関羽(雲長)のトレードマークに関するあれこれ

関羽(雲長)のトレードマークに関するあれこれ

関羽(雲長)のトレードマークと言えば、あなたはなんだと思いますか?美髯公の由来となった長いひげ?烈火のような赤い顔?本記事では関羽(雲長)のトレードマークに関するあれこれを紹介します。


関羽(雲長)のトレードマークと言えば?

あなたは「関羽(雲長)のトレードマークはなんですか?」と質問されたらなんと答えますか?
美髯公の由縁たるひげでしょうか?それとも烈火の如き赤ら顔でしょうか?はたまた視野を広げて青龍偃月刀と答えることも無きにしも非ずですね。本記事では関羽(雲長)の「ひげ」、「赤ら顔」、「青龍偃月刀」といった彼のトレードマークに関するあれこれを紹介します。

関羽(雲長)の危機を救った老婆

関羽(雲長)は故郷で殺人罪を犯してしまい、指名手配犯としてお尋ね者となった過去があります。
その頃の関羽(雲長)は色白でひげもそこまで長くなかったそうなのです。関羽(雲長)は頑張って走り続けたのですが、追手はすぐそこまでせまっていました。馬が走ったときに起きる粉塵が見えていたのです。絶対絶命の状況で関羽(雲長)の目に映ったのは川で洗濯をする老婆の姿でした。
関羽(雲長)はその老婆のところまで一目散に駆け寄り、「お婆さん、失礼ですがどうか私をかくまってもらえませんでしょうか」と頭を深々と下げると、その老婆は「あい、わかった」と言っていきなり関羽(雲長)の顔を殴り、彼の髪の毛をむしりはじめました。老婆は関羽(雲長)が流した鼻血を彼の顔に塗りたくり、抜いた髪を使ってつけひげを作り出しました。
そしてそのつけひげを関羽(雲長)の頬や顎にあてるとぴったりとくっついてしまいました。関羽(雲長)は川の水で顔についた血を洗い流そうとしたのですが、何度洗っても顔は赤いままです。つけひげを引っ張ると肌から生えているように痛みがありました。
関羽が顔をあげるとそこには老婆ではなく、ひとりの仙女が立っており彼にこのように告げたそうです。
「あなたは義のために罪を犯しました。しかし、あなたは将来名君を輔ける運命にあります。そのため、あなたの人相を変えました。これからは世のため人のために力を尽くしなさい。」
そして仙女は金色に輝く雲に乗り、天界へと帰っていったそうです。その後、関羽(雲長)は偽名を使うなどして何か所かの関所を潜り抜けることができたそうです。

関羽(雲長)は赤龍の生まれ変わり

彼の出身地に伝わる民間伝承の「関羽雲長誕生秘話」では「関羽雲長は赤龍の化身なり、それ故赤ら顔なのだ」と最後を締めくくっています。しかし、これは昔からある偉人を特別な存在に祀りあげるべく、後世の人々が無理やり理由をつけて作り出した逸話である可能性が高いです。赤龍といえば漢の高祖・劉邦の母が赤龍が腹に入った夢を見て劉邦を懐妊した話や劉邦が万里の長城建設の際、現地に着いても人数不足で死罪、逃亡しても到着が遅れても死罪になってしまうという究極の選択を強いられたとき、仲間の命を守るべく逃げ込んだ山中で白い大蛇を倒した話にも登場する漢にとっては縁起のよい神獣です。
この話は劉備(玄徳)が漢の皇帝の末裔であること、そして関羽(雲長)が劉備(玄徳)を補佐する関係であることをこじつけているに他なりません。

美髯公の名づけ親は皇帝だった

あなたは関羽(雲長)のあだ名である「美髯公」という文言を考えた人は誰かご存知ですか?「美髯公」が関羽(雲長)のあだ名であることを知っている人は多いかもしれませんが、その名付け親が誰であるのかを知っている方は少ないと思います。

「美髯公」の名づけ親は後漢第14代皇帝の献帝(劉協)です。官渡の戦い直前、劉備(玄徳)と関羽(雲長)、張飛(益徳)の義兄弟はバラバラになってしまいます。その当時劉備(玄徳)は袁紹(本初)、関羽(雲長)は曹操(孟徳)の幕下に身を寄せていました。
曹操(孟徳)は関羽(雲長)を心服させるべくプレゼント攻撃や古参の武将でも受けたことのない優遇をして心を動かそうしました。ところが関羽(雲長)の意志は固くなかなか心服しません。
そこで、曹操(孟徳)は酒席を設けて関羽(雲長)と雑談しながら彼の気持ちを確かめようとしました。その雑談中のことです。
曹操(孟徳)は関羽(雲長)の長くて美しいひげのことを褒めちぎり冗談を交えながら話を振ったそうです。すると、関羽(雲長)は心を開き笑顔でこのように答えたそうです。「曹丞相、私のひげは秋には500本生え揃います。しかし、冬になれば何もせずとも3本、5本と抜け落ちてしまいます。それ故、普段はひげ袋でこのあごひげを覆い、人前に出る時分や客人を迎える折はそれを外して
人と会っているのです。」

