主人が武将に対してここまでするのは、歴史上でもまれなことです。孫権の凌統に対する想いがひしひしと伝わってきます。

賀斉は孫権をたしなめた

張遼の追撃をなんとかかわし、船に引き上げた孫権。命が助かって気がゆるんだのか、彼は将軍たちを集めて宴会を開きました。
しかしこのとき、孫権の帰還を助けた賀斉が席を立ち、涙を流して孫権に訴えます。

「どうか、このたびの敗戦を教訓としていただきたいのです」

孫権が生きのびたとはいえ、この戦いで多くの将兵が討たれました。特に退却における孫権の判断の誤りが、犠牲をさらに大きくしてしまいました。この負け戦を教訓としなくては、死んだ者たちが報われない―――賀斉はそう訴えたのです。
孫権も、賀斉の諫言(かんげん)に感じるところがあったのでしょう。敗戦を厳粛に受け止め、心に刻むことを誓ったといいます。

孫権は武勇にすぐれていた

合肥の戦いで、張遼にめった打ちにされた孫権。ここだけ見ると、あまりに情けない姿が目立ちます。
しかし、この合戦だけで孫権を判断しないでいただきたいのです。父・孫堅(そんけん)、兄・孫策(そんさく)の覇業を受け継いた彼は、江南(注)に覇権を確立し、呉王朝を建国した男です。ただ情けないだけの人物では、決してありません(赤壁の戦いも、孫権の決断がなければ、勝利はありませんでした)。

(注)江南(こうなん)……中国・淮河より南の、長江中・下流域のこと。

では孫権とはどのような人物だったのか。合肥の戦いに関する記録から探っていきましょう。
まず言えることは、彼は非常に勇敢な性格だったということです。父の孫堅・兄の孫策はいずれも戦に強いことで知られ、時には最前線に立って戦い、多くの勝利を手にしてきた男です(もっともそのせいで、父の孫堅は戦死してしまうのですが)。
孫堅の血を受けつぐ孫権もまた、臆することなく戦う男でした。実際、合肥で戦った張遼ですら、孫権の乗馬と騎射(きしゃ/注)が巧みであることを認めています。

(注)騎射(きしゃ)……馬に乗りながら弓矢を射ること。馬が動くため、正確に矢を放つことが難しい。騎射に巧みな者は、すぐれた武人と評価された。

大将のセオリー

このように勇敢な孫権ですが、残念ながら戦の強さにおいては、父と兄におよばなかったと言えるでしょう。彼は戦争において、父や兄であればあり得ない失策を犯しています。
そのミスの例を合肥の戦いで挙げるなら、退却の仕方を間違えてしまったことです。

孫権軍の退路には川が流れており、川を渡って南岸に渡る必要がありました。この時、勇敢な孫権は自ら退却の指揮を取っており、多くの将兵たちに先に川を渡らせ、自分は最後尾に残っていたのです。
このため、将兵のほとんどが南岸に移動してしまい、敵に近い北岸には、孫権をはじめとする少数が取り残される状態になりました。
そこへ、あの恐るべき張遼が追撃してきたのですからかないません。孫権軍の将兵たちは、孫権を逃がすために盾となり、懸命に戦います。その結果、多くの者が戦死してしまったのです。

戦争は大将が討たれたら終わりなので、「大将はできるだけ安全なところにいるべき」というのがセオリーなのです(ましてや孫権には、父や兄ほどの武勇はありませんからね)。
よって退却するのであれば、大将は真っ先に敵からはなれ、安全地帯に移動しなくてはいけないはずです。にもかかわらず、孫権は自ら奮い立って退却の指揮を取り、最後尾に残ってしまいました。そのため孫権の周辺に、追撃してきた張遼の攻撃が集中します。結果、孫権を守るために、多くの将兵が犠牲となったのです。

三国のひとつ、呉王朝を創建する孫権。歴史において巨大な存在であることは、いうまでもありません。しかし大国の君主としては、あまりに軽率な行いがあったことも、否めないところでしょう。

以上、合肥で張遼に敗れた孫権と、その武将たちについて、簡単に見てきました。孫権軍は敗れはしたものの、凌統や賀斉の奮戦は見事なものでした。負けてしまった軍勢にも、命がけで戦った勇将がいたのですね。

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