「呉下の阿蒙」にあらず。士別れて三日なれば 刮目して 相 待 すべし

「呉下の阿蒙」にあらず。士別れて三日なれば 刮目して 相 待 すべし

「呉下の阿蒙」とは、いつまで経っても進歩しない人のことを指す言葉です。
同義語に旧態依然などがあげられますが、基本的には悪い意味合いで使われています。みなさんは、本内容を読んだ後は、ぜひ、後ろに「~にあらず」を付け加え、よく進歩する人という意味に変え、褒め言葉として利用しましょうね。


呉下の阿蒙 とは?

呉下の阿蒙 とは?

呉下の阿蒙 とは?

呉に、アホな呂蒙という武将が居ました。

呂蒙

呂蒙

呂蒙

呂蒙は貧しい家に生まれました。

貧乏暮らしは嫌だなと常々思い、妹の旦那、孫策に仕えていた鄧当軍に同行しては、たいした成果もなく、鄧当の部下にかわかわれていました。

そんなある日、呂蒙は、いつもからかってくる鄧当軍の部下に我慢の限界を感じ殺してしまいました。
このことで、一度は逃げ出しますが、すぐに自首をすることになります。

これを聞いた孫策に気に入られ、呂蒙は、晴れて呉の武将となることができました。

しかし、貧乏な家の出身で学がない呂蒙は周囲の武将たちから浮きまくり、「呉下の阿蒙」「アホの呂蒙」とからかわれる毎日を送っていました。

「アホの呂蒙」呼ばわりされていた呂蒙ですが、武将としての能力は高く、功績もいくつか残し孫権にも重用されていました。

孫権は、学がないことで軽んじられる呂蒙を不憫に思い、呂蒙に勉学に励むことを進言します。

呂蒙は、最初は忙しくて時間がないと反発していましたが、孫権は、「主君の私も忙しい中、勉強しているのだから、呂蒙も絶対できるハズと諭しました。

これを聞いた呂蒙は、勉強をすることを決意します。
そして、みるみるうちに賢くなり、高いレベルの教養を身につけてしまったのでした。

しばらくして、魯粛が呂蒙のもとを訪ねます。
そして魯粛もびっくりしたのは、魯粛の話す難しい話題にもついてきたのです。

逆に関羽対策として、魯粛は、呂蒙からいくつかの策を授けられます。
これに魯粛は大いに感嘆し、「呉下の阿蒙」に非ず。と呂蒙を称賛したのでした。

士別れて三日なれば 刮目して 相 待 すべし とは?

士別れて三日なれば 刮目して 相 待 すべし とは?

士別れて三日なれば 刮目して 相 待 すべし とは?

その後、呂蒙は、こんなことを言っています。

「士別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべし」

※努力をしている者は三日もすれば見違えるほど成長しているので、次に会うときには侮ってはいけませんよ。

ちなみに、この言葉は、

『男子、三日会わざれば刮目(かつもく)して見よ』という慣用句で使われます。

これは、勇猛だけど無学であった呂蒙を軽蔑していた魯粛は、知識として成長している呂蒙の評判を聞いて挨拶に行き、会って話したところ「昔言われていた『呉下の阿蒙』であったとはとても思えない」と称賛し、

「士別れて三日なれば 刮目して 相 待 すべし」という格言になったのです。

ただ、未だに、「呉下の阿蒙」という形で使われていることには、呂蒙も納得いってないでしょうが・・・

さて、みなさん!

「君は本当にあの○〇君か?!」驚!!!と言われてみたいですよね。

まさに「機会」を見失わないようにです。

きっかけ をモノにしたこと
実際に行動して自分を成長させたこと
素直に他人のアドバイスを聴き入れたこと。

シンプルですが、私たちがこの故事成語から学ぶことは多いと思います。





この記事の三国志ライター

関連するキーワード


呉下の阿蒙 呂蒙 魯粛

関連する投稿


【武将考察】呂蒙、呉下の阿蒙にあらず―荊州奪還戦

【武将考察】シリーズの第4回目は、荊州奪還戦と呂蒙をとりあげます。赤壁の戦い直後から荊州は、曹操、孫権、劉備(玄徳)の三勢力(三国)の境に接する紛争地帯となります。今回は、視点を孫呉におき、荊州奪還における呂蒙の活躍とその人柄、主君である孫権からの評価や関羽の呪いと言われる死の所以についてまとめてみたいと思います。


呉の忠臣・呂蒙が悪役扱いされるのはなぜ?

