Part1のつづきです!!
■ Part1のつづきです!!
Part1のつづきです!!
前回の「あいつも前科者なの!? Part1」に引き続き、前科のある三国志の登場人物について、罪状や経緯などを掲載します。
もしあなたの好きな武将が前科持ちだったとしても、決して嫌いにならないでくださいね。三国志演義以外の書籍や劇からもエピソードを拝借してきているので、もしかしたら事実無根の作り話かもしれません。しかし、三国志演義だって3割がたはフィクションらしいので、あまり気にせず「へーそうなんだ~」程度に思ってもらえたらうれしいです。
曹操親衛隊長は元山賊
■ 曹操親衛隊長は元山賊
曹操親衛隊長は元山賊
悪来典韋の後釜となって曹操親衛隊長になった許褚は、呉の甘寧と同じようにもともと山賊の親玉でした。許褚がまだ山賊の親分をやっていたときのこと、曹操軍はたまたま許褚と数百人が居住する砦の前を通りかかりました。その砦は堅固な要塞となっており山賊だてらにちゃんと自衛して生活をしていました。
その砦が気になった曹操は「あそこの主は誰か?」と聞くと部下の一人が「あれは許褚という者が頭をしている山賊の砦です。許褚は身の丈8寸ある巨漢で、怪力の持ち主ですぞ」と答えました。
「ほう、それではウチの悪来とどちらが強いのか比べてみよう」ということで、曹操は猛将典韋に許褚との一騎討ちを命じました。
典韋VS許褚の一騎討ちはかなり壮絶なものだったらしく、その戦闘は一昼夜におよびました。しかし、どちらも五分五分の戦いで引き分けに終わります。
これを観戦していた曹操が許褚の剛勇っぷりを痛く気に入ってしまい一計を案じて許褚を生け捕りにしました。
曹操 許褚を心服させる
■ 曹操 許褚を心服させる
曹操 許褚を心服させる
縄で縛られて曹操の前に引き出された許褚は暴れることなく跪き、「俺の負けだ。煮るなり焼くなり好きにしろ」と言ってうつむきました。すると曹操はあろうことか許褚を縛り上げていた縄をときます。
「いったいなんの真似だ!?、からかうのも大概にしろ!!」と怒鳴りますが、曹操はそんなことなどお構いなしに許褚を立たせると「そなたの武勇、まことに見事である。どうだ?わしとともに天下に武名を広めようではないか。そなたの力がわしには必要なのだ」と丁重に傘下に入るように勧めました。
すると許褚は目から涙を流し、跪いて拝手すると「今しばらく、お待ちください。我が一族を連れて参ります」と許しを請い、曹操がこれに承諾するとすぐに砦から数百人の子分を従えて正式に傘下に下ることを申し入れました。
曹操はこの一件で即戦力を獲得し、許褚は自分の能力を発揮する場と地位をえることができたのです。
呂布の知恵袋 陳宮
■ 呂布の知恵袋 陳宮
呂布の知恵袋 陳宮
三国志演義の話中で、陳宮が初登場するときは獄吏の長官という身分で登場します。董卓暗殺に失敗した曹操は、董卓からもらった駿馬に跨り逃走するも人相書きが配布され、官軍から追われる身となりました。あえなく逮捕されてしまった曹操が投獄されたのが、陳宮が長官を務める牢獄だったのです。
陳宮 脱獄に加担する
■ 陳宮 脱獄に加担する
陳宮 脱獄に加担する
投獄された曹操はあと数日で死刑に処される運命にありました。この時すでに曹操は正妻の丁夫人と側妻に劉夫人、卞夫人を迎えており、曹昂(そうこう)、曹鑠(そうしゃく)、清河長公主、曹丕も生まれていました。また、父親の曹嵩も母親もまだ存命でした。
しかし、曹操は泣き言ひとつ漏らさず獄吏に「暇つぶしに書簡を読みたいんだが…」とか瞑想しながらブツブツ独り言をつぶやくなどこれから処刑される人間がやる行動とは思えないことばかりしていました。最初は獄吏たちも泣き言を大きな声で言うのを恥じて、小声で漏らしているのだろうとたかを括っていたが、耳を澄ませるとどうもそれとは違うらしい。
