関公三約
■ 関公三約
関公三約
劉備(玄徳)の家臣にして、義弟である関羽は、曹操に徐州を攻められ、劉備(玄徳)の家族を守り下邳城に籠城します。曹操配下の張遼が関羽に降伏することを提案しますが、その際に関羽が提示した降伏条件が「関公三約」です。
1、 曹操ではなく漢に降るということ
2、 劉備(玄徳)の夫人には誰も手を出さないこと
3、 劉備(玄徳)の居所が判明したら、すぐにそのもとへ帰ること
関羽の義の篤さと、武勇に注目していた曹操は、その提案を飲みます。
こうして関羽は降伏することになるのですが、劉備(玄徳)は死んでおらず、袁紹の陣中にいることが判明します。関羽は曹操のもとを去ることになるのです。
漢寿亭侯
■ 漢寿亭侯
漢寿亭侯
関羽は、曹操が宿敵である袁紹と戦うことになると曹操の陣営の将として出陣します。この時は、まだ袁紹の陣中に劉備(玄徳)がいることを関羽は知りません。
そして白馬・延津の戦いにおいて敵の主力である顔良、文醜を立て続けに討ち取り、圧倒的な武勇を見せつけます。
このあたりは「三国志演義」の絶妙な脚色が話を盛り上げているのですが、そのエピソードのひとつに曹操が関羽に与えた爵位があります。
白馬の戦いで顔良を討ち取った関羽の功績に対し、曹操は「寿亭侯」の爵位を与えるのですが、関羽はまったく喜ぶ様子がありません。曹操はそこで気づき、「漢寿亭侯」と一字追加して贈り直したところ、関羽は満面の笑みで、「曹操はよくわかっている」と快く受け取ったと記されています。
五関突破の一番手・孔秀
■ 五関突破の一番手・孔秀
五関突破の一番手・孔秀
延津の戦いの後、劉備(玄徳)の所在が判明したことで、関羽は曹操のもとを離れます。劉備(玄徳)の家族を連れて、関羽は曹操の領地を脱出していくことになるのです。
曹操は許可したものの、関所への連絡は遅れます。関羽は問答無用で関所を守る将を討ち取りながら強行していくことになるのですが、これが、三国志演義が生み出した「五関突破」のエピソードです。
最初の関所は東嶺関で、守将は「孔秀」でした。孔秀は「丞相の許可がないと通すわけにはいかないが、人質を置いていくのなら構わない」と対応します。連絡を受けていないのですから当然の処置で、むしろ妥協しているぐらいですが、関羽はこの対応に怒り、一合で斬り捨てました。
五関突破が三国志演義の演出ですから、そこに登場する守将も当然架空人物になります。袁紹軍で最強を誇る猛将の顔良・文醜を討った関羽を、関所の守将ごときでは太刀打ちできるはずもなく、あっさりと倒されてしまいます。
五関突破の二番手・三番手・孟坦と韓福
■ 五関突破の二番手・三番手・孟坦と韓福
五関突破の二番手・三番手・孟坦と韓福
五関突破のエピソードは、三国志演義の第27回になります。
孔秀があっさり討たれたことを知った次の守将である「韓福」は、配下の「孟坦」と対応策を講じます。もちろん簡単に通すわけにはいきません。そのための関所なのです。
兵力にものをいわせて倒すという計画は浮かばないようで、韓福はあくまでも一騎打ちで関羽を倒そうとします。
その時の策が、まず孟坦が関羽と一騎打ちをしてわざと負けを演じて退却し、誘導してきたところを韓福が弓矢で奇襲するというものでした。わざと負けを演じて相手を誘導するのは三国志演義のお決まりのパターンではあります。
二刀を愛用し、見事に関羽と一騎打ちを繰り広げた孟坦は、計画通りにわざと退却するのですが、乗っている馬のスピードが違いました。なにせこの時の関羽は、曹操からプレゼントされた赤兎馬に乗っていたのです。
追いつかれた孟坦はそのまま真っ二つにされてしまいます。誘導には成功したものの、韓福の放った矢は関羽の肘に当たっただけでした。そのまま韓福も関羽に討ち取られています。
五関突破の四番手・卞喜と五番手・王植
■ 五関突破の四番手・卞喜と五番手・王植
五関突破の四番手・卞喜と五番手・王植
三つ目の関所である沂水関の守将は「卞喜」です。元は黄巾の一味で、流星錘の使い手という設定です。ここでは兵を途中の鎮国寺に伏せておいて関羽を倒すという作戦に出るのですが、寺の僧侶が関羽にこのことを教えたので、作戦は成功せず、卞喜は流星錘の攻撃もはじき返され、関羽に討ち取られてしまいます。
四つ目の関所の守将は韓福の親戚である「王植」です。
ここでも別な作戦が練られ、今度は関羽が安心しきったところを攻撃して倒すという策略が実行されます。王植は手厚く関羽らを出迎えた後、その宿舎に火をつけて焼き殺そうとしたのです。
しかし王植の配下の「胡班」が関羽の人柄に惚れ込み王植を裏切ります。関羽はそのおかげで宿舎を事前に脱出することができたのです。気づいた王植は追撃しますが、関羽に迎撃されて、一刀のもと胴体を輪切りにされて殺されてしまいます。
ちなみに胡班はこの兼ね合いで、第73回の話で劉備(玄徳)の配下になっています。牙門将に任じられていますが、その後の活躍はありません。
五関突破の六番手・秦琪
■ 五関突破の六番手・秦琪
五関突破の六番手・秦琪
最後の関所の守将が「秦琪」になります。
曹操の配下には蔡陽(または蔡楊)という武将がおり、「三国志正史」にもその名前がありますが、その甥が秦琪です。秦琪自体は三国志演義の架空人物になります。
黄河の渡し口を守備しており、通行手形をめぐって関羽と揉め、一合で討ち取られています。ここでは特に新しい作戦は実行されていません。
しかし秦琪が蔡陽の甥であることや、夏候惇の部将であることから、さらにこの後、関羽は狙われることになるのです。
ちなみに蔡陽は、劉備(玄徳)に合流した関羽と一騎打ちを演じ、一刀両断にされています。夏候惇も関羽と一騎打ちをすることになりますが、こちらは十合ほど打ち合った末に引き分けに終わっています。
まとめ・六将で一番強いのは……
■ まとめ・六将で一番強いのは……
まとめ・六将で一番強いのは……
五関を守る将の中で最も強いのは誰なのでしょうか?
実際に関羽に手傷を負わせることができたのは、韓福だけです。だまし討ち的な手法で、さらに弓を使用はしているものの、関羽の肘を射たのは見事な腕前といえます。全員が架空人物ではありますが、最強はやはり韓福ということになるのではないでしょうか。
ちなみに韓福の官位が洛陽太守ですから、曹操にはかなり重く用いられていたことになります。関所の守将とは格が違うような気がしますね。
顔良や文醜を討ったあたりから破竹の連勝を続ける関羽の一騎打ち。呂布亡き後の最強の武将は関羽だと印象付けることに成功しています。なんといっても赤兎馬を受け継いでいるのです。この時点で、関羽の武勇は呂布に追いついたと言っても過言ではありません。