錦の袋の三つの計 ― 周瑜の包囲を破る諸葛亮の知略

錦の袋の三つの計 ― 周瑜の包囲を破る諸葛亮の知略

周瑜の罠に落ち、孤立無援の劉備軍。だが趙雲の懐には、諸葛亮が託した「錦の袋」があった。三つの計略が、絶体絶命の状況を逆転へと導く。


三つの小袋 (錦の袋)の秘密とは?

三つの小袋 (錦の袋)の秘密とは?

三つの小袋 (錦の袋)の秘密とは?

建安十三年(西暦208年)、赤壁の大戦で曹操軍を破った孫権・劉備の連合軍は、戦後処理に向けて揺れていた。周瑜は勝利の勢いに乗じて荊州を自らの手に収めようと画策し、劉備の存在を疎ましく思い始める。

当時、劉備は荊州南部の公安を拠点とし、戦後復興と民心安定に努めていた。しかしその背後には、いつ再び牙を剥くかわからない呉の存在。特に周瑜は、劉備を「荊州を奪う野心家」と見なし、密かに排除計画を進めていた。

諸葛亮はこの空気を敏感に察知していた。周瑜の才は軍略だけではない。策略もまた、彼の武器である。もし孫権の承諾を取りつければ、劉備を孤立させ討つことは容易いだろう。

劉備は周瑜に招かれ、荊州南部の軍事協議へ赴くことになる。その裏に潜む意図を、諸葛亮は見抜いていた。

「殿、もしこの行きが罠であれば…」

諸葛亮は、趙雲を密かに呼び寄せ、三つの小袋を取り出した。袋は錦で作られ、それぞれ封がされ、表には「一」「二」「三」と数字が縫い込まれている。

「これらは、事が起きた順に開けよ。中の策をそのまま実行すれば、必ず殿を無事にお戻しできる」

趙雲は深く頷き、その袋を懐に収めた。

周瑜の策略と激動

周瑜の策略と激動

周瑜の策略と激動

周瑜の招きに応じ、劉備は少数の供回りだけを連れ、江陵へ向かう。表向きは軍事協議、実際は宴席を設け、劉備を酔わせ、そのまま人質とする計画だった。

宴の最中、周瑜は笑顔を絶やさぬまま、さりげなく出口を塞ぎ、劉備の護衛を分断する。
趙雲は場の空気が変わったのを察し、そっと錦袋の「一」を開く。

――袋の中の文は簡潔だった。
「直ちに江岸の小舟を奪い、夜陰に紛れて対岸へ渡れ」

趙雲は即座に動く。酒席から外れ、港の警備兵を不意打ちし、舟を奪取。劉備を乗せ、江を渡った。だが対岸にはすでに周瑜の追撃隊が待ち受けていた。

追撃隊長は、呉の勇将・韓当。矢の雨が舟を叩き、退路はすぐに塞がれた。

趙雲は迷わず「二」の袋を開く。
「偽の伝令を立て、曹操軍が南下中との虚報を流せ」

趙雲は捕虜にした呉兵を利用し、韓当に急報を届けさせる。
「曹操の残党が、再び江陵を狙って進軍中!」
韓当は一瞬迷い、後方防備のため撤退を選んだ。劉備軍は辛くも山道へ逃れる。

しかし、山道の先には・・・

運命の転換点

運命の転換点

運命の転換点

――狭い山道。前方から槍の穂先が揺れ、鎧の金具が不気味に鳴った。
周瑜の伏兵だ。退路はすでに塞がれている。

「殿…行き止まりです」
趙雲の声は低く、しかし揺るがぬ響きを持っていた。

劉備は額に汗を浮かべ、後方を振り返る。
「趙子龍…我らはもう終わりか」

「いいえ、まだです」
趙雲は懐から最後の錦袋を取り出し、紐を解いた。
中から現れた短い文を一読し、口角がわずかに上がる。

「孔明殿…やはりここまで読んでいたか」

「何と書いてある?」
劉備の声には、わずかに希望の色が混じっていた。

「――火を放ち、混乱に乗じて突破せよ」

その瞬間、趙雲は馬を降り、周囲の枯れ草に松明を押し当てた。
乾いた音を立てて炎が走り、風に煽られ一気に広がる。

前方の呉兵たちがざわめいた。
「火だ! 退け! 煙が…!」

炎の赤が兵の顔を照らし、視界を奪っていく。

「殿、今です!」
趙雲は劉備の馬の轡を取り、猛然と駆け出した。

背後で怒号が響く。
「追え! 逃がすな!」

槍の穂先が炎の中で揺れ、しかし形を成す前に趙雲の槍が閃いた。
一撃で敵兵を弾き飛ばし、谷間の狭路を突き進む。

劉備は背後を振り返り、煙に包まれる追手を見た。
「趙子龍…おぬしがいなければ、わしは――」

「その言葉は、無事に抜けてから」
趙雲は短く返し、さらに馬を走らせた。

やがて炎と煙を抜けた先に、旗が翻った。
「関雲長だ! 張翼徳も!」

関羽と張飛が槍を構え、待ち受けていた。

劉備は深く息を吐き、馬上から呟く。
「孔明…そなたの三計、すべてが命を救ったぞ」

趙雲は懐の空になった錦袋を握りしめ、心の中でひとり微笑んだ。

歴史への刻印

歴史への刻印

歴史への刻印

この「錦の袋の三つの計」は、諸葛亮の計略の中でも、危機管理と先読みの象徴的な逸話として語り継がれることになった。
三つの計略はそれぞれ単独でも生きる策だが、順序と組み合わせによって最大の効果を発揮する。その構成力こそが、諸葛亮の真骨頂だった。

後年、この逸話は「危機に備える先見の智」の象徴として多くの兵法書や講談に引用される。
劉備が荊州を足がかりに勢力を拡大できた背景には、こうした「小さな勝利」の積み重ねがあった。

そして趙雲の忠勇もまた、このとき大きく輝いた。諸葛亮の智と趙雲の武、その両輪があってこそ、劉備は生き延び、蜀漢の基礎を築くことができたのである。

もし、私が劉備だったら?