彼らが聞きなれている泣き言といえば、「親より早く死ぬなんて自分はなんて親不孝なんだろう」や「まだ死にたくない」、「お願いします、死ぬ前に妻と子供にひと目合わせてください」などがほとんどでした。
これを妙に思った獄吏たちは上司の陳宮に報告。「ほう、それは気になる囚人だな…」ということで、陳宮は調査書を引っ張り出して曹操の出自や罪状を調べました。
出自は「大尉曹嵩の嫡男、元十常侍(宦官のトップ)曹謄の孫!?」、罪状は「相国(董卓の役職)暗殺未遂の下手人!?」。もしかすると、この男は相当な胆力の持ち主なのかもしれない。そう感じた陳宮は自ら曹操の牢獄に足を運び、直々に面談をしました。
曹操と面談をした陳宮は、曹操の論ずる言葉に痛く感動。もともと董卓のやりたい放題な振る舞いに不満をもっていた陳宮は「あなたこそ私の仕えるべき人です。私はあなたのような御人が現れるのをお待ちしておりました。ここから出して差し上げる代わりに仕えさせてください」と申し出て、曹操の脱獄に加担し、一緒に逃避行をはじめます。
これを現代に例えると、刑務所長が取り調べで死刑囚の話に感動して脱獄を手伝い、さらには死刑囚の経営する企業の社員になってしまうくらいの大事です。
このくらいの地位にいる陳宮が官服と収入を脱ぎ捨ててまで従おうとしたのですから、曹操の弁舌は人を説得するのに優れていたのでしょう。
誘拐した女性を妻にした張飛
■ 誘拐した女性を妻にした張飛
誘拐した女性を妻にした張飛
三国志の登場人物のなかでも張飛は、本能のままに生きるがさつな乱暴者として描かれます。嬉しいときに笑い、泣きたいときは泣き、怒りたいときに怒る。喜怒哀楽が手に取るようにわかるような性格が庶民たちから長く愛されるキャラクターとして支持される要因になりました。
張飛の系図を確認すると彼の娘は劉備(玄徳)の息子劉禅(阿斗)に嫁いでおり、蜀の皇后になっています。しかも、この娘の母親がなんと夏侯淵の娘なんだそうです。
なぜ敵方の将軍の子女を張飛が娶っているのか気になりますよね?
夏侯淵の娘は美女ばかり
■ 夏侯淵の娘は美女ばかり
夏侯淵の娘は美女ばかり
不良グループを結成してから生涯曹操に仕えた夏侯淵の娘たちは美女ぞろいでした。一人は曹操の息子に嫁ぎ、一人は孫権の息子に嫁いでいます。そしてもう一人がなんと張飛の奥さんになっていました。
山菜とりに出かけていった夏侯淵の娘はこのとき10代の少女でした。山菜をとっているうちに護衛兵たちとはぐれてしまい迷子状態だった彼女を見つけたのは、あろうことか敵方の将軍の張飛。張飛は少女に一目惚れしてしまい、その場で情事に及んでしまったのです。
「うん、やってしまったらしょうがない。俺の嫁としてウチに連れてくぞ!!」ということで、少女を誘拐して妻にしてしまいました。
そして、このとき身ごもった子が後々、劉禅の妃となり40年に渡って蜀の国母となる皇后となるわけです。
まとめ
■ まとめ
まとめ
漢代の法律は秦があまりに厳しくしてしまったために、ゆるゆるに設定されていました。また、現代のように時効は何年でこの罪状なら禁固刑何年などの体制もなかったので、大理寺(現在の最高裁判所のような機関)や衙門(現在の警察署)の長が独断で無罪、有罪、刑の執行を決めていました。地方の財政が困窮すると一か月足らずで捜査が打ち切られたり、「飢餓に苦しんで庶民を盗賊にしてしまったのは、我ら官吏のせいだ」と県令が言って窃盗罪を赦免することもありました。
前科のある三国志の登場人物は、ある意味以上のような法律の下で裁かれていたおかげで助けられたのでしょう。秦のようにギチギチに法律を固めて機械的な取締が行われていたら、おそらく全員即刻死刑になっているはずです。
「善悪は己の良心に従って判断すべし」と法律を緩めた漢の法律は、結果的に民や豪族の活動を活発にしたので、あながち間違いでもなかったようです。