魔王・董卓の真実(6) 長安遷都にも理由があった

魔王・董卓の真実(6) 長安遷都にも理由があった

少帝廃立&暗殺の次は、強引な長安遷都で大顰蹙を買ってしまう董卓。しかしこの遷都にも、安全保障上の重大な理由があったのです。


強引な長安遷都! それなりの事情があった…

強引な長安遷都! それなりの事情があった…

強引な長安遷都! それなりの事情があった…

董卓に抜擢された「名士」の多くが、「反董卓連合」を結成し、董卓を討つべく都へ攻めよせてきます。
かくして「人事」では完全に失敗した董卓でしたが、「軍事」は得意分野です。連合軍に負けじと、次々と手を打っていきました。
まず、敵軍の旗印とされるのを未然に防ぐため、前皇帝(少帝)を殺害します。
さらには多くの反対を押し切って、遷都(せんと/都を移すこと)を断行しました。
(しかもこの際、呂布に命じて歴代皇帝のお墓をあばき、中にあった宝物を我が物にしたといいます)

ここで、漢王朝の都(首都)についておさらいしておきましょう。

前漢……長安(現・西安)

後漢……洛陽(らくよう)

後漢末・董卓政権……長安

後漢末・曹操政権……許(許昌)

「項羽と劉邦」でも有名な高祖・劉邦(こうそ・りゅうほう)は、漢王朝を創建し、都を長安に置きました。
その後、漢王朝はいちど滅亡してしまうのですが、すぐに皇族の光武帝・劉秀(こうぶてい・りゅうしゅう)によって復興します。このとき、長安が戦争で荒れ果てていたため、東にある洛陽(らくよう)に都を移しました。洛陽は後漢王朝の末期まで、都であり続けたのです。

首都・洛陽では安全保障の危機が

首都・洛陽では安全保障の危機が

首都・洛陽では安全保障の危機が


しかし反董卓連合の参加者は、東側から洛陽を取り囲むように攻め寄せてきました。董卓からすれば、洛陽は軍事的に守りにくく、都を置くには危険な場所となりました。そこで、反対意見を強引に押し切り、都を長安に移したのです。
長安は洛陽の西にあるので、東からの敵に対しても安全です。また董卓の出身地である涼州(りょうしゅう)に近いことも、彼にとっては心強い要素だったのでしょう。
(少帝の廃立・殺害もそうですが、董卓が強引な事をしでかす場合、彼なりの事情があるケースが多いです)

なお、董卓の時代より後、曹操が皇帝(献帝)を擁立(ようりつ/注)し、中央の政権をにぎります。このときは曹操の本拠地である許(許昌)に遷都されました。戦乱の影響や、権力者の都合によって、都はその度に移されてきたのです。

このように董卓は(彼なりの事情や合理性があったとはいえ)遷都という国家の一大事を、きわめて強引に押し通しました。いよいよ董卓政権に対する反感は高まっていきます。

軍事は強い董卓! 名将・徐栄が曹操を返り討ち!

軍事は強い董卓! 名将・徐栄が曹操を返り討ち!

軍事は強い董卓! 名将・徐栄が曹操を返り討ち!

さて、董卓を大いに恐れさせ、長安への遷都まで決行させた「反董卓連合軍」は、その後どうなったのか?
彼らは兵を挙げたものの、董卓との勝負にはふみ切らずにいました。
いざ戦うとなると董卓軍は強大なため、できれば先陣は切りたくない―――それが盟主・袁紹以下、連合軍の武将たちの本音でした。しかし皆が同じように思っているため、結局はだれも董卓軍に立ち向かわない状況が続いたのです。

こうした状況に異を唱えたのが、後に三国志の英雄となる曹操でした。
この時点で曹操は州や郡の長官でもなく、他の武将たちより勢力が劣っていたこともあり、主張が通ることはありませんでした。やむなく曹操は、自らの手勢とわずかな味方とともに出撃します。

この若き日の曹操を迎え撃ったのが、董卓軍の武将・徐栄(じょえい)でした。
少ない兵とともに奮闘した曹操ですが、兵力の差もあり、あえなく徐栄の軍に敗れます。
しかしそこはさすがに曹操というべきか、彼の戦いぶりは徐栄に鮮烈な印象を残したようです。
曹操の軍は少数でしたが、最後まであきらめることなく、決死の奮戦を続けました。
勝利した徐栄も「これは手ごわい相手だ」と感じ、連合軍とのさらなる戦いをあきらめ、いったん兵を引きあげたのです。

戦巧者の徐栄、今度は孫堅も撃破!

戦巧者の徐栄、今度は孫堅も撃破!

