まじか!三国志珍プレー8選

まじか!三国志珍プレー8選

三国志には現代では考えられない珍プレーが存在します。戦国の世で「くすっ」としてしまうエピソードもあるので是非読んでみてください。戦国時代の人間は冷血が多いようなイメージもありますが同じ人間なんだなと思うことがあるかもしれません。


1 遺書の書き換えで後継者が変更!

1 遺書の書き換えで後継者が変更!

1 遺書の書き換えで後継者が変更!

後継者問題というのは今も昔も大変重要な問題でした。会社の場合後継者選びに失敗してしまうと一気に倒産してしまうなんて言うことになりかねません。そして三国志の時代ではこれを一歩間違えると国が滅びてしまうということになりかねませんでした。劉備にまだそこまで力が無かったころ、劉表(りゅうひょう)と共闘していた時期がありました。その劉表は死に際に後継者として長男の劉琦(りゅうき)を指名していたが周りの者の陰謀により遺書が書き換えられ次男である劉琮(りゅうそう)が劉表の後継者となってしまいました。そしてこの劉琦は孝行心にすぐれ、聡明だというのだからもったいないと言うばかりです。

2 董卓(とうたく)のでたらめ政治

2 董卓(とうたく)のでたらめ政治

2 董卓(とうたく)のでたらめ政治

三国志の中でも最も悪役にされることが多いのが董卓です。董卓は残虐性で知られ「反董卓連合」を作らせるほどの大物でみんなが「董卓を倒さなければ」と思うほどの存在でした。そんな董卓はとにかくやることがでたらめ。一番のでたらめ政治と言ったら新貨幣の導入と言ってもいいでしょう。単なる銅片を貨幣としてしまいました。もちろんそんな貨幣として扱うことはできず、その貨幣では売買が成立することはできませんでした。とにかく何でもありと言った政策を打ち出す董卓の発想はやはりぶっ飛んでいますね。最後は養子とした呂布に倒されてしまうというのもなんとなく頷けます。

3 曹操(そうそう)の行った苦肉の策

3 曹操(そうそう)の行った苦肉の策

3 曹操(そうそう)の行った苦肉の策

最終的に三国志の覇者のような扱いを受ける曹操(実際彼が三国をまとめたわけではありませんがその礎を築いた功績は大きい)ですが、実は何度も大敗を喫しています。そんな曹操ですが、ある時戦争が長引き、野営日数が多くなったことにより食糧難に陥ったことがありました。そんな時曹操がとった苦肉の策が食料を量る升を小さくするという策です。しかしますがあっけなく升が替えられたことに気づいた兵士たちは暴動を起こすことになるのですがなんと曹操は食料支給担当者が勝手にやったことだと言ってその首を取って難を逃れました。こんな感じでピンチでも逃げることができる曹操が覇者となったのです。

4 とにかく飲ませる張飛

4 とにかく飲ませる張飛

4 とにかく飲ませる張飛

張飛は大の酒豪として知られ、酒による失敗もやらかしてしまいました。一番の失態は張飛が酔いつぶれている際に呂布の軍勢が城内になだれ込んでしまったため劉備(玄徳)の家族も置き去りにして逃げ出してしまいました。そんな張飛に対し自害しようとした張飛に対し劉備(玄徳)はそれを止めるどころか「妻子よりもお前の方が大事だ」という旨を伝えています。しかも張飛は飲むのが好きなだけでなく、飲ませるのも好きで酒を断った曹豹をむち打ちの計にしています。最後は部下に首を取られてしまうという笑えない結果になってしまいました。今で言ったら相当のパワハラ上司で話にならない人物ですが強い者には目をつむってしまうのは今も昔も変わりませんね。

