蜀の皇帝へ! 【劉備(玄徳)】の軌跡⑤「皇帝即位~張飛の死~夷陵の戦い」

蜀の皇帝へ! 【劉備(玄徳)】の軌跡⑤「皇帝即位~張飛の死~夷陵の戦い」

劉備(玄徳)は皇帝に即位し、関羽の弔い合戦として、呉への遠征を計画します。その矢先に張飛が死に、夷陵の戦いへ進んでいきます。ここでは晩年の劉備の軌跡から一大決戦となったこの戦いを見ていきましょう。


蜀を建国して初代皇帝となる

蜀を建国して初代皇帝となる

蜀を建国して初代皇帝となる

関羽が死んでしまった後、一大勢力を築いた魏の曹操が病で亡くなります。次いで呉の呂蒙も病死し、関羽の呪いではないかとも後世では伝えられています。君主の曹操や都督の呂蒙といった、実際に戦地に赴いて戦っていた指揮官が亡くなった両陣営は、すぐに出兵することがままなりませんでした。

諸葛亮は劉備(玄徳)に早く立ち直ってもらい、人心を安定させたい狙いがありました。その矢先、曹操の後継者になった曹丕が後漢の献帝から禅譲されて、魏を建国し、初代皇帝となりました。後漢の復興を目指していた劉備(玄徳)たちにとって、想定外のことだったといえます。

魏を倒し、漢王朝を復権するためには、皇帝の血脈を持った劉備(玄徳)しかいないと群臣たちが騒ぎ始めると、諸葛亮は蜀を建国し、劉備(玄徳)が初代皇帝として魏に対抗する案を練ります。

劉備(玄徳)は自分が皇帝になることを拒みますが、このままだと漢王朝のために挙兵した意味も無くなり、それを夢見て劉備(玄徳)に命を預けたや配下たちがいたたまれないと諸葛亮に諭され、建国することを決定しました。

張飛の死と呉への遠征を決定

張飛の死と呉への遠征を決定

張飛の死と呉への遠征を決定

劉備(玄徳)や関羽とともに挙兵した張飛は、劉備(玄徳)の晴れ姿を見て恐らくは泣き崩れたことでしょう。張飛は劉備(玄徳)と謁見し、関羽の弔い合戦として呉への遠征を固く誓い合いました。もともと張飛は部下を叱咤激励するとき、暴力も使い、ときに恨まれることもありました。

また、暴力をふるってきつく叱った部下を降格させることなく、自分の側近として信頼を置いてもいました。当然ながら、今度は殺されるかもしれないと恐怖におののく部下もおり、関羽が死んだことで、精神的に不安定になっていた張飛は、部下に八つ当たりもしていました。

そんな中、張飛の部下である張達らが反逆を起し、寝ている張飛を殺害しています。普通に暗殺するのは張飛相手に成功しないでしょうから、恐らくは酒を呑ませて寝込みを襲ったと思われます。しかも、張達らはその首を持って呉へと逃亡してしまいます。

劉備(玄徳)は張飛の使いが訪れた時、自然と「ああ、飛(張飛)が死んだ」と悟ったといいます。張飛を殺害した張達らが呉へと降ったことで、孫権の仕業と考えるようになってしまいました。とても蜀と呉の共同関係を維持するのは難しく、関羽の弔い合戦として、大規模な呉への遠征を計画した劉備(玄徳)ですが、今度は張飛も弔う意味でも、この戦いにかける意気込みは凄まじい思いが募っていきます。

諸葛亮は呉と戦うのは妥当ではなく、あくまでも呉と連携して魏に立ち向かうべきであると説得を試みます。しかし、劉備(玄徳)の思いは変わらず、諸葛亮は仕方なく説得を諦め、自分は蜀に残って国力を安定するように注力しています。

夷陵の戦いへ

夷陵の戦いへ

夷陵の戦いへ

劉備(玄徳)は221年、呉への報復として遠征を開始します。蜀入りに貢献した策士の法正やホウ統はすでに亡く、本来ならば諸葛亮を帯同させたいところでした。しかし、益州を手に入れたばかりで、国政を怠ることはできず、蜀の要といえる劉備(玄徳)と諸葛亮はどちらかが残る必要があったのです。

