魔王・董卓の真実(5) なぜ「飼い犬」に手を噛まれたのか

魔王・董卓の真実(5) なぜ「飼い犬」に手を噛まれたのか

罪の無い少年皇帝をやめさせ、しまいには命まで奪ってしまった董卓。その残虐な行いはいまも人々の非難を受け続けています。しかし、彼がそうした処分を下した背景には「何進グループ」の打倒という、政治目標があったのです。


皇帝をクビに! 暴挙のウラにはこんな事情が

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さて、董卓が皇帝を救出した時点まで、話をもどしましょう。
「利発な陳留王を気に入った」董卓はその後、兄の皇帝(少帝)をクビにしてしまいます。
なんの罪も無い現皇帝を廃立(はいりつ/注)し、陳留王を新たな皇帝にすえたのです。この新皇帝こそ、後漢のラストエンペラーとなる献帝(けんてい)です。

(注)廃立(はいりつ)……臣下が君主(皇帝、王)を廃して、別人を君主に立てること。

しかし……董卓の置かれた状況を見ると、これだけの説明では納得がいきません。
当時の彼は政権をにぎったばかりで、権力基盤はまだ固まっていません。そんな状況で、むやみに人々の反発を買うことは、本来なら避けたいはずなのです。
それでは、どうして皇帝を辞めさせるなどという、強引なことをしでかしたのでしょうか?

大将軍・何進の存在は大きかった

大将軍・何進の存在は大きかった

大将軍・何進の存在は大きかった

やはり(死んだとはいえ)大将軍・何進の存在は、大きかったのです。
皇帝(少帝)も皇太后(何太后)も、いうまでもなく何進の一族です。また朝廷内外の有力者にも、何進に味方していた者が多くいます(たとえば袁紹など)。
つまり何進は死んでも、皇帝の権威を中心として「何進グループ」というまとまりは生き残っていたのです。

何進一族である皇帝(少帝)・皇太后(何太后)をそのままにしておいては、その権威のもとで、引き続き「何進グループ」が幅をきかせるかもしれません。そうなっては、董卓が独裁政治を進めるうえで、非常に困った事態となります。
董卓としては、なんとしても「何進グループ」の息の根を止めねばなりません。
そこで(強引なやり方だと百も承知で)、何進の甥である少帝を、皇帝の座から引きずりおろしたのでしょう。
(異母弟の陳留王であれば、何進と血のつながりはありません)

かくして少帝は、皇帝の座を追われ幽閉されます。そして美人で鳴らした母の何太后は殺されてしまいました。
このような強引な手法は、当然ながら人々の反発を買いました。「何進グループ」の有力者であった袁紹は、董卓に従うのをよしとせず、都から逃げ出します。
▲董卓という人の性格を考えれば、自分に従わない者は叩きつぶしにいきそうなものです。しかし意外にも董卓は袁紹を許したうえ、地方の郡の太守(長官)に任命しています。
前にも述べましたが、董卓は政権基盤を固めるため、名士(社会的名声のある知識人・名門出身者)の支持を取りつけるのに必死でした。反乱分子にこんな甘い対応をとったのも、名門出身の袁紹をなんとか手なずけて、味方にしたい意図のあらわれだったのでしょう。

人事が裏目! 名士たちが「反董卓連合軍」結成!

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袁紹の例でも分かるように、董卓はなんでも暴力で解決しようとしたワケではありません。
古くからの部下に官僚経験者がほとんどおらず、都に政治的基盤もなかったため、なんとしても「名士」を味方につける必要がありました。
そのため董卓は、名士たちを要職に起用しました。袁紹だけでなく、名声ある知識人や名門出身者を、各地の州・郡の長官に抜擢したのです。

この結果、どうなったのか?
董卓が各地の長官に抜擢した名士たちは、袁紹を中心に「反董卓連合軍」を結成して、董卓打倒の兵を挙げたのです。
抜擢した名士たちの反乱……董卓にしてみれば、飼い犬に手をかまれた心地だったかもしれません。
激怒した彼は、まず都に残っていた袁紹の一族を皆殺しにしました。

名士たちが反逆した理由

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そもそも……なぜ名士たちは、董卓に抜擢されたにもかかわらず「反董卓連合軍」を結成し、反旗をひるがえしたのでしょうか? 主に以下のような理由が考えられます。

1.董卓は急に権力を掌握したため、名士の支持を固める十分な時間がなかった
2.名士はもともと社会的評価が高いので、董卓に抜擢されても恩義を感じなかった
3.「皇帝廃立」を決行し、大きな反発を買った

そもそも政権をにぎるまでの董卓は、主に辺境地域で反乱討伐・異民族対策に従事していました。都に滞在した時期もほとんどなく、中央での政権基盤(有力者との人脈など)がほとんどありません。
それは董卓自身も自覚していて、なんとか名士を取り込もうと躍起になるわけですが、あまりにも急な天下獲りだったがゆえに、支持を取り付けようにも時間が足りなかったのでしょう。

また、名士というのは「知識人」「名声が高い」「名門出身」という、プライドが高い人たちでした。名士から見れば、辺境で軍事ばかりやっていた董卓は、野蛮な田舎者です。董卓の抜擢を受けたからといって、そう簡単に心服したりはしません。
まして大将軍・何進のもとで政治に参画していた名士たちからすれば、董卓は何進死後のどさくさにまぎれて政権を奪った、火事場泥棒のような存在だったわけです。

反乱へのすさまじい対処! 前皇帝を殺害!

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そのように反感を買っていた「火事場泥棒・董卓」が、政権を取ったとたんに「皇帝廃立」という暴挙に出たのですから、まさしく火に油を注ぐようなものでした。
もちろん董卓からすれば、何進の甥である少帝を中心とした「何進グループ」にとどめを刺す必要があったわけです。とはいえ、幼く罪も無い皇帝をやめさせることで、どれだけ知識人の怒りを買うかを計算できなかったのですから、中央での政治経験の不足を露呈したと言わざるをえません。

董卓の専制政治に対する怒りが、袁紹らの決起を呼びました。
ここで董卓は、幽閉していた前皇帝(少帝)を、ついに殺害します。
非常にむごい話ですが、歴史上よくある話でもあります。廃立した皇帝をそのまま生かしておいては、その身柄を奪われて、敵側のシンボルにされてしまう危険があるからです。
(たとえば日本の明治維新でも、薩摩・長州が明治天皇をシンボルとして、倒幕を成功させましたよね)
そうした事態を未然に防ぐため、董卓は未然に手を打ったわけですが……これで「逆賊(注)・董卓を討つべし!」という世論はいよいよ高まります。

(注)逆賊(ぎゃくぞく)……主君(皇帝や王など)に背く者。謀反や反乱を起こす者。

董卓ピンチだが……このまま終わるタマではない!

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こうして、董卓政権の人事の失敗により「反董卓連合軍」が結成され、都へと攻め寄せてきました。
しかし、これであっけなく負けてしまうほど、董卓の力量はヤワではありませんでした。
なぜなら「人事」はダメだった董卓ですが、そこは辺境で戦い続けた武将。「軍事」に関してはたしかな自信を持っているのです。
名士たちの反乱を、得意の軍事でどう迎え撃つか……次はダーティーヒーロー・董卓の大反撃を、じっくり見ていきましょう。





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董卓(とうたく) 後漢

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