曹操(孟徳)はこの話を聞いて「次のプレゼントはこれだ!!」とひらめきました。そして関羽(雲長)に綾絹で仕立てたひげ袋を贈ったそうです。関羽(雲長)もこのプレゼントを大変気に入り、献帝への謁見の場に曹操(孟徳)からもらったひげ袋をつけて参内しました。関羽(雲長)のつけていたひげ袋が献帝の目に留まりました。そのひげ袋の下に隠されたひげが気になった献帝は関羽(雲長)にひげ袋を外すように命令しました。
関羽(雲長)がひげ袋を外すとまるで女性の後ろ髪のような長く美しいひげが、シュルシュルっと下っ腹に届くまで垂れ下がりました。
その場にいた一同は関羽(雲長)のひげの美しさに見とれてしまいました。献帝の口からは「ほお~う、美髯公だのう」という声が漏れてきました。それから関羽(雲長)は「美髯公」と呼ばれるようになりました。

関羽(雲長)赤ら顔の由来は諸説あり

関羽(雲長)は美髯公と呼ばれるほどひげに特徴があった人物ですが、当時の人々は関羽(雲長)だと確信するのに別の特徴で判断していました。それは赤ら顔です。先ほど紹介した「関羽(雲長)の危機を救った老婆」以外にも関羽(雲長)が赤ら顔になった由来に関するお話があります。ひとつは「逃走中、息をするのも忘れて全力疾走をしているうちに頭に昇った血が下りなくなってしまった」というもの。
もうひとつは「逃走中、顔を泉で洗うと顔が赤くなってしまった、その泉は赤龍が住まう泉だった」というものです。京劇では関羽(雲長)の役のことを「紅生(こーしゅん)」といい、顔一面を赤くし黒の隈取りをするメイクは関羽(雲長)役専用のメイクであるそうです。また、京劇の劇団は神である彼に敬意を払うため、あえて「目の周りに濃い隈取りをしない」、「関羽(雲長)役を演じられるのは一劇団でひとりのみ」というルールがあるそうです。

関羽(雲長)は「青龍偃月刀」と呼んでいない

関羽(雲長)の愛刀といえば言わずもがな青龍偃月刀であります。彼ら義兄弟は黄巾党の乱を鎮圧する義勇軍に加わる際、地元の富豪から無償で提供された鋼で生涯生死を共にする武器を作りました。劉備(玄徳)は細長い双剣、張飛(益徳)はジグザグと刃が蛇行している蛇矛(じょぼう)、そして関羽(雲長)は刃を固定する金具に青龍の頭部を模した飾りをあしらった青龍偃月刀です。しかし、このとき彼は武器に命名して生涯その名で呼称しているのですが、正直のところあまり知られていません。関羽(雲長)は青龍偃月刀に「冷艶鋸(れいえんきょ)」という名前をつけました。実は「青龍偃月刀」は後に作られた造語です。偃月刀は三日月のような形状をした片刃の大刀のことです。さらに言ってしまえば偃月刀の定義が明確化したのは関羽(雲長)の死後数百年後のことであり、関羽(雲長)にあやかって彼の冷艶鋸(れいえんきょ)を真似て作られた武器が偃月刀と名付けられたのではないかと考えます。

まとめ

さてさて、いかがでしたか?
関羽(雲長)はアジア諸国の民から愛されている超人気者です。中国では関羽(雲長)がひげのメンテナンスを毎日怠らなかったことを引用して、「美しいひげは一日にしてならず」、「髪型よりもひげに気を遣え」という名言も過去に生まれたそうです。もしかすると、赤い顔は彼のコンプレックスだったのかもしれません。三国志を研究し続けたとある文学者がこのように考えました。「関羽(雲長)の顔が赤かったのは、彼の顔面の皮膚が先天的に薄かったことが考えられる」と。つまり、お猿さんみたいな皮膚だったのではないかということです。雄々しく猛々しい関羽(雲長)をチャーミングに感じた瞬間でした。

関連するキーワード


関羽 劉備(玄徳)

関連する投稿


えっこんなに?正史と演義で差のある人物

えっこんなに?正史と演義で差のある人物

三国志演義(正式名称:三国演義)は三国志正史を元に書かれた小説です。当然両者には差があります。蜀漢を正当とする演義では大活躍しても、魏を正当な王朝とする正史では、あまり目立たない人物も数多くいます。 どんな人物が当てはまるでしょうか?