怒りに任せて行動を起こしている劉備(玄徳)に対し、諸葛亮はこの戦いで恐らく勝てないだろうと推測しています。その心情を察してか、古参の一人である趙雲が劉備(玄徳)に遠征を中止するように諭します。

劉備(玄徳)は今更引き下がれないとして却下し、趙雲を江州に残しています。これは国境を接する魏への備えと、自分が呉に敗れた際、万が一の抑えとして、独自に判断して救援に動ける適任者を趙雲だと決めていたからです。

快進撃を続ける

快進撃を続ける

快進撃を続ける

呉は劉備(玄徳)への備えとして、大都督に関羽討伐で功績があった陸遜を抜擢します。陸遜は呂蒙や魯粛に比べると、まだまだ諸将の信頼は皆無に等しいといえました。劉備(玄徳)は呉の総大将が陸遜であると聞き、まだ配下の信頼はおけてないことを想定して、遠征軍の速度を速めて呉の領地を攻撃し始めます。

支城を撃破された陸遜は、劉備(玄徳)軍と戦いますが、連携がとれずに敗北を喫します。勢いにのる劉備(玄徳)軍は、呉の領地の奥深くまで侵入し、長江の夷陵にまでたどり着きます。劉備(玄徳)配下の黄権はあまりに進み過ぎてむしろ棄権な状態だと進言し、自身が兵を率いるので、劉備(玄徳)は後から付いてきて欲しいと懇願します。

しかし、劉備(玄徳)は呉への復讐が頭をよぎり、黄権の意見を却下しました。長江の北岸へ黄権を派遣し、自分はそのまま長江を渡り切って呉軍と対決しています。

陸遜の火計で惨敗

陸遜の火計で惨敗

陸遜の火計で惨敗

夷陵まで侵入されたら、もう後がない陸遜は再度劉備(玄徳)軍の陣営に攻め込みます。しかし、劉備(玄徳)の勢いは止められず、陸遜は退却を余儀なくされます。このとき、陸遜は劉備(玄徳)の陣地が火計に弱い布陣であることを見抜きます。

陸遜は夜襲で総攻撃を開始し、一斉攻撃で混乱させて劉備(玄徳)軍の陣地を焼き払います。陣が近くにあるので、一気に燃え広がり、劉備(玄徳)軍はさらに混乱を極めていきました。

劉備(玄徳)は退却を始めますが、すでに陸遜は退路を断っており、劉備(玄徳)が通るであろう道を塞いでいました。多くの武将が討ち死にし、北に構えていた黄権は呉軍と火に挟まれて行き場を失い、仕方なく魏へと降伏しています。劉備(玄徳)軍は総崩れとなってしまい、数万規模の死者を出してしまいました。

劉備(玄徳)の最期

劉備(玄徳)の最期

劉備(玄徳)の最期

その頃、異変に気付いた趙雲が早馬で駆付け、劉備(玄徳)はかろうじて助かりました。白帝城に逃げ込んだ劉備(玄徳)でしたが、すでに戦意は喪失しており、夷陵の戦いでの惨敗と関羽や張飛の弔いができなかったことを悔やみ、とうとう病に倒れます。劉備(玄徳)は自分の死期を悟り、この地を永安と名付けました。

劉備(玄徳)は223年、諸葛亮と自身の子どもを呼び出し、これからは諸葛亮を自分たちの父であると思うようにしなさいと言い聞かせます。また、劉備(玄徳)は諸葛亮にこれまでもことを感謝し、今後のことを一切託しました。特に、嫡男の劉禅が皇帝の器でない場合は、諸葛亮自身が君主となって蜀を治めてほしいと願います。劉備(玄徳)はそれだけ言い残すと、静かに息を引き取ったといいます。

これほどまでに信頼されていることに感激した諸葛亮は、劉備(玄徳)が自分を取り立ててくれたことに感謝し、劉禅を補佐し、自分はあくまでも臣下の礼を取り続けていくことを誓いました。

