魔王・董卓の真実(7) 董卓の経済政策を考える

魔王・董卓の真実(7) 董卓の経済政策を考える

今回は「経済」の側面から、董卓政権を考えてみたいのですが……首都だった洛陽(らくよう)を焼け野原にしてしまう時点で、後漢王朝の経済はメチャクチャになっているわけです。さらに董卓はそれ以外にも、経済を混乱させる愚策をとってしまうのです。


洛陽の都を焼いた! 焦土作戦を断行

洛陽の都を焼いた! 焦土作戦を断行

洛陽の都を焼いた! 焦土作戦を断行

陽人の戦いで董卓軍を破った孫堅は、勢いに乗って洛陽へと進撃してきました。
董卓は孫堅を恐れ、なんとか和議を結ぼうと使者を送りますが、拒絶されます。
(孫堅は早くから董卓を危険人物と見なしていたので、講和の話に乗ってくるはずなど無いのです)

こうして孫堅の軍がいよいよ洛陽に迫ってきたため、董卓はついに自ら出陣し、迎え撃ちます。
しかし勢いに乗る孫堅の前に、董卓すら敗北してしまいました。
こうなると、頼みの綱は猛将・呂布です。ところがこの呂布の軍まで、孫堅に敗れてしまったのです。

ここで戦況が不利と見た董卓は、驚くべき手段に出ます。
なんと後漢の都だった洛陽を、すべて焼いてしまったのです。
「孫堅の勢いはすさまじく、このままでは洛陽を守りきれない」
そんな状況で董卓が選んだのは、焦土作戦(しょうどさくせん/注)という究極の戦法でした。
もはやなりふり構わずというか、手段を選ばないというか……
董卓軍は洛陽を焼き尽くしたうえで、新しい都・長安に引きあげたのです。

(注)焦土作戦(しょうどさくせん)……領土を敵方に奪われる前に焼き尽くし、敵方が食料や物資をその場で補給できないようにする戦法。

焦土作戦にも理由があった…

焦土作戦にも理由があった…

焦土作戦にも理由があった…

たしかに常軌を逸した蛮行(ばんこう/野蛮な行い)であり、この暴挙によって董卓は決定的に評価を落としています。
とはいえ焦土作戦を行えば、孫堅や反董卓連合軍の追撃を食い止める効果があるのはたしかでしょう。
洛陽を占領したところで、食料も物資も補給できないので、それ以上進軍するのは難しくなります。本拠地から輸送してくるといっても、多大な時間とコストがかかりますし、(山賊などがいるので)無事に届くとも限りません。
つまりは、きわめて乱暴な方法ではあるものの、洛陽を焼き払うのは戦略上の合理性はあったのです。

勝者なき結末 「反董卓連合」解散

勝者なき結末 「反董卓連合」解散

勝者なき結末 「反董卓連合」解散

こうして孫堅は、焼け野原になった洛陽に入ります。そうして董卓によって荒らされていた歴代皇帝の墓を修復しました。この行いで、孫堅の名声はいよいよ高まったといいます。
しかしさすがの孫堅も、焼け野原の洛陽では食料・物資の補給ができず(もともと孫堅は兵糧の不足に苦しんでいました)、董卓の追撃をあきらめて撤退せざるをえませんでした。
やはり董卓の「洛陽焦土作戦」は、道徳的にはともかく、戦略上は合理的だったといえるのでしょう。
(なお、この洛陽入りで、孫堅が伝国の玉璽(でんごくのぎょくじ/注)を手に入れたとする書物もありますが、たしかなことは分かりません)

(注)伝国の玉璽(でんごくのぎょくじ)……皇帝専用の印(ハンコ)。皇帝権力のシンボルでもある。

董卓も敵をほめる! 勇将・孫堅の奮闘

董卓も敵をほめる! 勇将・孫堅の奮闘

董卓も敵をほめる! 勇将・孫堅の奮闘

洛陽入りで名を上げた孫堅。董卓もまた、孫堅を大いに評価しており、こんなことを言ったといいます。
「関東軍(反董卓連合軍)の武将たちは無能で負け戦ばかりしているが、孫堅だけは多少マシだ。注意して相手する必要がある」