袁紹VS公孫瓉--河北の覇者はオレだ

袁紹VS公孫瓉--河北の覇者はオレだ

三国志の序盤において、中原では曹操・袁術・呂布・劉備(玄徳)・劉表らによって勢力争いが行われていました。その一方で、黄河の北側・河北では、袁紹と公孫瓚が覇権を争っていました。袁紹VS公孫瓚、彼らの争いとはどういうものであったのでしょうか?


三国志に登場する仙人が凄い!でも仙人ってどんな人なの?

三国志に登場する仙人が凄い!でも仙人ってどんな人なの?

三国志の時代には、様々な仙人が登場します。代表的な仙人と言えば、左慈や于吉などが有名ではないでしょうか。とは言え、三国志好きの方も「仙人ってどんな人なの?」「そもそも人なの?」などの思うのではないでしょうか。そこで今回は、三国志に登場する仙人について詳しく紹介していきます。


三国志の登場人物を超端的に紹介するとこうなった

三国志の登場人物を超端的に紹介するとこうなった

三国志の主な登場人物をどこよりも端的に紹介してみました。個人的見解もありますが、大それたことにはなっていないと思う為「これから三国志を学んでみたい」「三国志のゲームをする上でこの武将はどんな人物か知りたい」と思う人は是非読んでみてください。ここからさらに深く知るきっかけになれば幸いです。


三国志・三絶のひとつ「奸絶」の曹操のイメージはいかに確立されたのか

三国志・三絶のひとつ「奸絶」の曹操のイメージはいかに確立されたのか

三国志演義では、劉備(玄徳)の最大の敵として君臨する「曹操」。まさに悪の象徴として描かれています。はたして曹操の悪のイメージはどのようにして確立されたのでしょうか?


最新の投稿


三国志から影響を受けた偉人たち

三国志から影響を受けた偉人たち

三国志の登場人物たちは古くから人々の憧れの的であり、武士の鏡、そして漢とはこうあるべきと彼らの生き方を人生の道しるべにしてきた人々は数え切れないほどいます。本記事では三国志から影響を受けた偉人たちについて紹介しましょう。


曹操(孟徳)を寝込ませてしまった左慈(元放)仙人の奇妙な話

曹操(孟徳)を寝込ませてしまった左慈(元放)仙人の奇妙な話

漢中平定を成し遂げ、さらに大乱戦の末、降伏には至らなかったものの呉に毎年貢物を献上させることを約束させた曹操(孟徳)は、216年に魏王を名乗ります。献帝が健在であるにも関わらず、その勢力はまさに日の出。いよいよ益州(蜀)を攻略すれば天下統一も目前…というところまで来ました。しかし、そんな曹操(孟徳)の前に奇妙な人物が現れ、次々に不思議な出来事が起こります。曹操(孟徳)にとっては吉兆かはたまた凶兆か…見て行きましょう。


もっと知ってほしい三国志後半の登場人物

もっと知ってほしい三国志後半の登場人物

三国志を知らない人でも劉備(玄徳)、諸葛亮(孔明)、曹操(孟徳)と言った名前は聞いたことがあると思います。しかし彼らは三国志の前半の方の登場人物で、特に諸葛亮(孔明)が死んでからは「そこで三国志が終わった」と思っている人もいることでしょう。ここでは三国志後半に出てきて、特に覚えておいてほしい登場人物について紹介したいと思います。


晋VS呉 三国の統一へ

晋VS呉 三国の統一へ

魏・呉・蜀漢が100年近くも争い続けた三国志も、蜀漢が滅び、魏は晋に禅譲し、残るは呉のみ。最後は呉が武帝(司馬炎)率いる晋に滅ぼされ、中国が統一されて終わります。これは正史でも演義でも同じです。最後の舞台となった晋と呉の決戦はどのように繰り広げられていったのでしょう!?


三国志・もしもこの二人が激突していたら!?夢の対決を想像してみよう

三国志・もしもこの二人が激突していたら!?夢の対決を想像してみよう

三国志夢の対決「趙雲VS張遼」、「周瑜VS陸遜」、「曹操VS諸葛亮(孔明)」が実現した場合を想像してお伝えしていきます。