一時代を築いた天性の策士【司馬懿】④ 魏の権力闘争に打ち勝つ

一時代を築いた天性の策士【司馬懿】④ 魏の権力闘争に打ち勝つ

諸葛亮との決戦を終えた司馬懿に待っていたのは、自国での権力闘争でした。司馬懿に意見をできるものもおらず、軍事的な実績のない曹爽一派程度でした。司馬懿は自分の身に危険が及ぶことも察し、病と称して引退してからクーデターを興します。晋の基礎を作った司馬懿の実力をここでみていきます。


遼東の反乱を征する

司馬懿は諸葛亮との激闘を終え、しばらく平穏な時期を過ごしていましたが、魏の北東に位置する遼東で公孫淵が反乱を起します。遼東の地は元々公孫氏が台頭していましたが、曹操によって臣下の礼がとられていたものの、実際には心服していませんでした。公孫淵は呉の孫権ともつながっており、魏と天秤にかけた状態で勢力を保っていきました。しかし、呉の使者を惨殺し、魏に送り届けたことで孫権の怒りを買う事態となっていきます。

孫権は朝鮮の高句麗と通じ、遼東への進出を図りますが、魏からはカン丘倹が派遣されており、北方の単于を動かしたことで孫権は遼東を諦めました。魏は公孫淵に対し、明らかな臣従を求めるために上洛を示唆します。表向きは従う振りをするものの、公孫淵はカン丘倹の軍を攻めて完全な反乱を起しています。

公孫淵の反乱は魏国内でも問題になり、皇帝の曹叡は司馬懿を派遣する決断を下します。曹叡は公孫淵がどうやって自軍に対応するかを問われた司馬懿は、「城を捨てて逃げるのが上策ですが、公孫淵は城を捨てるような知恵者ではありません」と答えています。

さらに、遼東を制圧するのに1年もあれば十分といい、自信満々に出征していきました。遼東では雨が続き、遠征軍にとって厳しい環境となっていました。曹叡の側近たちが心配して遠征の中止を訴えますが、曹叡は司馬懿の実力を十分信頼しているので、全く相手にしませんでした。

圧倒する司馬懿

司馬懿が布陣するころ、公孫淵は呉に援軍を求めますが、先の一件があったこともあり、孫権は全く相手にしませんでした。自軍だけで魏軍を相手にしなくてはならず、公孫淵は数万の軍を率いて仕掛けますが、司馬懿の配下によって蹴散らされています。

公孫淵は守備を固くしていきますが、司馬懿は公孫淵の本国を叩くように仕向け、偽りの退却を見せています。慌てた公孫淵でしたが、司馬懿の用兵の前に連敗し、本城を包囲されて籠城しました。

長雨によって作物が収獲できず、さらに規模の大きい兵力を囲っていたことから、公孫淵が食料不足で自滅するのは間違いないと司馬懿は予測していました。司馬懿は自分の配下に対し、兵力を持って兵糧が少ない場合には城から速攻で打ってでるのが正しく、兵力が少なくて兵糧を持っているときには籠城するのが得策と告げます。

司馬懿からすれば公孫淵の取った行動はまさに真逆であり、将としてふさわしくない人物に映っていたはずです。事実、公孫淵は兵糧不足から降伏を決断し、遼東は魏の支配下に置かれることとなりました。

しかし、司馬懿は公孫淵の降伏を許さず、一族もろとも粛清し、後遺の憂いを断つために15歳以上の男子をすべて処刑しました。司馬懿の恐怖ともいえる粛清に魏国内でも取り上げられますが、だれも司馬懿に意見できるものはいなかったといいます。

権力闘争に巻き込まれる

遼東を制圧したのち、皇帝の曹叡が病に倒れます。曹叡は曹丕が若くして亡くなり、急きょ即位しましたが、文学だけでなく軍事面でも才を発揮し、聡明な皇帝として曹丕以上の評価を得ていました。しかし、自身まで若くして死ぬこととなり、曹真の長男である曹爽と司馬懿に次期皇帝となる少年の曹芳の補佐を託しました。

司馬懿は権力闘争には嫌気を差していましたが、自分が思っている以上に周囲が委縮しており、畏怖を感じている曹爽ら皇帝の親族たちからは邪見にされていました。しかし、軍権を掌握している司馬懿をおいそれと扱うことはできないので、曹爽らは司馬懿を名誉職に栄転させて権力を剥奪するように努めていきました。