以前のコラムにも書きましたが、『三国志演義』は読者の意識を蜀に向けるため、対立勢力である魏と呉を悪役に仕立てています。今でこそ孫呉好きを自称する筆者ですが、昔は孫呉、中でも呂蒙が大嫌いでした。理由はもちろん『演義』から派生した創作物の影響。民間伝承などでも卑劣な悪役として描かれがちな呂蒙の人物像についてまとめました。


はっちゃけ孫呉の象徴!?チンピラ武将・甘寧興覇

三国志は1800年以上前の中国が舞台。ですから、現代の日本人の感覚では理解しかねる点が盛りだくさん。それを踏まえても「おい、ちょっと待て」とツッコミたくなるエピソードを数多く残しているのが、孫呉であるという印象が筆者にはあります。今回はその孫呉の中でも、1、2を争うほどのチンピラ武将・甘寧のお話をお届けします。


三国志・42歳の若すぎる死、呂蒙はどこまで正当な評価を受けているのか?

孫権軍の名将として名高い呂蒙。優れた軍略家ですが、英雄である関羽をだまし討ちにしたことで後世の人気はあまり高いものではありません。今回は呂蒙の正当な評価について触れていきます。


関羽を討ち取ったことで有名な呂蒙、本当に凄かった!

関羽を討ち取ったことで有名な呂蒙ですが、実績がなくまぐれで関羽に勝利したわけではありません。彼の成長と実績、そして、孫権にどれだけ重用されていたのかとが分かれば幸いです。呉になくてはならない存在だった呂蒙は魅力があり三国志を彩った豪商と言っても過言ではないでしょう。


最新の投稿


赤兎馬とは? 三国志初心者必見 三国志における名馬の物語

赤兎馬とは、三国志演義などの創作に登場する伝説の名馬で、実際の存在については確証がなく、アハルテケ種がモデルとされています。体が大きく、董卓、関羽、呂布など、三国時代の最強の武将を乗せて戦場を駆け抜けました。


春秋戦国時代 年表 キングダム 秦の始皇帝の時代の始まり

キングダム 大将軍の帰還 始まりますね。楽しみにしていました。 今回は、秦の始皇帝「嬴政」が、中華統一を果たす流れについて記述しようと思います。映画、キングダムのキャストの性格とは若干違うかもしれませんが、参考程度に読んでみてください。


パリピ孔明 第10話 関羽の千里行

ついに大型音楽フェス・サマーソニア当日を迎えた最終話。 英子は、BBラウンジから会場に向かうが、交通トラブルで会場への道が塞がれ、英子はステージにたどり着けなくなってしまう。これらは前園ケイジによる数々の妨害だった。 その頃、ステージではケイジのライブが始まろうとしていた。


パリピ孔明 第9話 東南の風 イースト・サウス

BBラウンジのオーナー・小林に恨みを持つケイジは、英子を大手レーベルに移籍させようと画策している。 孔明と英子は、ケイジの妨害を阻止するため、彼と対決することに。 勝負の鍵を握るのは、活動休止したロックバンド、イースト・サウスだった。


パリピ孔明 第8話 五丈原の戦い

英子の原点と、小林の過去が明かになる。英子は、幼い頃から歌が好きだったが、母親に反対され、歌うことを諦めかけたことがあった。 小林は、かつてバンドを組んでおり、ギターを弾いていたが、ある事件をきっかけに、ギターから足を洗っていた。 英子の歌声に心を動かされ、再びギターを手に取ることに。