黄巾の乱に便乗して乱を起こす
■ 黄巾の乱に便乗して乱を起こす
黄巾の乱に便乗して乱を起こす
黄巾の乱が起こったのが、後漢霊帝の治世であった184年のことになります。黄巾の乱を扇動した首謀者が、太平道の教祖「張角」であることは有名です。張角の出身地は「冀州」の鉅鹿郡になります。
黄巾の乱は8州で一斉に挙兵しましたが、冀州はその中心地ともいうべき場所になります。朝廷は、かつて揚州の九江郡で発生した反乱を鎮めた戦上手の盧植を北中郎将に命じ、黄巾の乱の激戦地・冀州へ送り出します。
この時、黄巾の乱に便乗して冀州で反乱を起こした賊徒の組織が二つありました。ひとつは、冀州常山郡で1万以上の軍勢を率いた「褚燕」と、冀州博陵郡で蜂起した「張牛角」の軍勢です。
黒山賊と張燕の誕生
■ 黒山賊と張燕の誕生
黒山賊と張燕の誕生
褚燕の軍勢と張牛角の軍勢は合流し、さらに大きな組織となります。これが「黒山賊」です。褚燕と張牛角がどのような関係だったのか、詳細はわかりませんが、褚燕は張牛角をリスペクトしていたのでしょう。褚燕は張牛角を黒山賊の頭目に推し立てました。おそらく褚燕は副頭目のような存在だったのではないでしょうか。
張牛角は、黄巾の乱の首謀者である張角と同じ姓になりますが、こちらの関係性も謎です。張の姓は三国志では、張飛や張遼、張昭や張郃、張済や張魯など数多く登場しますので、偶然の一致かもしれませんが、もしかすると同族だったかもしれません。
頭目となった張牛角は間もなくこの世を去ることになります。官軍と戦って討たれたのか、病没したのかは不明です。褚燕は頭目の座を引き継ぎましたが、この時に「張」の姓も受け継ぎました。こうして群雄の一角を担うことになる「張燕」が誕生します。
張角の死
■ 張角の死
張角の死
太平道の教祖・張角は反乱を起こした年に病没し、黄巾の乱は一応平定された形となります(その後も残党は各地で暴れまわっています)。
この時、黒山賊はどのような選択をしたのでしょうか?
ここで、黒山賊の頭目である張燕は、なんと潔く朝廷に降伏しました。
仮にも世間を混乱におとしいれた賊徒なのです。張角は官軍に棺を暴かれ、さらし首となっています。黒山賊も同様な処遇となる可能性は充分にあります。これは、黄巾の乱だけに限った話ではありません。後漢末期には多くの反乱が起こっていますが、そのほとんどが討ち取られて、鎮圧されているのです。
なぜ張燕は朝廷に降伏するという決断をしたのでしょうか。そこには張燕のしたたかな打算が見え隠れしています。
飛燕という渾名
■ 飛燕という渾名
飛燕という渾名
張燕の渾名は「飛燕」といいます。燕はそもそもの名ですが、なぜ飛燕と呼ばれるようになったのかというと、それは張燕の戦いぶりに理由がありました。
「飛んでいる燕のように、機敏な動き」をするためです。
実は朝廷はこの黒山賊の討伐に何度も兵を送り込んでいます。しかし、張燕のまさに飛燕のような用兵術に敗れていたのです。さらに黒山賊の軍勢は100万にまで膨れ上がっていました。これを討伐するのは至難の業です。
張燕は朝廷に降伏するという徳を示すことによって、平難中郎将に任じられたと記録されています。手強い黒山賊を和睦によって朝廷は鎮めたことになります。それだけの強さを黒山賊は誇っていたということです。張燕は水面下で、降伏しても厚遇されるような交渉をしていたのかもしれません。
張燕は、考廉と計吏を推挙する権利を与えられ、朝廷に認められた群雄として正式な独立を勝ち取りました。名目上は張燕の降伏ですが、実質は張燕の勝利といっていいでしょう。
これが冀州常山に拠点を構える張燕率いる黒山軍です。(離脱し別勢力としての黒山賊も存在します)
二大勢力の袁紹と公孫瓚の争い
■ 二大勢力の袁紹と公孫瓚の争い
二大勢力の袁紹と公孫瓚の争い
董卓が朝廷を牛耳るようになると、冀州の牧に韓馥が任命されます。ですから反董卓連合が結成された際に、当初の韓馥は渤海郡太守である袁紹を牽制したのです。しかし最終的に韓馥も反董卓連合に参加することになります。
反董卓連合が群雄のそれぞれの思惑によって瓦解すると、袁紹は肥沃な土地を持つ冀州に目をつけます。そして本拠地にすることを画策し、韓馥から牧の座を奪いました。
もちろん冀州には黒山軍もいます。袁紹と対立する勢力となる公孫瓚は、黒山軍と手を結び包囲網を敷くことになります。
ここから張燕と黒山軍による袁氏との長い戦いが始まるのです。袁紹が冀州の牧となるのが191年のことになります。なんと張燕は202年まで戦い続けるのです。ちなみに同盟相手の公孫瓚は199年に袁紹によって滅ぼされています。
飛将との戦い
■ 飛将との戦い
飛将との戦い
名士を多く抱え、歴戦の勇将も揃っている袁紹でしたから、容易に黒山軍を倒すことができると考えていたのでしょうが、張燕はやはり手強い相手でした。袁紹もほとほと手を焼きます。この辺りのシーンは北方謙三先生の小説「三国志」で描かれているので、ぜひ読んでみてください。
ここで登場するのが、義父である董卓をクーデターによって討ち取りながらも、李傕らの残党によって長安の都を追われた「呂布」になります。
「飛将」の異名を持ち畏怖されていた呂布は、袁紹の客将として張燕と戦い、数十日の後に見事に撃破しました。
この武功によって呂布と愛馬の赤兎馬は「人中の呂布、馬中の赤兎」と賞賛されることになるのです。
一方で敗れた張燕の勢力は衰えていきました。しかし袁紹に降ることはせずに、ゲリラ戦で抵抗を続けていきます。それは袁紹が官渡の戦いで曹操に敗れ、202年に袁紹が病没するまで続きました。
まとめ・曹操に帰順した張燕
■ まとめ・曹操に帰順した張燕
まとめ・曹操に帰順した張燕
202年、独立勢力として常山に君臨していた張燕は、ついに完全降伏をします。相手は袁紹を倒した曹操でした。曹操はそれ以前に呂布も倒しています。
さすがの張燕も曹操の実力を認め、心底敵わぬ相手だと感じたのでしょう。張燕は曹操に降り、その家臣に加えられることになります。曹操から平北将軍に任じられて袁紹の残党と戦っていた張燕は、正式にその配下となり、安国亭侯に封じられました。
張燕の相手を見定める眼力は正確だったということでしょう。曹操の陣営に加わった後の張燕の活躍は記録されていませんが、張燕の子もまた、同じく平北将軍に昇進していることから、曹操に認められ続けたのは確かなようです。