三国志・屯田の成果と限界はどのようなものだったのか

三国志・屯田の成果と限界はどのようなものだったのか

三国志の時代に頻繁に実施された「屯田」。なぜ屯田が実施されたのでしょうか。その効果や廃止された経緯についてご紹介いたします。


屯田とは

屯田とは

屯田とは

屯田といえば北海道を開拓した屯田兵が有名です。日頃は耕地の開墾を行い、戦争となると兵士として軍隊に従事するのが屯田兵の役割です。その耕地を屯田と呼ぶのです。屯田の効果としては、自給自足できるため糧食不足を解消することができます。三国志の時代では徐州の牧である陶謙が、飢饉に対して陳登を典農校尉に任じ屯田を実施しています。もちろんある程度広い領地を確保していなければ実施できない政策です。糧食不足は深刻な問題で、194年には中原一帯で蝗害も発生しており、人が人を食う様相だったと伝わっています。

曹操の屯田の特徴

曹操の屯田の特徴

曹操の屯田の特徴

196年に曹操は献帝を許都に迎え入れます。当初は大将軍に任じられていた曹操でしたが、その位を河北の覇者である袁紹に譲り、自らは司空となりました。土地や人民、公共事業の総責任者です。ここで、棗祗と韓浩が曹操に屯田を進言します。棗祗は三国志演義には登場しない人物です。曹操は二人の熱心な提議を受け入れて、僻地ではなく許都近郊で屯田を実施します。まずは流民を募集して放棄されている土地を与えました。農具を支給する他、牛なども貸していたようです。つまり屯田兵ではなく屯田民なのです。それ以前には中原の地は戦乱で荒廃し、大量の流民が発生していました。流民は中原の地を離れ、幽州や荊州、益州にまで流出しており、その数は百万にものぼるといわれています。人口の激減、農地の荒廃によって曹操軍は慢性的な兵糧不足に陥っていたのです。

曹操の屯田の成果

曹操の屯田の成果

曹操の屯田の成果

曹操は棗祗を屯田の責任者に任じ、許都近郊での屯田を実施したところ大きな成果をあげることができました。曹操はこの成功をさらに大きなものにすべく、郡には典農中郎将を配置し、県には典農都尉を配置して多くの領地で屯田を広げていくことになります。こうして屯田に参加する流民の数が増えると、やがて土地に余裕がなくなってきました。人口の減少を食い止めることに成功し、逆に人口が増えてきたわけです。この時期の課税率は、自分の牛を所有している場合は五公五民。国の牛を借りて開墾している場合は六公四民となっています。屯田民は特別扱いされており、兵役やその他の労働役が免除されており農業に専念できたために生産性は高まっていきました。

曹操が袁紹に勝利できたのも屯田による安定した兵糧の確保があったからでしょう。しかし、200年の官渡の戦いの際には、こうした環境下でも曹操軍は兵糧問題を抱えていました。曹操軍が四方に敵を抱え、戦争が続いたことも兵糧不足の大きな要因です。袁紹の幕僚である許攸が寝返ってきた際には一日分の兵糧しか残されていなかったといいます。屯田の効果がありながらも、かなりギリギリの中で曹操は兵糧のやり繰りしていたのです。

司馬懿の屯田

司馬懿の屯田

司馬懿の屯田

213年に司馬懿が新しい提案を行います。曹操はこの頃、江南の孫権と激しく武力衝突を繰り返していました。戦線は合肥です。司馬懿はこの交戦地域である淮河の流域で屯田の実施を提案したのです。許都の屯田と大きく異なるのは、耕地の開墾を行うのが兵士だということです。これを軍屯とも呼びます。流民などが行う屯田よりも生産性は高かったようです。これにより孫権との長期に渡る戦争にも兵糧面で不自由することはありませんでした。国境地帯での軍屯は合肥方面だけでなく、益州の劉備(玄徳)との国境地帯である関中でも実施されることになります。こうして魏は呉と蜀の二国を相手にしても問題ない兵糧を確保することができるようになりました。

呉と蜀もそれに習って屯田を始めます。呉は一般人民による屯田と軍屯を並行して実施しました。蜀では最前線の漢中において軍屯だけが実施されています。

戦乱の終結と屯田民の廃止

戦乱の終結と屯田民の廃止

戦乱の終結と屯田民の廃止

戦乱が落ち着いてくると屯田でも問題が浮上してきます。屯田は一般行政とは別で、軍によって管理されていました。その分、束縛も多かったということになります。兵役や労働役の免除は無視されるようになり、強制的に使役されるようになりました。屯田民の生産意欲は低下していくことになります。しかし課税率は高まる一方で、魏の時代の後半では七公三民、やがて八公二民となっています。もはや奴隷と同じような扱いといえるでしょう。屯田民の不満は益々募っていきます。魏の皇帝が司馬炎に皇帝を禅譲し、国を受け継いだ晋は、一般人民による屯田を廃止しました。屯田民は消滅したのです。軍屯だけは残されています。

領地の私有化を希望する豪族たちに、国が直接土地や民を統括する屯田制は受け入れられませんでした。晋は豪族連合の政権でしたので、屯田制が廃止されるのも自然な流れになります。こうして、公地公民の実現は唐の時代の均田制まで待つことになるのです。

屯田を提言した韓浩とは

屯田を提言した韓浩とは

屯田を提言した韓浩とは

曹操に屯田を勧めたのは棗祗だけではありません。韓浩もいます。こちらは三国志演義にも登場しますが、長沙郡の太守である韓玄の弟として紹介されています。そして黄忠に一騎打ちで討ち取られるだけの役回りです。三国志演義だけを読まれている方にとっては韓浩の活躍は信じられないでしょう。三国志正史では特に韓玄の兄弟とは紹介されていません。名声が高く、それを聞いた夏候惇に招かれます。呂布との戦いで夏候惇が捕縛されたときには、主将に代わって兵を率いて夏候惇の救出を成功させました。武勇だけでなく知略にも優れており、曹操からの信頼も厚かったようです。漢中を守る総大将に推薦もされていましたが、曹操はこの総大将の役には経験豊かな夏侯淵を選んでいます。三国志演義と三国志正史では描かれ方がまったく異なる人物ですね。韓浩は屯田の提言が認められ、護軍に昇進しています。

まとめ 屯田が歴史を分けた

まとめ 屯田が歴史を分けた

まとめ 屯田が歴史を分けた

荒廃した中原を本拠地にした曹操にとって屯田はまさに生命線となりました。その効果のおかげもあって、曹操は冀州、幽州、幷州、青州、徐州、豫州、荊州、雍州、涼州と支配地を拡大していくことができるようになったのです。もし屯田が採用されていなければ、極端な兵糧不足に陥った曹操軍は河北の袁紹軍に滅ぼされていたかもしれません。戦乱の時代の中で、屯田はとても効果的な手段だったといえるでしょう。





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