東興の戦いで戦功を挙げる
■ 東興の戦いで戦功を挙げる
東興の戦いで戦功を挙げる
丁奉は孫権の時代から仕えており、生年は不明ですが、甘寧や陸遜、潘璋らの元で属していたといわれており、甘寧の存命時である220年代には若くして各地の戦闘に参戦していたと見られています。丁奉は負傷しながらも将軍に出世するまでに至り、多くの武功を挙げていました。
孫権の死後、252年に後を継いだのが孫亮です。魏はこの機を逃さず、7万の大軍を以って呉へ攻めてきます。丁奉は呉の名臣だった諸葛瑾を父に持つ諸葛恪の指揮下に入り、戦の準備に取り掛かります。軍議では大将軍の諸葛恪が出陣するので周囲は魏軍が退却するのではないかと考えていましたが、丁奉は戦う姿勢を崩さずにいるように主張しています。
奇襲をしかけて成功
■ 奇襲をしかけて成功
奇襲をしかけて成功
東興の地では魏軍の襲来を予想して防衛陣が敷かれ、魏軍はなかなか攻めきれずにいました。丁奉は先鋒隊として長江の上流に向かい、魏軍の偵察に向かいます。冬とあって雪も降り、魏軍は寒さから陣中で宴会を催し、すっかり油断していました。
丁奉は一気に奇襲をかけ、襲来の備えをしなかった魏軍は大混乱に陥り、丁奉は敵陣を次々と撃破していきました。この東興の戦いで戦功を挙げた丁奉は滅寇将軍に任命されています。
魏の反乱で戦功を挙げていく丁奉
■ 魏の反乱で戦功を挙げていく丁奉
魏の反乱で戦功を挙げていく丁奉
魏では実権を握っていた司馬一族に反乱する勢力が続出し、255年にはカン丘倹と文欽が反乱を起こしています。しかし、司馬師が直接率いる魏軍は大軍で反乱軍を攻めたてて打ち破り、両者は呉への降伏を申し入れました。カン丘倹は逃走中に討たれますが、文欽は丁奉によって救出され、道中で魏の曹珍と戦います。反乱軍が壊滅すると国力に勝る魏に反抗する勢力が出てこなくなる恐れがあり、真っ向勝負しても呉は魏に対して到底勝ち目はありません。丁奉は自ら敵陣に突撃し、敵将兵をなぎ倒しながら引き揚げてきて、反乱軍の壊滅を防ぎました。
257年には諸葛誕が魏で反乱を起こしており、またも呉への服従を誓ってきました。魏は大軍を以って鎮圧に乗り出し、諸葛誕は完全に魏軍に包囲されてしまいました。とても救援には間に合わない状況でしたが、それでも丁奉は突撃隊長として配備され、多くの将兵をなぎ倒していき、さらに戦功を挙げていきます。
大将軍へと駆け上る
■ 大将軍へと駆け上る
大将軍へと駆け上る
皇帝の孫亮が同族の孫チンと対立し、孫休が即位します。しかし、権力を掌握したい孫チンは、孫休をないがしろにし、権勢を奮います。面白くない孫休は側近の張布に孫チン排除の策を練らせ、実行力を買われた丁奉は計画に参加しており、自身よりも大軍を率いている孫チンの暗殺計画に乗り気となります。
丁奉は慎重に事を運び、孫チンが参内するときを狙って捕え、配下に斬首を命じています。時の権力者となった孫チンを排除した孫休は、憂いが無くなったことから、丁奉を大将軍に任命しています。
大軍の指揮を執れるようになった丁奉ですが、情勢は芳しくなく、263年5月には、魏が大軍で蜀漢に侵攻し、三国の危機を感じて魏を牽制するように攻撃をけしかけます。しかし、蜀が魏に降服したために、退却せざるを得なくなってしまいます。
呉の滅亡前に死去
■ 呉の滅亡前に死去
呉の滅亡前に死去
蜀の滅亡を受けて慌ただしくなる呉ですが、皇帝の孫休が急死し、孫皓が擁立されました。名君として期待された若き孫皓に丁奉も当初は賛同していましたが、善政を敷いていた孫皓は次第に暴君として君臨し、呉を混乱に陥れていきます。