曹爽との対立

呉では魏の若い皇帝が即位したことを受けて、国内は混乱しているに違いないと考え、魏への遠征を考えていきました。孫権の号令のもと、大軍が荊州方面や揚州方面に軍を分けて進軍していきました。呉の朱然らが樊城を包囲すると、司馬懿は周囲が反対するのを退けて、自ら兵を率いて進軍し、呉軍を退けています。

朱然は司馬懿の前に慎重に退却を指示しますが、司馬懿はこれも見破り、呉軍を大いに破っています。元々蜀の司令官として戦ってきた司馬懿ですので、対呉でも功績を残すこととなり、いまだ目立った功績のない曹爽陣営は大慌てで蜀を攻める準備を始めました。

244年に曹爽が大規模な遠征軍を起こすと、司馬懿は失敗を恐れて猛烈に反対しました。司馬懿を見返すチャンスと考えた曹爽はなりふり構わず15万もの大軍で出征していきました。もとより蜀を制圧することは考えておらず、漢中を攻略するだけでも十分な戦果として帰国する予定であり、曹爽に気負いはなかったといえます。

しかし、漢中を守るのは北伐でも大活躍した王平であり、3万ほどの軍を率いて懸命に守備しました。王平は魏の大軍を狭い峡谷に誘い込み、身動きが取れない状況にして蜀からの援軍を待ちました。王平の思惑通りにはまり、蜀の援軍までも到着してしまったので、長期戦となってしまった曹爽は撤退を指示しています。

これに蜀軍は追撃してきたので、魏軍は惨敗を喫し、曹爽は命からがら帰国することができました。発言力を大きくできなかった曹爽と司馬懿の対立は深くなっていきます。さらに246年に呉へと侵攻したときにも司馬懿の反対を押し切って失敗した曹爽は、権力闘争には自身が軍事面で貢献するよりも司馬懿の失脚を狙うほうに照準を定め、暗殺を含めた手段を講じていきます。

一時引退する司馬懿

身の危険を感じた司馬懿は70歳を超えて高齢と病がちと称して引退を決意し、一庶民として暮らすようになります。司馬懿の活躍を知っている諸将らは幾たびもその元を訪れるようになり、曹爽は警戒を怠ることはありませんでした。これに困った司馬懿は、一計を案じ、曹爽の側近が見舞いにきたとき、わざと言葉を聞き間違え、狼狽する姿を見せており、痴ほう症の素振りを見せつけました。その姿を伝え聞いて安心した曹爽は、司馬懿への警戒心を解いてしまいます。

クーデターを興し、息子たちに受け継ぐ

司馬懿は曹爽と曹芳が洛陽を留守にしたのを受け、曹叡の妻である郭太后を味方に付けて曹爽一派の官職を解任させました。そのまま宮殿に入り、洛陽を占拠すると、司馬懿は曹爽を捕えて降伏させています。司馬懿は曹爽を処罰し、曹氏の実権を取り戻さんとする勢力の反乱軍までも封じ込み、皇族や政務、軍事といった魏国のすべてを掌握するようになっていきます。

司馬懿はクーデターを起こした年に亡くなりますが、息子たちが跡を継ぎ、孫の司馬炎が晋を興して新皇帝に即位することとなっていきます。司馬懿が成功できたのも、自身が魏の権力者であった曹氏や夏候氏といった一族ではなかったので、いらぬ疑いをかけられぬよう慎重に行動したことが幸いしたといえます。

関連するキーワード


曹爽 司馬懿 孫権

関連する投稿


呉軍の要「甘寧」

呉軍の要「甘寧」

蜀漢の関羽・張飛・趙雲、魏の張遼・徐晃・張郃に比べると、どうしても有名な武将が中々上がってこない呉の国。正史では有能な将であった周瑜・魯粛・諸葛瑾・陸遜辺りが、演義では参謀のように書かれているのが理由の一つです。ですが、演義でも正史でも有能な武将として書かれている人物がいます。それが甘寧です。彼はどんな人物であったのでしょうか?


歴戦の猛将【張遼】正史や演義の影響で大人気の武将

歴戦の猛将【張遼】正史や演義の影響で大人気の武将

三国志を題材にしたゲームには史実だけでなく演義が影響して能力値が振り当てられていることが多く、蜀の中心人物である諸葛亮や関羽、趙雲は恐ろしい能力値となっています。一方で魏に登場する張遼はずば抜けてはいないものの、すべての平均値が高くて、配下にしたい武将となって大人気となっています。そんな張遼はどのような武将だったのでしょうか。


三国志の英雄たちを姓名判断してみた!

