日本人に受け継がれた三国志の文化4選

日本人に受け継がれた三国志の文化4選

我が国日本と三国志の舞台中国は、古代より国同士の交わりがありました。そして、三国志の武将や軍師が中国全土の覇権を争っている間にも、日本と中国は国交を行い受け継がれた文化があります。


倭(日本)と中国の国交

倭(日本)と中国は古より国交があり、正式な国同士の交流が行われたことが物証として残されているものは小学校の歴史の授業でも学習する倭(日本)にかつて存在していた奴国の使者が持ち帰った「漢之倭之奴国王」という印字が刻まれている金印です。

この金印を授けたのは、前漢第7代皇帝。諡(おくりな)を武帝、氏名を劉徹という前漢最盛期を治めた偉大な皇帝です。
彼が行った泰山封禅に倭の奴国も参列し、多くの朝貢(貢物の献上)と引き換えに王侯に認める証として、使者に金印を与えました。この出来事はおおよそ紀元前100年ごろのことなので、三国志の時代に突入する250年以上も前の話です。この後約350年後には、邪馬台国の女王卑弥呼が、魏に使者を派遣して朝貢を行っており「親魏倭王」の称号と銅鏡約300枚を贈られたことが正史三国志の一部、魏志倭人伝に記録されています。さらに卑弥呼に「親魏倭王」の称号を与えたのが、魏の2代皇帝。諡は明帝、氏名を曹叡といいます。紛れもなく曹丕の長男にして曹操の孫であります。

金印を授かった年代から卑弥呼が「親魏倭王」の称号を与えられる間に、前漢が新へ政権交代したり、倭国大乱が起りましたが、その期間を除けば商業的、あるいは軍事的な理由でなんらかの国交を行っており、次のような文化が日本にもたらされました。

文化1.鷹狩り

鷹狩りは、飼いならした鷹を使役して哺乳類の獣を狩猟する方法ですが、鷹が獲物を発見し捕らえた後、人間が獲物と用意していたエサをすり替える必要があり、鷹が飼い主の元まで獲物を持ってこさせるという俗説は誤りです。
そしてこの「鷹狩り」という狩りは時代が進むにつれて狩猟という行為ではなく、権威を誇示する手段に使われました。皇帝や王侯が好んで鷹狩りを行ったのは、飼育が困難で、食費がかかる一見無駄とも思えるようなことを平気でできる財力がある。勢子(獲物を追いかける役割の人や兵士)と猛禽類を使役していることをアピールすることによって、「私は偉いんだ!!」ということを家臣や民に見せつけていたという訳なのです。
三国志とほぼ同時期にあたる弥生時代末期~古墳時代の天皇陵からは、鷹を腕に乗せた豪族の土偶や鷹のはにわが出土しており、三国志の時代かそれより少し遅れて中国から日本へと鷹狩りが伝来していたことがわかります。

文化2.名刺

1984年6月、中国史と日本史を震撼させる発見されました。安徽省馬鞍山市でとある紡績会社が自社工場を拡大させるため、拡張工事をしているときに偶然にも三国志に登場する偉人の墳墓を発掘しました。その人物の名は朱然。あまりピンと来ていない方のために簡単に解説すると、朱然は呂蒙に仕えていた武将で関羽を捕縛した張本人です。演義では、関羽の弔い合戦である?亭(おうてい)の戦いで趙雲と戦った末に殺害されていることになっていますが、これはフィクションで朱然は史実ではこの戦いの後も数々の戦で戦功をあげ、呂蒙亡きあとは呉の武将のトップに君臨し、68歳で病死しています。その朱然の墳墓から陶器、漆器、銅器、生活用品などがほぼ完全な状態で140点あまり出土したのです。
その中のひとつに名刺と思われる板が2枚発見されました。名刺には大型の「謁(えつ)」と細くて薄い「刺(し)」の2種類があり、謁には「持節右軍師左大司馬当陽侯朱然拝」、刺には「丹陽朱然再拝 問起居 故?字義封」と姓名、官位役職名、出身地、挨拶文が墨書されていました。
刺に描かれている「問起居」は日本語に直訳すると「起居を問う」になり、「ごきげんいかが?」という意味になります。この名刺があったおかげで墳墓が朱然のものであるとわかった訳でありますが、名刺がどのような場面で用いられていたのかといいますと、外交官が他国の王や大臣に謁見する際や仕官するときに採用担当官に見せていたとする記述が、正史三国志に見られます。

おそらく諸葛亮が赤壁大戦前に呉の陣営で説き伏せたときや魯粛が孫策に謁見したときにも懐中に名刺を携えていたかも知れません。

文化3.下駄

朱然の遺体と一緒に埋葬された副葬品の中には、生活用品も埋められていました。その中のひとつに江戸時代の女性が履いていた下駄に酷似した漆塗りの履物が発掘されました。なんと呉の人々は下駄を履いて生活していたのです。
考古学者たちの考察では、下駄履きが呉で普及していたのは地理的要因があるとされています。呉は中国大陸の右下に位置しており、東側は日本海に面し、内陸部では水稲耕作が行われていました。布や皮で作られた靴や藁を編んで作る草履よりも下駄のほうが、濡れてもすぐに乾くし泥や汚れを取り除くのも容易なため、漁業や水田での仕事をするのに向いていたのでしょう。
頻繁に水に濡れることを考慮し、風化や腐食を防ぐため、下駄に漆を塗っていたのではないかと考えられます。

文化4.呉服(和服)

三井や住友など財閥となった大企業はもともと呉服屋さんでした。呉服屋と言えば時代劇などでよく見かけますが、和服の販売、制作、修理をするお店です。あなたはなぜ和服を販売するお店が呉服屋と呼ばれていたのかご存知でしょうか?
それは呉が開発した機織り技術で紡いだ布を使って、呉の裁縫技術で服を作り販売していたからなのです。つまり呉の孫権や孫夫人は、江戸時代の日本人と同じように下駄を履き、和服を着用して生活していたということです。

清朝末期に日本に亡命してきた民族主義の革命家である章炳麟(しょうへいりん)は、いつも和服を着用し、下駄を履いて外出していたので、ある人に「君はなぜ民族主義者なのに日本人のマネをするんだい?」と注意をされたことがありました。しかし、章炳麟はこのおとがめに対し「なに、これは呉服と言ってもともとは中国の服だよ。日本人が中国人のマネをしているのさ」と言って取り合わなかったそうです。この頃の中国人はキョンシーやベビースターラーメンのキャラクターのような服を着て、辮髪(べんぱつ)を結っているのが大半でした。そのため、章炳麟の回答を周りの中国人は信じていませんでしたが、彼の言うことは本当だったのです。

まとめ

朱然の墳墓が発見され、その副葬品から呉の人々の生活スタイルがわかるようになりました。また、日本独自の技術だと認識されていたものが中国から伝来していたこともわかり、いかに日本の文化が中国の影響を受けているかをうかがうことができます。
三国志に登場する武将や軍師もサラリーマンのように名刺交換をしたり、江戸時代の男女のように下駄をコロコロさせながら市場で買い物をしていたのかもしれません。

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