董承
■ 董承
董承
董承、字は不明。出身は冀州河間国となっています。これは「三国志正史」に、霊帝の生母で同じく冀州河間国出身の董太合の甥であると記されているからです。しかし、この記載は誤りだという指摘もあり、どのような身分だったのかは疑問が残ります。
董卓の配下だったようですが、董卓の直臣ではなく、娘婿である牛輔の部曲であると記されています。牛輔は董卓が誅殺された後、軍の統率を捨てて部下に殺されました。
長安は李傕と郭汜らに制圧されることになりますが、献帝は長安を脱出します。そこで董承は安集将軍に任じられ、楊奉と共に献帝の護衛をすることになるのです。
なぜそこまで董承が献帝から信頼されたのでしょうか?
武力に優れていたのか、知略に優れていたのか。
「三国志演義」では、董承の娘が献帝の貴妃であったという設定をしています。つまり董承は献帝の舅という関係性です。それであれば重用された理由も納得はできます。
洛陽への逃避行
■ 洛陽への逃避行
洛陽への逃避行
献帝は長安を脱出して洛陽を目指しますが、もちろん李傕や郭汜が黙って見過ごすはずもありません。董承らは執拗な追撃に遭います。
ここで楊奉は昔の仲間を頼って白波賊の胡才、李楽、韓暹らの協力を得て、李傕らと戦うのです。当初は追撃を撃退する健闘ぶりでしたが、追撃はどこまでも続き、黄河を渡る手前で大敗を喫します。
献帝を船に乗せて逃げる董承は必死です。河に落ちた文官たちがその船につかまろうとしますが、董承は矛でその手を斬り、乗せようとはしませんでした。
献帝を救うためとはいえ、なかなか非情です。船底に落ちた指はすくえるほどだったそうです。
ここで、兗州の牧である曹操が献帝を迎えようとして、同族の曹洪を派遣しました。しかし董承はこれを拒否します。そして袁術と結託して曹洪を追い払ってしまったのです。ここに袁術軍が関わっているということは、袁術も献帝救出に手を貸していたということでしょう。
袁術はこの時、本拠地を揚州の寿春に移していましたから、もしかすると董承は寿春を目指していたのかもしれません。
味方とすぐに反目する董承
■ 味方とすぐに反目する董承
味方とすぐに反目する董承
献帝の逃避行について読んでいくと、董承が味方と上手な人間関係を築けていなかったことがわかります。李傕と郭汜を仲裁した張済ももとは献帝の逃避行に付き合っていたのですが、董承と仲たがいをして、李傕らに寝返っています。
さらに李傕らと戦うために援軍に駆けつけてきてくれた韓暹とも衝突します。しかも韓暹に攻められて、董承は逃げ出すことになるのです。董承は河内太守の張楊を頼り、そのアドバイスを聞いて、洛陽に先行し、宮殿修復作業をして献帝到着を待ちました。
到着した献帝は董承を韓暹と共に護衛として迎えます。
おそらくここで董承は韓暹と仲直りをしたはずです。しかし、韓暹を恐れた董承は密かに曹操と連絡をとり、招き入れて韓暹、楊奉、張楊らを排除してしまいます。親身になって協力してくれた張楊まで切り捨てるとは酷薄ですね。
袁術との関係はどうなってしまったのでしょうか?間違いなく袁術との関係も崩壊していたはずです。その証拠に韓暹、楊奉らは袁術を頼り、落ち延びています。
曹洪を追い払ったのは袁術の指図だったと、この時の董承は曹操に言い訳したのかもしれません。
董承は車騎将軍となる
■ 董承は車騎将軍となる
董承は車騎将軍となる
董承はここまでの功績を認められ列侯に封じられます。そして199年に車騎将軍となるのです。車騎将軍といえば三公クラスの将軍位になります。董卓の配下の配下だった男が、ここまで昇進できたことは驚きです。
まあ実権は曹操が握っていますから名ばかりの官位だったとは思いますが、大将軍となった袁紹に次ぐ将軍となったのです。
この時、曹操を頼っていたのは董承だけでなく、劉備(玄徳)もいました。劉備(玄徳)は徐州で呂布に敗れ、曹操のもとにいたのです。劉備(玄徳)は左将軍に任じられています。
198年には曹操に攻められ呂布が処刑されています。199年には袁術も病没しています。
そして河北を制した袁紹が南下して曹操の領地に侵攻していました。
そんな中で密かに曹操暗殺計画が練られていたのです。曹操のプレッシャーに耐えかねた献帝は曹操暗殺の密勅を董承に託していました。
曹操暗殺計画の参加メンバー
■ 曹操暗殺計画の参加メンバー
曹操暗殺計画の参加メンバー
曹操暗殺計画の首謀者は董承となっています。そこに参加したのが劉備(玄徳)です。さらに偏将軍の「王子服」(後漢書では王服)、かつては董卓暗殺も企てたことのある長水校尉の「种輯」、将軍「呉子蘭」(詳細は不明、子蘭は字だと考えられています)の名前が三国志正史には記されています。
しかし三国志演義ではさらにメンバーが増えています。それが西涼太守の「馬騰」、詳細は不明ですが「呉碩」の名前も見えます。
さらに宮中医師の「吉平」です。吉平については、時期が異なりますが曹操に反旗を翻した太医令がおり、それが「吉丕」ですので、それがモデルになっていると考えられています。三国志演義でも吉平は呼び名で、正しくは「吉太」字は称平です。
三国志演義のポイントは明確です。曹操が献帝をないがしろにしていること、朝廷を私物化していること、それを倒すために董承や劉備(玄徳)や馬騰が義によって立ち上がった設定になっています。
しかし隙がないために馬騰は西涼に戻り、劉備(玄徳)も袁術討伐の名目で曹操のもとを離れます。そこで董承は下僕に密告されて捕らえられて処刑されてしまいます。700人が処刑され、そこには献帝の貴妃である董承の娘も含まれていました。献帝の子を身籠っていたと書かれています。
曹操の悪逆非道ぶりが脚色されてわかりやすくアピールされているのです。
まとめ・結局董承は曹操とも上手くいかなかった
■ まとめ・結局董承は曹操とも上手くいかなかった
まとめ・結局董承は曹操とも上手くいかなかった
立場が変われば見方も変わるものですが、この董承が三国志演義で描かれているような実直な忠臣だったとは思えません。どちらかというと他人の力をうまく利用することに長けている謀臣といった感じです。
実際のところ河北の袁紹の方が勢力も大きく、そちらになびいただけではないでしょうか。曹操暗殺計画も袁紹が画策し、董承に実行させようとしたのかもしれません。劉備(玄徳)の徐州での独立、董承に暗殺計画の露見、袁紹の侵攻とすべてがタイミングピッタリです。
しかし、曹操はそのすべてを封じました。董承の暗殺計画を見抜き処刑、劉備(玄徳)の軍を迅速に撃退し、さらに圧倒的に不利な状態で袁紹との戦いに勝利します。
董承は曹操の器量を見誤ったのかもしれませんね。