5 最終的な勝者

5 最終的な勝者

5 最終的な勝者

三国志をよく知らない人でも劉備や孔明、曹操は聞いたことがあるでしょう。そしてそれよりはちょっと三国志についての知識がある人は、三国が魏・呉・蜀の三国であることを知っているでしょう。しかし、私が昔読んだ三国志の漫画は孔明が死んだところで終わりましたし、曹操率いる魏が強すぎたため「最終的に魏が統一して終わったのかな」という漠然なイメージしかありませんでした。ところが三国志の終焉は魏の統一ではありません。魏が蜀を滅ぼした後、曹一族が築き上げた魏を司馬炎(しばえん)が簒奪、魏と蜀の地を晋(しん)としました。そして最後にその晋が呉を蹴散らして三国時代の終わりを迎えました。「結局そこ?」という感じですね。

6 三国志のその後

6 三国志のその後

6 三国志のその後

上記5で記述したように三国志はなんとそれまでしのぎを削っていた「魏・呉・蜀」の勝利ではなく漁夫の利というような形で晋が幕を下ろしてしまいました(晋を魏という見方もできなくはありませんが)しかしその晋、長くは持ちません。天下を統一した晋の司馬炎がなくなると後を継いだ司馬衷(しばちゅう)が即位するといきなり勢力争いが勃発してしまいました。晋が天下を統一した24年後には劉淵(りゅうえん)が漢を建国してしまい、その7年後には晋が滅ぼされてしまいました。わずか31年で実質的に晋は滅びてしまったのです。それが起きたのが311年のことですが、なんと次に中国が統一されたのは589年(隋)です。遣隋使で有名ですね。

7 そもそも日本人の知っている三国志って?

7 そもそも日本人の知っている三国志って?

7 そもそも日本人の知っている三国志って?

三国志って名前は聞いたことがあるけどいつの時代だか分からないし、「関羽が強すぎたり、孔明が頭良すぎたりなんか大げさすぎない?」と思う人もいることでしょう。それもそのはず、日本で知られている三国志というのは主に3世紀末に発表された歴史書である「三国志」と、7割の史実に3割の虚構を加えた歴史小説「三国志演義」があるからです。レッドクリフで、孔明が東南の風を吹かせるなどの神懸ったことは「三国志」ではありません。また曹操が悪者と言う印象が強いのは三国志演義で曹操が敵役として描かれたためです。ちなみに三国志演義は14世紀初頭に発表。著者は羅漢中(らかんちゅう)とも施耐庵(したいあん)とも言われています。

8 関羽の死後

8 関羽の死後

8 関羽の死後

呉の武将呂蒙(りょもう)の罠にかかり関羽は息子の関平とともに殺されてしまったわけだが、その後が結構安っぽい話になってしまいました。なんとその呂蒙は関羽に呪い殺されてしまいまうというオチです。さらに孫権は関羽を殺したことで劉備(玄徳)がブチ切れているというのを知って関羽の首を曹操に送って怒りの矛先を曹操に向かわせようとしました。それまで何人もの死体が発生した三国時代において関羽の死だけはなぜか特別扱いされていました。ちなみに関羽の乗っていた赤兎馬も関羽の死後まぐさを食べようとせず数日後に死にました。関羽の死により劉備(玄徳)が強引な攻めに出たりと、関羽の死は三国志の中でかなりのターニングポイントとなりました。

まとめ

まとめ

まとめ

三国志では現在では考えられないほどの珍プレーが存在していました。もちろん当時の人たちは大まじめにそれらを捉えていたわけですが、曹操や董卓のとった行動は「馬鹿だなぁ」と思ってしまいますよね。昔の豪傑は誇張されているだろうから凄さばかりが引き立ちますが珍プレーによりどこか「普通の人だったのかも」と思わせてくれると思ったのは私だけでしょうか。とにかく大真面目に生きた戦国時代でも「クスっ」と笑ってしまうようなことはあるので気軽に三国志に触れてもらえればうれしいです。





この記事の三国志ライター

関連するキーワード


三国志 関羽 曹操

関連する投稿


三国志の英雄がイケメンに!?三国志をテーマにした女性向けゲームアプリ!

