イメージ崩壊計画(1)~劉備(玄徳)は本当に理想の君主像なのか?~

イメージ崩壊計画(1)~劉備(玄徳)は本当に理想の君主像なのか?~

劉備(玄徳)についてどんなイメージを持っていますか?タイトルの通りこの記事では、そのイメージをひっくり返す情報を提供します。第1回目は三国志演義前半の主人公である劉備です。


一般的な劉備(玄徳)のイメージ

一般的な劉備(玄徳)のイメージ

一般的な劉備(玄徳)のイメージ

あなたはは劉備(玄徳)についてどんなイメージを持っていますか?
一般的には「泣いて天下を獲った」、「謙虚で徳の高い人」、「やさしいおじさん」などプラスイメージが定着しています。
漫画やドラマ、小説では冷酷な曹操や短気な孫権に比べると根っからのいい人、理想の君主像として描かれています。ところが、史実の劉備(玄徳)はそんなに仏のような人物ではないそうです。

幼い頃から既に野望を抱いていた

幼い頃から既に野望を抱いていた

幼い頃から既に野望を抱いていた

劉備(玄徳)がまだ幼い少年だったころ、彼の故郷の?県へ天子による巡行の行列が訪れました。
巡行とは、皇帝が自ら地方の状況や人々の暮らしぶりを確かめるために領地内を巡回することで、秦の始皇帝が始めた国事行事です。さらに「皇帝の威厳を示す」という目的もあったので、この行列には大臣、官僚、医官、僧侶、女官や皇族までもが随行し、莫大な費用と労力を要しました。

それにこの巡行は庶民にとってはありがた迷惑な行事で、皇帝が通る道をふさいではいけない。庶民は路肩に避けて歓迎しなければならないなど、変なルールが確立してしまいました。そしてもし、行列の行く手を遮ろうとすれば処罰の対象となります。また、暗君の場合は路上に倒れている身体が不自由な人を轢き殺すこともあったそうです。

この行列に遭遇した劉備(玄徳)は母親と叔父と一緒に路肩で見物していました。
皇帝が乗る馬車はどこの王侯、貴族よりも豪華な装飾が施されているのでひと目でそれがわかります。まだ幼かった劉備(玄徳)少年はとても危険な発言をしました。

「母ちゃん、オイラもいつかはあの馬車に乗って見せる!!」

劉備(玄徳)少年の大胆発言に周りの大人たちは一斉に振り向き、苦笑いを浮かべる者までいました。驚いた劉備(玄徳)の叔父は慌てて劉備の口をふさぎ、人気のない場所へ連れて行きました。

劉備(玄徳)のこの発した「あの馬車に乗る」は「皇帝になる(漢を乗っ取る)」という意味があります。だから劉備(玄徳)の叔父と母親は慌てていたのです。これより約半世紀後、劉備(玄徳)はこのときの願望を達成するのですが、母親も叔父も既に他界しており、その姿を見せることはできませんでした。

学生時代は劣等生

学生時代は劣等生

学生時代は劣等生

劉備(玄徳)は15歳になると清純派の名士として有名な蘆植の門下生となりました。蘆植は劉備(玄徳)と同じ涿県の出身で、その門下生には公孫瓉もおり、公孫瓉は劉備(玄徳)の兄弟子にあたります。黄巾族討伐の際は、このときの縁を頼って公孫瓉配下の将として加わりますが、それは後の話です。

実は劉備(玄徳)、学問はそれほど得意ではなかったようで講義はあまり真面目に受けていなかったようです。学生としては劣っていたものの、元来の気さくで温厚な性格で人々からの人望が厚く、酒場や賭場でたむろするようなならず者からガリ勉タイプの知識人までが劉備(玄徳)と友達になることを望んだといいます。
劉備(玄徳)は蘆植の門下生の中では苦学生に分類されていたらしく、学費と称して叔父に呑み代をたかっていたり、良く通る声を活かして市場や料理屋の呼び込みバイトなどをして小銭を稼いだ経験もあるそうです。

監察官を鞭打ちする

監察官を鞭打ちする

監察官を鞭打ちする

劉備(玄徳)が義勇軍とともに黄巾軍と戦ってようやく得たものは安喜県の県尉(警察署長)でした。しかもこの仕事は名ばかりで監察官に賄賂を贈らないと就業を維持することができませんでした。
劉備(玄徳)が就任してしばらくすると監察官が監査という名目で賄賂徴収に来ました。演義では、賄賂を要求してくるこの男を張飛が怒って馬を繋ぐ柱に縛り付け、鞭でボコボコに殴りつけるのですが、史実ではこの乱暴を働いたのは劉備(玄徳)で、関羽と張飛はこれを制止しようとしていたとされています。
劉備(玄徳)はそれだけでなく、ぐったりした監察官の首に巾着に入れた官印をぶら下げ、額に辞職願を貼りつけて逃走したそうです。

