十人十色
■ 十人十色
十人十色
使用例と意味
■ 使用例と意味
使用例と意味
使用例 今回の議論では十人十色な意見が平行線をたどり、ついに結論には至らなかった。
意味 考え、好み、性質が人それぞれ異なること。
由来
■ 由来
由来
ある日蜀の蒋琬(しょうえん)が部下である楊戯を召し出して、ある件についての相談をしました。
いつもは竹を割ったような性格であるはずの楊戯が、このときは口ごもってはっきりした返事をしませんでした。
それを見た楊戯を陥れようとした者が、「真剣に相談しているのに黙ったままなのは無礼であるぞ」
と野次を飛ばしました。
しかし、いつも公正な判断をする蒋琬(しょうえん)は、その者を制止すると「人の心は顔がそれぞれ違うのと等しく、異なるものだから私の考えに同意はできない。とはいえ、反対すれば私の間違いを指摘することになる。楊戯はそう考えて何も言わなかったのだ」と言いそれ以上楊戯に発言を求めようとしませんでした。
※蒋琬(しょうえん)とは
蒋琬(しょうえん)は諸葛孔明がなくなる直前に自身の後継者に推挙した人物。蜀の4名臣に数えられる忠臣で、現在の国防長官にあたる大司馬に任命されました。
破竹の勢い
■ 破竹の勢い
破竹の勢い
使用例と意味
■ 使用例と意味
使用例と意味
使用例 青山学院は2区を制すると破竹の勢いで首位を快走した
意味 勢いが激しくて、とどめることができないこと。猛烈な勢いで進んでいくこと。
由来
■ 由来
由来
曹操の息子曹丕によって魏帝国建国から数十年後、魏は司馬懿(しばい)を祖とする司馬一族によって乗っ取られてしまいました。
司馬懿の孫の司馬炎(しばえん)は魏の皇帝に禅譲を迫り、皇帝となって国号を晋に改めます。この時、すでに蜀は魏によって滅亡していたので残るは孫権が建国した呉のみとなっていました。武帝となった司馬炎は南下して呉に侵攻しますが、思ったより呉が手強くて苦戦を強いられました。
司馬炎以下大勢が一時撤退を意見する中、鎮南将軍の杜預(どよ)は
「現在、わが軍の士気は高まり、竹を割くがごとき勢いだ。ここで一気に攻かかれば呉は滅びるでしょう」と主張し、作戦を断行して、呉を攻略しました。
白眼視(白眼視)
■ 白眼視(白眼視)
白眼視(白眼視)
使用例と意味
■ 使用例と意味
使用例と意味
使用例 私利私欲を尽くした市長を市民は白眼視した。
意味 意地の悪い目で見ること。冷遇すること。冷淡であること。軽蔑のまなざしをむけること。
由来
■ 由来
由来
阮籍は、竹林の七賢といわれた人たちの中心者であった。竹林の七賢とは、当時禁止されていた政治批判をしていた人々の総称です。型におさまるのを嫌い、気ままな行動をとることによって、 時代の風潮を批判したことで知られています。要するに彼らは、当時蔑まされていた民の代弁者たちであったのです。
当時は礼儀や孝行が重んじられていましたが、彼は母親の葬儀で服喪の規則を度外視し、 あくまでも自分の感情に忠実であろうとしました。
阮籍は、弔問にやってきた客に応対するときも、礼儀にうるさい相手には白目をむき、 そうでない友人には青眼で接した。
ここから、意地の悪い目で見ること。冷遇すること。冷淡であること。軽蔑のまなざしを向けることを「白眼視」というようになりました。
泣いて馬謖(ばしょく)を斬る
■ 泣いて馬謖(ばしょく)を斬る
泣いて馬謖(ばしょく)を斬る
使用例と意味
■ 使用例と意味
使用例と意味
使用例:
今回の汚職事件で会長は泣いて息子を斬り、次期社長には現専務が就任した。
意味:
どんなに親しい同僚や部下であっても規則や法令に背いた者は厳しく処罰すること。どんなに優秀な者であっても、法や規律を曲げて責任を不問にすることがあってならないと。
由来
■ 由来
由来
馬氏5兄弟のひとりである馬謖(ばしょく)は才能溢れる人物でした。実際に諸葛孔明は馬謖(ばしょく)を大変可愛がっており、将来自身の後継者となるように教え導いた部下でした。しかし、劉備(玄徳)は馬謖のことを信用せず白帝城で崩御する間際、諸葛孔明に「馬謖は口先だけの男である、くれぐれも重要なことを任せてはならない」と遺言しました。
第一次北伐の街亭の戦いで、諸葛孔明は軍師として馬謖を遣わします。念のため、「街亭の戦いでは、高台に決して陣を張ってはならない」と警告したのですが、馬謖はこの命令を無視して高所に陣営を築いてしまいました。