戦巧者の徐栄、今度は孫堅も撃破!


こうして、後に三国・魏の創始者となる曹操を破った徐栄。
次は呉王朝の始祖となる、孫堅(そんけん)が相手です。
黄巾の乱の討伐などで功をあげた孫堅は、精強な軍団を率いており、非常な勢いで洛陽に迫っていました。しかし孫堅が洛陽にいたる手前で、徐栄の軍に敗れたのです。
徐栄は孫堅の息の根を止めるにはいたりませんでしたが、この戦いで董卓に逆らった地方の長官をとらえました。この男はあわれにも、洛陽に送られて煮殺されています(恐ろしい話ですが、異民族討伐の修羅場をくぐってきた董卓は、「恐怖による支配」というものを念頭においていたのでしょう。捕虜に対するあつかいも、とてもキビシイものがあります)。
ともあれ、後に魏・呉それぞれの始祖となる曹操・孫堅を、徐栄はいずれも撃破したのです。

董卓自身もまた、軍事に関しては切れ味を発揮しました。
反董卓連合軍の王匡(おうきょ)という武将は、合戦を恐れる他の武将とはちがい、果敢に董卓軍に挑みます。
しかし董卓はたくみな軍略で、この挑戦をあしらいます。おとりの部隊を使って王匡をおびき出しつつ、こっそり回りこませた精鋭部隊に、背後から急襲させたのです。こうして王匡の軍をほぼ全滅させてしまいました。
さすがは董卓、やはり軍事になると強いのです。

董卓軍に思わぬほころび! 孫堅の執念の前に敗退

董卓軍に思わぬほころび! 孫堅の執念の前に敗退

董卓軍に思わぬほころび! 孫堅の執念の前に敗退

孫堅は、董卓とは非常な因縁のある人物です。
ふたりはかつて、涼州の反乱討伐にともに従軍していますが、この時点で両者の関係は緊張したものでした。
董卓が総司令官の張温に無礼な態度を取るのを見て、孫堅は「董卓を処刑すべきだ」と進言しました。筋金入りの「アンチ董卓」なわけです。
孫堅の目には、董卓のような人間に権力を持たせては、世の中の災いになると映ったのでしょう。その見通しは現実となり、董卓は政権をにぎるや専制政治をはじめたのです。

いちどは徐栄の軍に敗れた孫堅ですが、董卓打倒に燃える彼はふたたび軍勢をまとめ、洛陽に近い陽人(ようじん)城というところに入ります。
そこに董卓軍が攻撃を仕掛けました。指揮官は胡軫(こしん)、そして猛将・呂布のふたりです。

結論からいうと、この人選が最悪だったために、董卓軍は敗北するのです。
胡軫は董卓と同郷の涼州出身者ですが、短気でせっかちな性格の武将でした。董卓の指図も無視して強行軍を続けたせいで、兵を疲れさせ、士気を大きく下げてしまいます。
なおかつ胡軫はごう慢な人物でもあり、周囲から嫌われていました。呂布も胡軫のことを嫌っていたため、戦いそっちのけで胡軫の足を引っ張ります。
呂布は味方であるはずの胡軫に、ウソの情報をふき込みました。胡軫はニセ情報を真に受けて軍を動かしますが、ことごとく上手くいかず、兵たちは疲れきってしまいます。結局、胡軫はなんの戦果も得られないまま、軍を退くことにしました。
この退却するタイミングを、戦上手の孫堅は見逃しませんでした。ただちに追撃をかけて、胡軫・呂布の軍に大勝し、董卓軍の武将・華雄(かゆう/注)を討ち取ったのです。

やっぱり「人事」でつまづいた董卓

やっぱり「人事」でつまづいた董卓

やっぱり「人事」でつまづいた董卓


しかし……どうです? この負け方。
相手と戦う以前に、将軍同士が足を引っ張り合って負けるのですから、お話になりませんよね。
せっかちで嫌われ者の胡軫を起用したのも間違いですが、わざと自軍を敗北に導く呂布も(いくら強いとはいえ)かなり問題のある武将です。
このふたりのコンビで軍を指揮させることが、そもそも間違いだったのでしょう。

得意の「軍事」で、連合軍相手に有利に戦いを進めていた董卓。
しかし肝心のところで、やはり指揮官の「人事」でつまづいてしまったのです。

(注)華雄(かゆう)……董卓軍の武将。陽人の戦いで孫堅に討たれる。
なお、小説「三国志演義」での華雄は、劉備軍の関羽に討ち取られたことになっている。関羽の見せ場を作るため、「演義」では改変がされている。


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