家族を見捨てること3度

家族を見捨てること3度

家族を見捨てること3度

たいていの父親は、自分の妻や子供、いわゆる家族のために粉骨砕身働きます。家臣や仲間を家族のように大切に扱う劉備(玄徳)ですが、自分の家族はあまり大切にしていない言動が目立ちます。実際劉備(玄徳)は3度も家族を置き去りにして、単身で逃走しています。

1度目 呂布に徐州を簒奪されたとき

1度目 呂布に徐州を簒奪されたとき

1度目 呂布に徐州を簒奪されたとき

劉備(玄徳)が家族を置いて逃げることになった1度目の事件は呂布による徐州簒奪です。陶謙より徐州牧を引き継いだ劉備(玄徳)は、いてつく島もなかった呂布が居候することを受け入れ、留守の間に奪われるという惨劇に見舞われます。このとき、劉備(玄徳)の正妻と長男も人質となってしまいます。追い返された劉備(玄徳)は家族を置いたまま小沛に逃げ落ちます。
これは不可抗力なので仕方がないのですが、もう少し真面目に戦うべきではないかな?と個人的に思いました。小沛でひと段落した劉備(玄徳)は呂布に和睦を申し入れて代わりに妻と長男を返してもらいました。

2度目 呂布の反撃

2度目 呂布の反撃

2度目 呂布の反撃

劉備(玄徳)は徐州を取り戻そうと攻撃しますが、呂布の反撃にあいます。小沛に逃げ込んでも猛追撃を受け、劉備(玄徳)は敗走するのですが、家族は置き去りにしたまま。妻と長男はまた呂布の人質にされました。人質になった劉備(玄徳)の妻と長男はこれ以降登場しないので、この後処刑されたか自害していたと思われます。

3度目 長坂の戦い

3度目 長坂の戦い

3度目 長坂の戦い

長坂の戦いの際、劉備(玄徳)だけでなく随行していた避難民たちも曹操の猛追撃を受けて家族と散り散りに逃走しました。劉備も自分が逃げるのに必死で、二人の夫人と阿斗(後の劉禅)とはぐれてしまいました。しかし、運よく趙雲が夫人ひとりと阿斗を救出することに成功しました。

ホラ吹きの才能は天下一品

ホラ吹きの才能は天下一品

ホラ吹きの才能は天下一品

劉備(玄徳)は若かりしころ、ホラ吹き上手(嘘をつくのが上手い)と言われていました。その能力はむしろ売りをしていたころに磨かれたそうです。とにかく嘘をついてでもなるべく好条件で雇ってもらったり、お客さんが買いたくなるようなキャッチコピーで宣伝しなければならないので、ホラ吹き上手というよりセールスが上手いといった方が妥当だと思います。
劉備(玄徳)が売り物としていたのはむしろやわらじですが、一定の需要はあるもののバカ売れするような商品ではありませんでした。涿県の市場では誰でも出店することができるのですが、売り物も似たり寄ったりで呼び込みがある程度うまくいかなければ、商品の売れ残りが出てしまいます。劉備(玄徳)は精肉や魚を売っているような屋台の主人と仲良くなって自分の商品が売り切れになったり、需要がなさそうなときは率先して手伝っていたそうです。

劉備(玄徳)のキャッチセールス

劉備(玄徳)のキャッチセールス

劉備(玄徳)のキャッチセールス

劉備(玄徳)の隣で肉を売る屋台の主人は口下手な男で、正直売れない肉屋でした。それを見かねた劉備(玄徳)が、
「オヤジ!!あんまり調子よくなさそうだね。オレが呼び込み手伝うからオレと母ちゃんが食える分の肉を分けとくれよ」と交渉しました。
主人がこれに承諾すると、いよいよ劉備(玄徳)はよく通る声でホラ吹きを発揮します。

