朱治
■ 朱治
朱治
朱治、字は君理。揚州丹陽郡の生まれで、孝廉に推挙された後、孫堅と出会い、その配下として活躍することになります。董卓軍との戦いにも参加しており、黄蓋や程普らと同じ古参の武将です。
孫堅が戦死し、その軍勢が袁術に吸収されてからも孫堅の息子である孫策に助言を与え、江東で独立する道筋を示しました。
孫権の後見も務め、孫権を孝廉に推挙しています。
孫権が呉王に即位しても、朱治に対しては孫権直々に出迎え、特別な待遇を施していました。それでも朱治は決して驕ることはなかったと記されています。
江東平定
■ 江東平定
江東平定
朱治が孫策に助言した「江東平定」「江東での独立」は、実行に移されます。しかし、この時の孫策は袁術の家臣であり、拠点とする地盤を持たず、兵力もわずかなものでした。
そこでこの孫策に協力したのが、孫氏の一族になります。
孫堅の弟で、孫策の叔父にあたる孫静は、孫堅の死後も富春にとどまっており、孫策の会稽攻略に貢献しました。孫堅の兄・孫羌の子である孫賁と、孫策の母の兄である呉景は、揚州牧である劉繇討伐に貢献しています。
おそらくその連携のための使者として働いたのが、朱治だったことでしょう。
揚州牧の劉繇は曲阿を拠点としていましたが、実はここには孫策の母や弟たちも住んでいたのです。朱治は迅速に行動し、孫策と劉繇が衝突する前に、曲阿に住む孫策の一族を保護しました。
この一件で朱治と孫氏一族との関係は親密度を増したようです。孫権が朱治を特別扱いしていた理由もうなずけます。
孫氏一族は、朱治の進言の通りに、劉繇を破り、呉郡や会稽郡を制圧し、江東に一大勢力を築くことになります。
呉建国に大きな功績があったのが、朱治というわけです。
孫氏の政略結婚
■ 孫氏の政略結婚
孫氏の政略結婚
江東で勢力を拡大する孫策に対し、危惧を持ったのが献帝を擁し、許に迎い入れた曹操でした。曹操はこの時、河北を制した最大勢力・袁紹との決戦を控えていました。とても孫策と交戦しているような余裕はありません。
そこで曹操が考えたのが、政略結婚によって曹氏と孫氏の結びつきを強くするというものでした。
まず曹操は孫策に討逆将軍の称号を授け、呉侯に封じました。さらに孫策の弟である孫権にも討虜将軍の称号を授け、会稽郡の太守に任じたのです。
さらに曹操は弟の娘を、孫策の弟である孫匤に嫁がせます。また、孫氏の一族である孫賁の娘を、曹操は息子の曹彰の妻としました。
こうして曹操は後背の孫策を味方につけ、袁紹との決戦を迎えることになるのです。
しかし、孫策は密かに兵を集め、都である許都を攻める手はずを整えていたといいます。孫策には曹操の懐柔策は通用しなかったというわけです。
ただ、孫策は許都を攻めることなく、刺客に襲われ怪我を負って、その傷がもとで亡くなってしまいます。
曹操の政略結婚の成果
■ 曹操の政略結婚の成果
曹操の政略結婚の成果
孫策の後を継いだのが弟の孫権でした。兄の孫策のように戦場で武威を示すタイプではありません。孫策は亡くなる時、孫権には内政を重んじて、内側を固めるように指示しています。
あまりに若すぎる主君に不安を感じたのか、孫権を見限り、曹操に帰順しようとする者が現れてきます。その代表格が、孫氏の一族に名を連ねる孫輔です。孫輔は孫賁の弟ですから、孫権にとっては従弟にあたります。それが曹操に内通しようとして露見し、孫輔は捕まって幽閉されることになるのです。
孫輔は、兄の娘が曹操の息子の妻となっているわけですから、そのつてを頼ったのでしょう。曹操の政略結婚は、ただ単純に曹氏と孫氏の結びつきを強くするだけでなく、孫氏一族をバラバラにし、離反させる狙いもあったのかもしれません。
曹操と孫権は対立し、赤壁の戦いへ
■ 曹操と孫権は対立し、赤壁の戦いへ
曹操と孫権は対立し、赤壁の戦いへ
曹操は河北を制圧すると、今度は南下し、荊州を攻めます。劉表亡き後を継いだ劉琮はまったく抵抗もしないまま、曹操の軍門に降りました。
ここで曹操はその勢いのまま江東の制圧にも乗り出します。孫権に対しても帰順を求めてきたのです。
圧倒的な大軍を擁する曹操軍に対して、孫権陣営の議論は紛糾しました。周瑜や魯粛のように徹底抗戦を叫ぶ者もいれば、張昭のように降伏を支持する者に分かれたのです。
最終的には徹底抗戦となり、赤壁の戦いで孫権軍は曹操軍に勝利することになるのですが、その際にポイントになったのが「偽投降」でした。孫氏三代に仕える重鎮の黄蓋が、曹操に降るという意思表示をし、それを利用して周瑜は火攻めを行います。
なぜ、曹操はこうも簡単に黄蓋の投降を信じたのでしょうか?
それは、それ以外にも多くの孫権側の人たちが曹操に内通していたからです。そこには驚くべき人の名もありました。孫氏の一族で、孫策が江東を制圧する際に貢献した孫賁です。
何と、孫氏の一族であり重鎮の孫賁すら曹操に帰順しようと考えていたわけです。
孫賁
■ 孫賁
孫賁
孫賁、字は伯陽。揚州呉郡の生まれで、孫策や孫権の従弟にあたります。父親の孫羌は孫堅の兄です。
曹操が荊州に侵攻してきた時には、豫章郡の太守を務めていました。まさに一門衆の筆頭格です。しかも娘が曹操の息子の曹彰の妻ですから、曹氏とも太いパイプを持っていました。
曹操は孫氏一族の離間を企み、荊州侵攻と同時期に、孫賁を正式な征虜将軍に任命しています。征虜将軍の称号は、孫権の討虜将軍と同格です。
これに対し、孫賁は曹操の陣営に息子を人質に出し、曹操に帰順しようとします。
孫賁の降伏を思いとどまらせたのが、この時に呉郡太守だった朱治でした。朱治は直接出向き、孫賁を説き伏せます。
まとめ・孫賁が寝返っていれば赤壁の戦いはどうなったのか?
■ まとめ・孫賁が寝返っていれば赤壁の戦いはどうなったのか?
まとめ・孫賁が寝返っていれば赤壁の戦いはどうなったのか?
もし朱治の説得が失敗していたら、孫権の陣営はズタズタになっていたことでしょう。多くの家臣が孫賁に同調して曹操に降伏していたのではないでしょうか。そうなれば赤壁の戦いどころではありません。
つまり赤壁の戦いで孫権軍が勝利するという奇跡は起こらないわけです。
そう考えると、黄蓋の偽投降の策略は、孫賁の寝返りすら起こり得る状況だったからこそ成功した、起死回生の一手だったことになります。
あまり関連性は強調されていませんが、赤壁の戦いの勝利を呼び込む立役者に朱治がいたことを忘れてはいけません。
ただし、孫賁は「三国志演義」には登場しませんので、三国志演義にはそういった背景が描かれていないのです。おそらく朱治の孫賁説得が、諸葛亮(孔明)が孫権陣営の降伏派を論破するシーンと被るので、意図的にカットされたのだと思われます。