歴戦の将・王平は馬謖に対して「ここは見晴しはよくとも水場から遠く、水の確保が困難です。布陣するのは別の場所にしましょう」という忠告を「孫子の兵法にあるように高所に陣を築くのは戦略の基本である」と言って聞く耳を持ちませんでした。
結果的に魏の張郃に水路を断たれて包囲され、完全孤立してしまった蜀軍はこの戦いに負けてしまいます。姜維の救出もむなしく多くの犠牲を払った蜀軍では敗戦の責任問題が議論されます。
蜀軍敗戦の最大の原因を作ってしまうことになった馬謖に諸葛孔明は軍律に則り斬首を言い渡します。
手塩にかけて育ててきた馬謖でさえも敗戦の責任を不問にすることはなく、他の家臣や民衆への見せしめにしました。また、諸葛孔明はさらし首となった馬謖に「お前に任せた私に最大の責任がある」と号泣し、自ら失脚しました。
苦肉の策
■ 苦肉の策
苦肉の策
使用例と意味
■ 使用例と意味
使用例と意味
使用例:
苦肉の策だが経営状況の立て直しのため、人員削減を行った
意味:
自分の身を苦しめてまでも成功させるはかりごと。苦し紛れに導き出した手段。
※もともとは、何かを大成功させるためには一度痛い目を見なければならないという意味でした。
由来
■ 由来
由来
赤壁大戦で圧倒的不利だった蜀と呉の連合軍を勝利に導いた一計です。
呉の大都督(防衛大臣)の周瑜は魏の圧倒的な兵力の多さに頭を抱えていました。さらに、周瑜を苦しめたのが魏が送り込んだ間者(スパイ)・蔡和と蔡仲の存在です。
一人幕舎にて戦略を練る周瑜のもとを呉の老将・黄蓋が訪ねにやってきます。黄蓋は孫堅、孫策、孫権の3代に仕える忠臣で周瑜の悩みは口に出さなくても痛いほど理解していました。
そして黄蓋は周瑜の前に立つとこうのように切り出します。
「大都督、もはや火攻めしかない。大都督も孫子の兵法にある苦肉の計を考えているのでしょう?」
考えを見抜かれていた周瑜は、腹を割って間者(スパイ)のことや計画的な工作ができないこと、
それなりの理由がないと警戒されて近づけないことなど問題点を洗いざらい打ち明けました。
周瑜と黄蓋は策を練り、仲間割れしたと魏軍を信じ込ませるためにひと芝居うつことを計画します。
「敵を欺くにはまず味方から」ということで、この計画は蜀軍はもちろんのこと呉軍にもごく一部だけで進められました。
ある日の軍議で、周瑜は作戦を発表します黄蓋はその作戦にわざとケチをつけて周瑜の怒りを買い、その場で鞭打ち百叩きの厳罰に処されます。周瑜も心を鬼にして自ら思いっきり黄蓋の身体を痛めつけました。
黄蓋の背中の肉は裂け、血が吹き出して処罰後に黄蓋は自分の足で歩くことはおろか床から起き上がることもできなくなりました。
呉では周瑜が乱心したとか、今度の標的は誰になるかなど噂が飛び交い、蜀では「こんな大事なときに何やってんの?」と反感を買います。そして、黄蓋は魏に投降する意があることを表明し、蔡和と蔡仲はこれ幸いと曹操に鞭打ち百叩きの一部始終を報告しました。魏はこれによりなんの疑いもなく黄蓋の投降を受け入れました。
黄蓋は投降する約束の日になると藁に魚油を染み込ませてた着火剤を布でくるんだり旗を立てたりして偽装します。それを何か所にも配置した船で魏の大船団に近づきます。あと200Mくらいの距離まで差し迫ったとき、着火剤に点火させて、自分たちは海の中へ飛び込みました。
やがて黄蓋が乗っていた船は火だるまと化し、魏の大船団に激突します。諸葛孔明が吹かせた東南の風の力を受けて大きな炎は陸上で駐屯する魏軍の幕舎にまで飛び火しました。
魏の大船団は鎖でつないでいたため、火の燃え移りが激しく、消火することもできずに魏は大敗を喫しました。
ここから自分の身を苦しめて敵を欺いたり、苦し紛れにとる手段を「苦肉の策」といいます。
最後に
■ 最後に
最後に
知っていれば自慢できる?三国志由来の故事・ことわざ①の続編として三国志由来の故事やことわざをご紹介しました。②でも三国志由来の故事・ことわざを書ききることができませんでした。
「苦肉の策」は老将黄蓋の美談でもあるので、彼を尊敬し、呉の視点から長めに書きました。なぜなら、三国志演義では「”諸葛孔明”が東南を吹かせた”おかげ”で火計が成功した」というように書かれているからです。
いかがでしょう?
あなたが普段使っている故事やことわざの由来を調べてみると物語では表面化してなかった武将の功績や名言から来ていることが理解できたと思います。後世を生きる私たちの会話にも影響を与える三国志は本当に偉大な作品ですね。