日本の戦国時代や幕末をテーマとした女性向け恋愛シミュレーションアプリがあるように、三国志をテーマにしたものも存在するんです! 素敵な英雄と恋を楽しんでみませんか?


三国志の人材コレクター!曹操が集めた魏の武将たち

群雄割拠の三国時代において、抜きんでた兵力を誇った魏の国。その礎となったのは、「人材コレクター」の異名を持つ曹操孟徳が集めた、優れた武将たちの働きでした。曹操は優秀な人材なら出自を問わず重用し後の蜀の皇帝・劉備(玄徳)の腹心である関羽まで手に入れようとしたほどです。そんな曹操のもとに集った腹心たちをご紹介します!


三国志の始まり~王朝の乱れより黄巾の乱の始まり~

「蒼天己死」~そうてんすでにしす~ 腐敗した漢王朝に代わる新しい世界を求めた者たちは、この言葉のもと各地で蜂起する。これが「黄巾の乱」である。この反乱が成功することがなかったが、三国志の英雄たちを歴史の表舞台に登場させることとなる。


董卓~三国志随一の暴君~

黄巾の乱後の政治的不安定な時期を狙い、小帝と何皇太后を殺害し、献帝を擁護し権力を掌握していく朝廷を支配していた絶対的存在。 政権を握った彼のあまりにもの暴虐非道さには人々は恐れ誰も逆らえなかった。 しかし、最後は信頼していた養子である呂布に裏切られるという壮絶な最後を遂げる。


魏軍武勇筆頭! 義にも厚かった猛将・張遼

曹操配下の将軍の中でもトップクラスの評価を受けるのが張遼だ。幾度か主君を変えた後に曹操に巡り合い、武名を大いに轟かせる。最後まで前線に立ち続けた武人の生涯をたどる。


最新の投稿


人中に呂布あり ― 奉先、馬中に赤兎あり、呂布入門!

後漢の末、彼の名は風のように戦場を駆け抜けた。呂布、字は奉先。人は「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と讃えたが、同時に「三姓の家奴」と蔑んだ。最強の矛と、最も軽い信。――この二つが、彼の生涯を裂いたのだが、強さ上の人気、呂布について、初めての方に紹介しよう。


馬氏五常、白眉最良」~兄弟の中で最も優れた者~

中国三国時代、馬氏5人兄弟は、みんな優秀な人物でした。その中で蜀の馬良が、最も才能があったそうです。そして、眉に白い毛が混じっていたことから「白眉」とあだ名され、「馬氏の五常、白眉最もよし」と称えられて、故事になりました。どうして、それほど優秀だったのでしょう? エピソードを見てみましょう。


長坂坡の橋で一喝 - 単騎、敵軍を睨み据える

三国志の数ある名場面の中でも、ファンに強烈な印象を残すのが「長坂坡(ちょうはんは)の戦い」での張飛のエピソードです。 「我こそは燕人張飛である!」――たった一人の叫びが、数万の曹操軍を押しとどめたと言われています。


錦の袋の三つの計 ― 周瑜の包囲を破る諸葛亮の知略

周瑜の罠に落ち、孤立無援の劉備軍。だが趙雲の懐には、諸葛亮が託した「錦の袋」があった。三つの計略が、絶体絶命の状況を逆転へと導く。


関羽・麦城に散る~義将の最期と孫権の裏切り

219年、関羽は北伐中に孫権の裏切りに遭い、荊州を失陥。麦城に追い込まれたが、援軍は届かず、脱出を試みるも捕縛される。孫権は処刑を決断し、関羽は義を貫いて散った。その死は劉備の復讐戦(夷陵の戦い)を招き、後世では「忠義の神」として信仰される。孤高の英雄の最期を描く三国志屈指の悲劇。


アクセスランキング


>>総合人気ランキング