赤壁の戦いのその後
■ 赤壁の戦いのその後
赤壁の戦いのその後
208年10月に三国志で最も有名な戦いである「赤壁の戦い」が行われます。河北を平定し、荊州をも吸収した曹操と揚州で力を蓄えてきた孫権の戦いです。名将・周瑜は偽りの投降と火計をもって曹操の水軍を壊滅させます。曹操は大敗を喫し、荊州の守備を曹仁に託して帰還しました。周瑜はさらに江陵(南郡)を攻めて、見事に占領しています。曹仁はさらに北の襄陽まで戦線を下げることになります。勝ち目はないと思われていた孫権軍は曹操を撃退したばかりではなく、その領地まで広げることに成功したのです。周瑜の功績はまさに突出したものでした。こうして周瑜は三国志を代表する英雄となったわけです。
一方で孫権側に味方した劉備(玄徳)は猛将として知られる関羽・張飛・趙雲の他に、軍師となる諸葛亮を配下に加えています。そして赤壁の戦いの後、曹操の手の届かぬ荊州南四郡の占領を計画するのです。
荊州南四郡
■ 荊州南四郡
荊州南四郡
荊州南四郡とは「長沙郡」「武陵郡」「桂陽郡」「零陵郡」になります。武陵郡、長沙郡は長江からそこまで離れていませんが、桂陽郡、零陵郡についてはかなりの南、荊州の奥地です。土地の面積こそ広いものの、ほぼ未開の地であり、異民族も多く住んでいました。周瑜が手にした江陵とは比べものになりません。江陵は北の襄陽へ進むにしても、東の揚州に進むにしても、南の南四郡へ進むにしても、そして西の益州に進むにしても拠点となる非常に重要な地でした。それに比べると南四郡は単なる僻地です。それでも領地を持たない劉備(玄徳)にとっては必要な場所でした。その奪取のために関羽、張飛、趙雲らが出陣することになります。
「三国志正史」においても劉備(玄徳)の南四郡への侵略は記されていますが、詳細は不明な点が多いです。逆に「三国志演義」ではかなり話が誇張されており、史実には登場しないキャラが多く見られます。ここからは三国志演義を中心にして話を進めていきましょう。
その1・零陵郡の攻略
■ その1・零陵郡の攻略
その1・零陵郡の攻略
零陵郡の太守は曹操に任じられた「劉度」です。三国志演義では、地理的には最も南に位置する零陵郡を真っ先に攻めたとしています。曹操からの援軍を期待できない劉度としては迎撃するのも籠城するのも厳しい選択肢だったことでしょう。しかし抵抗しないのでは盛り上がりに欠けるために、三国志演義では息子・劉賢(劉延との記載もあり)と大斧を自在に操る邢道栄が登場します。一万の兵で劉備(玄徳)軍を迎撃しますが、まったく太刀打ちできず、最終的に邢道栄は趙雲に討たれ、劉賢は父の劉度に降伏を勧めることになります。劉度は太守の印綬を捧げて劉備(玄徳)に帰順し、諸葛亮の助言のおかげでそのまま零陵郡の太守にとどまりました。劉賢も邢道栄も架空人物です。
その2・桂陽郡の攻略
■ その2・桂陽郡の攻略
その2・桂陽郡の攻略
零陵郡に近い桂陽郡の太守は曹操に任じられた「趙範」です。史実では、劉度同様に劉備(玄徳)に降ったことぐらいしか記されていません。三国志演義では趙雲が大将として桂陽郡を攻めています。趙範配下で武勇に優れた鮑隆と陳応が出撃します。鮑隆は一度に二頭の虎を射たことのある猟師、陳応は飛叉の使い手でもと猟師という設定になっています。陳応は趙雲に敗れ捕らえられ、趙範は降伏します。そして趙雲と同郷であり、同じ歳であることから義兄弟の契りを結ぶのですが、兄嫁で未亡人の樊氏を趙雲の妻にしようとしたことで怒りを買って殴り飛ばされます。これで再び趙雲と趙範は交戦状態になりましたが、鮑隆と陳応の偽りの投降が見破られて趙雲に殺害され、趙範はまたもや降伏することになるのです。それでも劉備(玄徳)は趙範も太守にとどめています。
趙範はその後、荊州から逃げて曹操のもとに向ったという話もあります。趙範が有能だったとはなかなか思えないので、逃亡したことは問題ないのですが、エピソード的には鮑隆がかなり強かったと思われるので、殺害してしまったのはもったいないですね。もしかしたら魏延並みの猛将になったかもしれません。ちなみに鮑隆も陳応も架空の人物ですが。
その3・武陵郡の攻略
■ その3・武陵郡の攻略
その3・武陵郡の攻略
そのまま太守にとどまった者もいれば劉備(玄徳)に抵抗して戦死した者もいます。それが武陵郡太守の金旋です。司隷の生まれで、字は元機、前漢の武帝に後事を託された金日磾の血を受け継いでいます。黄門郎や中郎将などを歴任した名士です。どのように戦って戦死したのかは不明になっています。三国志演義では張飛が大将として攻め寄せており、金旋は果敢にも撃って出ています。張飛とも一騎打ちをするぐらいの勢いでしたが、結局は張飛の迫力に負けて退却。配下の鞏志に裏切られ城門前で射殺されました。劉備(玄徳)は鞏志を代わりの太守に任じています。
金旋の子の金禕は朝廷に仕えており、曹操の専横ぶりに異を唱えて反乱を試みますが、鎮圧され殺害されました。金旋配下の鞏志だけは架空の人物になります。
まとめ・その4・長沙郡の攻略
■ まとめ・その4・長沙郡の攻略
まとめ・その4・長沙郡の攻略
長沙郡の太守に曹操に任じられたのが「韓玄」です。曹操は黄忠を裨将軍に任じ、韓玄につけています。三国志演義ではまず架空人物の楊齢という部将が登場し、攻め手の大将である関羽に挑みますが、打ち合うことなく真っ二つにされました。黄忠は関羽と互角の一騎打ちを演じています。しかし怪しい素振りをする黄忠を疑った韓玄は、黄忠を捕らえようとしますが、客将の魏延が飛び出してきて韓玄を斬り捨てます。こうして劉備(玄徳)は長沙郡と共に黄忠、魏延という名将を配下に加えるのです。
このとき魏延が韓玄の客将だったという設定自体が三国志演義の脚色になっています。つまり魏延がいつ、どのように劉備(玄徳)の部下になったかは実際は不明なのです。韓玄には韓浩という弟がおり、これは三国志正史に登場する韓浩とは別人とされています。三国志演義に登場する架空人物の韓浩は、兄の仇を討とうとして黄忠を狙いますが、天蕩山の戦いで大敗し、黄忠に斬られています。
このように荊州南四郡の制圧戦について、三国志演義はかなりの脚色を施し、劉備(玄徳)らの活躍を演出しています。私としてはこの架空人物の中で最も興味があるのは鮑隆ですね。皆さんは気になる架空人物がいらっしゃいますか?