そう。反董卓連合軍のなかで、真に武将として董卓をうならせたのは、孫堅ただひとりだったのです。
大義をかかげて決起した連合軍でしたが、ほとんどの武将が董卓軍との正面対決を避けたため、董卓の打倒は遅々として進みません。武将同士が腹をさぐりあい、終いには仲間割れをして争いだすなどし、連合軍は内部から崩壊してしまいました。
こうして、反董卓連合軍に参加した武将の多くが、各地で独立して勢力争いを始めることになります。
三国志の群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の時代が、いよいよ本格的に幕を開けるのです。

ともあれ、董卓と反董宅連合軍、どちらも勝者とはいえず、戦いは痛み分けに終わりました。董卓は洛陽を失ったものの、いぜんとして長安で独裁体制を維持しているのです。

経済政策は大失敗

経済政策は大失敗

経済政策は大失敗

ここからは、董卓の具体的な政治(暴政)について、もう少し詳しく見ていきましょう。
権力の座についた彼は、自身を相国(しょうこく)、太師(たいし)といった、例外的に高い位につきます。
また自身の一族をも、露骨に高い身分に引き上げました。弟の董旻(とうびん)は左将軍、甥の董璜(とうこう)は中軍校尉という軍の要職につけ、母親にも高貴な称号と待遇を与えています。
まあここまでなら歴史上の権力者によくあることですが、スゴイのは幼い孫娘にまで領地を与えていることです。果たして孫娘は、祖父・董卓からもらったモノの意味を、理解していたのでしょうか……。

そして経済政策については、董卓は重大な失敗をしでかします。超インフレをまねいてしまったのです。
董卓は従来の貨幣をつぶして、粗悪な小銭を改めて鋳造(ちゅうぞう)し直しました。
それによって通貨の価値は暴落し、物価が異常に上昇する超インフレをもたらしてしまいました。
董卓の時代で事実上、貨幣経済は機能しなくなってしまったのです。

もうひとつ、董卓のやったことで経済に大打撃を与えたものがあります。
それは首都であった洛陽を焼け野原にしたことです。
いまの日本で、東京を焼け野原にして大阪や名古屋に遷都することを、想像してみてください。
そう考えれば、董卓のやったことが国の経済を根本から破壊することだと、お分かりいただけると思います。
もちろん董卓は軍事的(防衛的)理由から、洛陽を焼いたのですが……後漢王朝の経済の心臓部を、彼は破壊してしまったのです。

董卓政権の景気対策(?)

董卓政権の景気対策(?)

董卓政権の景気対策(?)

まあそれでも……
あえて(強引に)、董卓が経済にもたらしたプラス面を挙げるなら、それは景気対策の面でしょうか。
董卓は歴代皇帝の墓を暴いて宝物を奪ったり、富豪を捕らえて財産を没収するなど、金銭・財宝を貪欲に集めました。当然その財産で贅沢をするのですから、消費を促進する面もあったでしょう。
また、反董卓勢力を相手に戦争をし、そのたびに兵糧や物資を購入するのですから、これまた消費を促進しています(その分、財政はメチャクチャになるわけですが)。

そうはいっても、貨幣経済の破壊による超インフレ、首都であった大都市・洛陽の破壊など、董卓政権は後漢王朝の経済を完全に壊してしまったと言っていいでしょう。
董卓の経済政策は、完全に大失敗だったのです。

しかし……独裁者・董卓の恐ろしさは、こんなものではありません。
読むのもためらわれるほどの残酷な行いが、まだまだ繰り広げられます。
次回では、董卓のさらなる暴政・蛮行(ばんこう)と、破滅への道のりを追っていきましょう。





この記事の三国志ライター

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