266年12月には、呉の大提督だった陸遜(伯言)の一族出身である陸凱が孫皓の廃位を計画し、丁奉も加担しますが、計画の最終部分で協力者を得られずにおり、実行することができませんでした。また、同年には魏が晋に変わり、司馬炎が皇帝に即位しています。丁奉は孫皓に表向き従い、高齢になっても晋に攻めており、司馬炎を中々手が出せませんでした。
丁奉は271年に死去しますが、その死は呉を大きく衰退させることになります。翌年には陸遜の次男で丁奉と双璧を成していた陸抗の奮闘により、晋軍を破ってはいますが、280年には遂に孫皓が降服して呉は滅亡してしまいました。
丁奉の貢献度は呉の名将たちと比較しても遜色ない
■ 丁奉の貢献度は呉の名将たちと比較しても遜色ない
丁奉の貢献度は呉の名将たちと比較しても遜色ない
丁奉は忠誠を誓う武将であり、呉の建国から4代の皇帝に仕えてきました。そのどの皇帝も丁奉を重宝しており、諌言などで処罰されることなく、長寿を全うして呉の存続に貢献してきました。周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜ら呉の大将軍級の武将たちよりも三国志での知名度は低い丁奉ですが、その貢献度は負けじと劣らず他国の脅威となっていたでしょう。
三国志演義での丁奉
■ 三国志演義での丁奉
三国志演義での丁奉
正史を元にした小説【三国志演義】では、丁奉は赤壁の戦いに登場しており、周瑜(公瑾)の配下として活躍しています。さすがに演義では蜀がメインで周瑜が諸葛亮(孔明)の引き立て役ということもあって、どちらかというと諸葛亮に翻弄される役目を担っています。
周瑜が諸葛亮に恐れをなして殺害を企て、丁奉は祭壇で東南の風を吹かせることに成功した諸葛亮の暗殺を実行しますが、直前に諸葛亮に逃亡させられています。また、周瑜の策略であり、劉備(玄徳)と孫権の妹である孫夫人との婚姻では、呉を訪れた劉備(玄徳)の捕縛にも失敗しています。
張遼を射殺する
■ 張遼を射殺する
張遼を射殺する
演義では失敗が目に付く丁奉ですが、活躍の場も当然あり、魏が大軍で侵攻してくると、徐盛の副将として参戦し、呉軍の奮闘で曹丕が退却する中、伏兵として潜んでいた丁奉は、曹丕を護衛していた魏の筆頭将軍といえる張遼(文遠)に弓矢を当ててケガをさせ、その矢傷が原因で張遼を死に追い込むという大手柄を立てています。丁奉は孫権の死後になると、正史同様に呉を代表する将軍として活躍しています。
民間伝説では諸葛亮をあと一歩まで追い込む
■ 民間伝説では諸葛亮をあと一歩まで追い込む
民間伝説では諸葛亮をあと一歩まで追い込む
一方、民間伝説によると、赤壁の戦いで東南の風を吹かした諸葛亮を追いかけ、丁奉は石のつぶてを投げて諸葛亮の船に命中させます。諸葛亮の待機していた部屋の真上に船の帆が落ちて覆いかぶさってしまい、護衛として迎えに来ていた趙雲が慌てて取り除いて船を脱してかろうじて逃げ出したとあります。
三国志晩年の英雄
■ 三国志晩年の英雄
三国志晩年の英雄
丁奉は弟も出世していますが、目立った活躍は記録に残っておらず、子孫もハッキリしていません。ほぼ一代での功績といえますが、呉の混乱期を救った将軍であり、三国志晩年に活躍した魏の鄧艾や蜀の姜維といった各地の英雄たちと同評価をされても遜色ない名武将といえるでしょう。