三国志・劉備(玄徳)に侵略された益州はなぜ一枚岩になれなかったのか

三国志・劉備(玄徳)に侵略された益州はなぜ一枚岩になれなかったのか

劉備(玄徳)に支配される以前の益州はどのようになっていたのでしょうか。州牧の提案者でもある「劉焉」を中心にして益州の動きをお伝えしていきます。


僻地・益州

劉備(玄徳)が拠点としたことで注目を集めることになる益州は、中央から見るとまさに蛮族の住む僻地だったことでしょう。現在の四川省こそが、益州になります。周囲を険しい山脈に囲われている盆地で、まさに天然の要塞です。その面積は日本の1.5倍はあり、資源も豊富なことから歴代多くの独立国家がこの地に誕生しています。劉備(玄徳)はこの益州に「蜀」を建国し、初代皇帝に即位したのです。221年のことになります。蜀は263年に魏に侵攻されて滅亡するので、およそ40年間、益州には独立国家「蜀」が存在していたことになりますね。しかし、それ以前にもこの益州で独立しようと試みた人物がいました。劉備(玄徳)と同じ漢皇室の血筋である「劉焉」です。劉焉は、劉備(玄徳)の侵攻を受ける以前に益州をまとめあげ、地ならししていたのです。今回はこの劉焉を中心に、益州の状況をお伝えしていきます。

劉焉とはどのような人物だったのか

劉焉、字は君郎。荊州の江夏郡の生まれです。漢の景帝の四子・劉余の末裔です。劉備(玄徳)同様に皇室に連なる人物ということになります。もともとは役所勤めをしていましたが、陽城山に籠り、学問を近隣の住民に教えていたことから名声を得たようです。中央に召集されてからは、洛陽の県令を務めた他、南陽郡の太守や冀州の刺史なども歴任しています。

三公(司徒・太尉・司空)の下には実務を行う官僚がおり、それを「九卿」と呼びました。九卿とは、太常・光禄勲・衛尉・太僕・廷尉・大鴻臚・宗正・大司農・少府となります。三公と九卿は集議という会合で皇帝の諮問を受け、政策を決定していきました。これが後漢の政治システムである「三公九卿制」です。劉焉はこの中で、宗正と太常といった重職に就いています。

州牧の提案

184年に黄巾の乱が起きると、各地は大きく動揺します。州には刺史が置かれて郡の統括である太守らをまとめていましたが、軍権を有しておらず影響力は脆弱でした。188年に劉焉は、各地の反乱に対抗できる力をそれぞれの州で結集するため「州牧」の設置を提案します。実際にこの「刺史」と「牧」は漢王朝の中で何度も変わっており、明確に区別するのは難しいところです。劉焉の提案が受け入れられて州牧が誕生した後も、並立して刺史は存在するような状態でした。しかし正式に軍権を持って郡や県の統治に介入できるようになったことは大きな変化だったといえます。ちなみに当初は九卿クラスの重臣のみが州牧に任じられています。劉焉や劉虞などです。劉焉は戦乱が続く中央から離れたいと考えており、希望ははるか南方の交州の牧だったようです。

天子の気

そんな劉焉をそそのかした人物がいます。董扶です。この董扶は名の知られた名士ですが、益州の出身でした。大将軍である何進の招聘を断れず中央で侍中に就任していましたが、帰郷したかったのでしょう。劉焉に対し、「益州には天子の気がある」と伝え、劉焉に益州牧となることを決意させます。そして自らも侍中を辞し、都尉となって劉焉に同行したのです。董扶は天文のよる予言を得意としており、劉焉はその言葉を信じたのでした。しかし、そんな中で劉焉よりも先に益州を制し、天子を自称する者が現れます。黄巾の一味の馬相です。

馬相の乱

当時の益州の刺史は郤倹でした。黄巾の残党である馬相は反乱を起こし、この郤倹を殺害します。郤倹は綿竹などで略奪を行い、さらに巴郡を陥落させ、天子を自称するまでになっていました。馬相の軍勢は数万に達したといわれていますが、これを地元の豪族である賈龍らが数千の兵で撃退します。劉焉が益州の牧に就任したのはその後のことにあります。賈龍らは喜んで劉焉を迎い入れたことでしょう。劉焉は綿竹を本拠地とし、豪族らに恩賞を与えるなどして懐柔策をとっています。こうして益州は劉焉を中心に一つにまとまろうとしていました。

東州兵の誕生

劉焉同様に中央の戦乱を避けて故郷を離れる人々が多くなっていました。こうした流民が益州にも大勢押し寄せています。益州には特に荊州の南陽、長安近郊の三輔などから数万に及ぶ避難民が移住してきました。劉焉はこれを自らの兵士として取り込みはじめます。そして「東州兵」と名付けました。劉焉は巨大な軍事力を手にしたのです。

さらに劉焉は益州と中央を分断させます。交通の要所となる漢中で、五斗米道の教祖である張魯に力を与えて官吏を殺させ、橋を落としたのです。ここで劉焉は豹変します。反抗的な豪族は力でねじふせる作戦に変更しました。仲間を殺害された賈龍らは憤慨して反乱を起こしますが、東州兵を率いる劉焉の軍勢に敗れ処刑されてしまいます。益州は劉焉の独立国家さながらの様相となりました。その様子を見かねた荊州の劉表は、劉焉の野心を中央に報告したともいわれています。

まとめ・益州のその後

益州の支配に成功した劉焉でしたが、その後、涼州の馬騰と組んで長安の李傕ら董卓の残党を退治しようとして失敗します。長安に幽閉状態の献帝を救おうと考えたのでしょうか。ここで劉焉は嫡男である劉範を失うことになります。さらにもう一人の息子である劉誕も李傕の追撃に遭い捕縛されて処刑されました。失意の中で劉焉は病没します。跡を継いだのは四番目の息子である劉璋でした。

漢中の張魯は劉璋を見限り独立します。さらに移住民である東州兵と益州の住民との間でも紛争が絶えず、家臣たちも劉璋の統治力への不信感が増していくことになるのです。それがやがて張松、法正、孟達らの内応につながっていきます。劉備(玄徳)に益州侵略の隙を与えることになってしまうのです。

ちなみにこの劉焉は、三国志演義では幽州の統治者として登場し、劉備(玄徳)の義勇軍を歓迎しています。劉焉が幽州で太守や刺史に就任した記録はありません。なぜこのような登場をしたのかは謎です。劉備(玄徳)の旗上げ、建国に劉焉・劉璋親子が係わっていたという設定にしたかったのでしょうか。

どちらにせよ、益州が一枚岩になっていたら当時の劉備(玄徳)の軍事力では到底侵攻などできなかったことでしょう。劉備(玄徳)にとって益州の事情は幸運だったといえます。

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