三国志の英雄たちを姓名判断してみた!

三国志の英雄たちは、自らの運命を武力や知力で切り拓いてきました。しかし、実は産まれて命名された瞬間に、その命運が決まっていたのではないか? という興味のもと、各英雄の姓名判断をしてみました。はたして、あなたの好きな英傑はどういう運命だったのでしょうか。


三国志・魏呉蜀が日本の戦国時代から一人だけスカウトするとしたら誰を選ぶ?

三国志・魏呉蜀が日本の戦国時代から一人だけスカウトするとしたら誰を選ぶ?

三国志の時代に、日本の戦国時代から一人だけスカウトしてくるとしたら、魏呉蜀はそれぞれ誰を選ぶでしょうか?節目に当たる219年を舞台にして考えていきます。


呉の建国に最も貢献した功臣【陸遜】④ 晩年を迎えて

呉の建国に最も貢献した功臣【陸遜】④ 晩年を迎えて

魏との戦いにも勝利した陸遜は晩年に常勝となり、名実ともに軍務と政務で最高権力者となります。孫権からの絶大なる信頼を得ていましたが、後継者争いに巻き込まれてしまいます。不遇ともいえた晩年の陸遜の働きと跡を継いだ次男の陸抗をみていきましょう。


最新の投稿


魏が滅んだ戦犯は曹丕!?魏の初代皇帝はどんな人物だった?

魏が滅んだ戦犯は曹丕!?魏の初代皇帝はどんな人物だった?

曹操の後を継ぎ、魏の初代皇帝となったのが曹丕です。実は、曹丕は魏滅亡の戦犯と言われることが多く人物となっています。そんな曹丕はどんな人物だったのでしょうか。そこで今回は、曹丕がどんな人物であり、なぜ戦犯とまで言われているのかについて紹介していきます。


諸葛亮(孔明)の用兵術と老将軍たちの武勇

諸葛亮(孔明)の用兵術と老将軍たちの武勇

「曹洪(子廉)将軍は蜀軍を恐れている」と大口を叩いて蜀軍に対峙した張郃(儁乂)が大敗して戻ります。曹洪(子廉)は激怒して張郃(儁乂)を打ち首にしようとしますが、他の将軍たちに諫められ、再び張郃(儁乂)にチャンスを与えます。しかし「日の出の勢い」の蜀。再び魏軍を打ち破ったのは老将軍でした。


三国志演義の見どころ 人気武将【劉備・曹操・呂布・趙雲】

三国志演義の見どころ 人気武将【劉備・曹操・呂布・趙雲】

世間的に三国志といえば「三国志演義」が愛されているといえます。一騎討ちや神業ともいえる智謀の数々、妖術など、人間離れした活躍を見せてくれます。もちろん、フィクションの世界ですが、ある意味正史よりも有名である三国志演義について、人気武将である劉備(玄徳)・曹操・呂布・趙雲らの見どころをここで解説していきます。


三国の愚者として扱われている劉禅(公嗣)について

三国の愚者として扱われている劉禅(公嗣)について

「三国志で最も嫌われている人物は?」と聞かれたら董卓(仲穎)が真っ先に上がるのではないでしょうか。高貴な位をいいことに暴政の限りを尽くし最終的には身内である呂布(奉先)に殺されました。もしかしたら曹操(孟徳)や呂布(奉先)を挙げる人もいるかもしれません。しかし彼らは嫌われるようなことをした反面カリスマ性があり「嫌いではない」と答える人も多いでしょう。ここでは嫌われていて且つ救いどころも少ない劉禅(公嗣)について紹介したいと思います。


なぜ曹操は官渡の戦いで大軍相手に勝利することができたのか?

なぜ曹操は官渡の戦いで大軍相手に勝利することができたのか?

三国志という時代の流れを決定づける重要な戦いの1つが官渡の戦いです。この戦いで、曹操が袁紹に勝利したことで、曹操勢力の拡大につながっています。官渡の戦いでは、曹操軍は袁紹の大軍を相手に勝利を収めたわけですが、注目すべきはなぜ曹操が勝てたのかです。そこで今回は、官渡の戦いで大軍相手に曹操が勝利できた理由にスポットライトを当てていきます。