三国志の主人公的存在になっている劉備(玄徳)は、時に流浪の身となり、ライバルとして描かれている曹操よりも精力的に劣り、多くの戦いで負け続けていました。しかし、劉備(玄徳)は人格に優れ、人望を集めており、その魅力に優秀な人材が結集することとなって、益州を手に入れることが可能になったといえます。





この記事の三国志ライター

関連するキーワード


劉備 玄徳 張飛 関羽

関連する投稿


どこが地味!?強烈な個性の持ち主・孫権 仲謀と、そのリーダーシップ

「魏の曹操や蜀の劉備と比べて、呉の孫権ってなんだか地味」……三国志に触れていて、そんな印象はありませんか?今回はにわか孫権ファンの筆者が、地味と思われかねない理由と、実はちっとも地味じゃない孫権の素顔について調べてまいりました!


馬氏の五常とまで呼ばれた馬良(季常)が目立たないワケ

優れて優秀な人物のことを「白眉」と呼ぶことがあります。この白眉というのは三国志に登場する馬良(季常)が由来だったことをご存知でしょうか。馬良(季常)は5兄弟の四男で「馬氏の五常、白眉もっとも良し」と言われた英才でした。しかし、現在では末弟の馬謖(幼常)のほうが良くも悪くも名前を知られていますよね。なぜでしょうか?


蜀の名君劉備(玄徳)が民や将から慕われていた理由を考察してみた

三国志といえば蜀!名君といえば劉備(玄徳)と多くの人が認識しているわけですが、これは三国志演義という小説が蜀や劉備をあたかも主人公視点のように書いているからでもあります。とはいえ劉備(玄徳)の人気はありますし、脚色であったとしても慕われる理由は知りたいので今回はその理由について考察してみることにしました。


三国志・黄巾の残党はなぜ劉備(玄徳)に与した者が多いのか?

三国志演義では、劉備(玄徳)の配下に「元黄巾」という肩書を持つ者が複数います。なぜそのような設定になっているのでしょうか?


三国志・「虎痴」と畏怖され、常に死と隣り合わせにあった曹操を守り抜いた猛将・許褚

絶えず命を狙われ続けた曹操を最後まで守り続けた魏の猛将・許褚は、どのように描かれているのでしょうか。許褚の謎にも迫ります。


最新の投稿


春秋戦国時代 伍子胥の人生について

伍子胥(ごししょ)は、中国の春秋時代に活躍した楚の武人です。彼の本名は員(うん)で、楚の平王によって父と兄が殺されたため、復讐を誓いました。彼は呉に亡命し、楚との戦いで、ついに復讐を果たしました。しかし、後に呉王夫差が越王勾践を破った際、降伏を許そうとする夫差に反対し、意見が受け入れられず、自害させられました。


孫氏の兵法の孫武(そんぶ)とは?

『孫氏の兵法』における「孫氏」とは、古代中国の軍事思想家である孫武です。兵法書『孫子』を著し、戦争や軍事戦略に関する理論を全13篇から構成。特に「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」が有名で、戦争を避けることが最も優れた戦略であると説いています。 参考:ドラマ 孫子兵法 ‧


『キングダム』における羌瘣とは?

羌瘣は、漫画『キングダム』に登場する架空のキャラクターです。彼女は羌族出身の少女で、精鋭の暗殺者集団「蚩尤(しゆう)」に属していました。彼女は、原作、映画においても非常に魅力的なキャラクターです。その環境や周辺を史実を参考に紐解いてみます。


赤兎馬とは? 三国志初心者必見 三国志における名馬の物語

赤兎馬とは、三国志演義などの創作に登場する伝説の名馬で、実際の存在については確証がなく、アハルテケ種がモデルとされています。体が大きく、董卓、関羽、呂布など、三国時代の最強の武将を乗せて戦場を駆け抜けました。


春秋戦国時代 年表 キングダム 秦の始皇帝の時代の始まり

キングダム 大将軍の帰還 始まりますね。楽しみにしていました。 今回は、秦の始皇帝「嬴政」が、中華統一を果たす流れについて記述しようと思います。映画、キングダムのキャストの性格とは若干違うかもしれませんが、参考程度に読んでみてください。


アクセスランキング


>>総合人気ランキング