もし、私が劉備だったら?

もし、私が劉備だったら?

もし私が劉備だったら、この経験を通じて諸葛亮 孔明への信頼は絶対的なものになったでしょう。

この出来事の後、私は孔明への全幅の信頼を置くことを決意します。これまでの彼は、俺にとって頼れる軍師だった。しかし、この一件で、彼は俺の命運を託せる唯一無二の存在だと確信したでしょう。

また、孔明の未来を予測する力に驚嘆するとともに、その知略の深さに畏敬の念を抱く。彼は単に戦術を立てるだけでなく、敵の心理や行動、そしてその先にある未来までも読み切る。その力が、どれほど強大な武器となるかを身をもって知ったし、もちろん敵には絶対に出来ない。

そして、趙雲の忠勇に深く感謝するでしょう。孔明の計略がどれほど完璧でも、それを実行する者がいなければ意味がない。趙雲は、いかなる危機的状況でも冷静沈着に指示を遂行し、俺の命を守ってくれた。孔明の智と趙雲の勇が合わさって初めて、この奇跡は実現したのです。その後の二人は、劉備にとってなくてはならない存在となりました。

この経験は、俺が天下統一を目指す上で、孔明という希代の天才軍師を得たことが、何よりも大きな幸運だと再認識させてくれた出来事となっただろう。

例え、この話がフィクションであったとしても、おじさま達にとっては、現代の組織のモチベーションアップにつながる逸話ですね。





この記事の三国志ライター

古代の雑学を発信

関連するキーワード


錦の袋 諸葛亮 三つの計略

関連する投稿


「天下三分の計」を実際に唱えたのは誰!?

三国志のストーリーで重要な役割を果たす「天下三分の計」。多くは諸葛孔明が劉備(玄徳)に献策したものと理解しているが、史実を紐解いてみると面白い事実が分かる。天下を曹操・孫権・劉備(玄徳)の三勢力に分けるという「天下三分」の構想は、意外な人物にオリジナルがあったのだ。


働きすぎ!軍師・孔明の死因は過労死だった?

三国志最高の軍師と言われる諸葛亮孔明。彼の死因はなんと過労死!?いったいどれだけ働いていたのか、なぜそこまでしたのかを彼の人生と共に見ていきます。正史と演義での彼の役割の微妙な違いにも注目です。


三国志を彩る個性豊かな知将7選

三国志を彩る個性豊かな知将7選をご紹介!


諸葛亮孔明が北伐にこだわった本当の理由とは?

劉備(玄徳)に三顧の礼で迎えられた天才軍師・諸葛亮孔明。劉備(玄徳)に迎えられてからは名軍師として数えきれない活躍を見せます。そして最後は北伐でその生涯を閉じるのですが、そもそもなぜ北伐を繰り返していたのでしょうか。推測も交えつつ、北伐にこだわった理由に迫ってみるとしましょう!


行ってみたい!三国志オススメの聖地(遺跡)7選

日本でも多くのファンがおり、とても人気な三国志。三国志人気の聖地(遺跡)をご紹介します。


最新の投稿


呉の軍師、周瑜「美周郎」はなぜ36歳でこの世を去ったのか?

周瑜の死は、過酷な戦乱の時代を反映していると言えます。彼の早すぎる死が、三国志という物語に悲劇的な輝きを与え、私たちを1800年後の今も惹きつけてやまないのです。「美周郎」と呼ばれた天才将軍の最期は、現代に生きる私たちにも、健康の大切さと人生の儚さを静かに訴えかけているようです。


赤兎馬という名器は、それを使う者の本性を暴き、増幅する

「力」や「宝」は、それを持つ人物の器によって、吉と出るも凶と出るもする。赤兎馬の生涯は、単なる名馬の物語ではなく、持ち主を映す鏡としての象徴でした。


燃ゆる背に風が鳴る。黄蓋・苦肉の計、苦肉の策

西暦二〇八年、長江の水面に、ひとつの決意が沈んでいた。曹操、北の地をほぼ制し、南へ。押し寄せる黒い雲のような大軍に、江東は揺れる。主戦の旗を掲げた周瑜に、ためらう声が重なる、「降れば命は繋がる」。だが、その軍議の輪の外で、ひとりの老将が背を伸ばしていた。名は黄蓋。


人中に呂布あり ― 奉先、馬中に赤兎あり、呂布入門!

後漢の末、彼の名は風のように戦場を駆け抜けた。呂布、字は奉先。人は「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と讃えたが、同時に「三姓の家奴」と蔑んだ。最強の矛と、最も軽い信。――この二つが、彼の生涯を裂いたのだが、強さ上の人気、呂布について、初めての方に紹介しよう。


馬氏五常、白眉最良」~兄弟の中で最も優れた者~

中国三国時代、馬氏5人兄弟は、みんな優秀な人物でした。その中で蜀の馬良が、最も才能があったそうです。そして、眉に白い毛が混じっていたことから「白眉」とあだ名され、「馬氏の五常、白眉最もよし」と称えられて、故事になりました。どうして、それほど優秀だったのでしょう? エピソードを見てみましょう。


アクセスランキング


>>総合人気ランキング

最近話題のキーワード

三国志の魅力と登場人物で話題のキーワード


故事 三顧の礼 泣いて馬謖を斬る 苦肉の策(苦肉計) 破竹の勢い