劉備 「さーさー、おいしい肉はいらんかね?みんなが欲しい肉はここにあるよ!、そこのご婦人
    あいや待たれい!」
婦人 「なにさ、あたし忙しいんだよ」
劉備 「ご婦人のとこは坊ちゃんがいるかい?」
婦人 「うちは息子が3人いるよ」
劉備 「ご婦人、やっぱ親なら坊ちゃんに大きくなって欲しいと思わんか?」
婦人 「そうだね。やっぱ男だから丈夫な子には育ってほしいと思うけど…」
劉備 「じゃあ、ご婦人ここの肉をおススメするよ~!オレはここの肉を食って大きくなったんだ
   (もちろん嘘)」
婦人 「たしかに、あんた身体が大きいね!!」
劉備 「おうよ!!ここの肉を食えば…ホレこの通り。オレみたいな丈夫な男に育っちゃうよ~、
    さあさあ買った買った!!」
婦人 「そうね、じゃあ1斤買っていこうかしら…」
劉備 「ありがとう!!でもご婦人それじゃあちょっと足りないんじゃないかい?あんたのとこ男
    3人いるんだろ?思い切って1人1斤、3人分で3斤買って食わせてやろうぜ」
婦人 「そうね…たしかに1斤じゃすぐになくなるし…あんたのいう通りにするよ」

こういう調子で女性をターゲットにした呼び込みや自分のでかい図体を活かしたキャッチセールスをしていたらしいです。劉備(玄徳)が店の手伝いをすると必ず完売するという具合でした。それだけ交渉したり、人の気分がよくなることを口にするのが得意だったのではないかと思います。

一般的な劉備像は羅貫中の策に溺れている

一般的な劉備像は羅貫中の策に溺れている

一般的な劉備像は羅貫中の策に溺れている

いかがでしたでしょうか?
きっと劉備(玄徳)に対するイメージに変化があったと思います。三国志演義を著作した羅貫中は、蜀漢をよく見せるために蜀にとって悪いことは書かなかったり、張飛に罪をなすりつけたり、孫呉の手柄をさも諸葛亮がやったというように挿げ替えています。劉備(玄徳)とて人間なので、長所もあれば短所もあります。

劉備(玄徳)のことを仏様のようなリーダーだという観念があるのなら、それは羅貫中の策に溺れているのです。





この記事の三国志ライター

関連するキーワード


劉備(玄徳)

関連する投稿


女性目線から見た「関雲長」曹操と関羽

関羽、男として魅力的。義の人、一騎当千。曹操、悪党のイメージ強いです(泣)。策略家、女好き、等関羽に比べあまり印象が良くないです。この二人を主人公にした映画から、曹操の片思いに重点を置いて観てみようというこの企画。宜しかったら最後までお付きお願いします。


【三国志の歴史を変えた!?】孔明と劉備(玄徳)の出会い三顧の礼とは

三国志は魏・蜀・呉の三つの国が戦いを繰り広げた物語です。この三国の戦いには歴史の分岐点となる事件がいくつもありますが、今回は蜀の天才軍師・諸葛孔明と三国志の主人公・劉備(玄徳)。彼らは一体どのようにして出会うことになったのでしょうか。そして二人が出会うことによって歴史はどのように変化したのでしょうか。


【武将考察】趙雲、決死の阿斗救出劇-長坂の戦い

【武将考察】シリーズの第1回。長坂の戦いでの趙雲の活躍とそこから見えてくる趙雲の性格などについて考察します。


英雄たちの物語はここから始まった!「桃園の誓い」とは?

三国志は今から約1800年前、昔の中国の史実です。(史実を元にした小説でもあります。)役人のわいろなどが横行し、治安の乱れた世を正そうと同じ志を持った若者3人が出合うところから三国志ははじまります。この出会いのシーンで最も有名なのが「桃園の誓い」なのです。


まるでコント!語り継がれてきた 桃園の誓い 三兄弟の姿とは?

『三国志演義』には作者・羅貫中の創作がさまざま盛り込まれており、劉備(玄徳と関羽、張飛の3人が志を確かめ合い、義兄弟の契りを交わす“桃園の誓い”もそのひとつ。羅貫中は民間伝承も参考にしたそうなのですが……。さて、桃園の誓い、桃園三兄弟は中国の人々の間でどのように語り継がれてきたのでしょうか?


最新の投稿


三国志ってなんなのさ? 魏・呉・蜀って世界史で学んだような?

『三国志』は、後漢末期から三国時代にかけての中国大陸を舞台に、魏・呉・蜀の三国が覇権を争う壮大なドラマと言えます。 その魅力を伝えたい。なぜ、魅力があるのか考えながら解説していきます。


”匈奴”草原を風のように駆け抜け帝国を震え上がらせた遊牧の戦士

想像してみてよ。広大なモンゴル高原を、風のように馬を駆け巡る人々がいたんだ。彼らは「匈奴(きょうど)」って呼ばれる遊牧騎馬民族。時は紀元前3世紀末から後1世紀末。彼らの暮らしはまるで大地と一体化したようで、馬と共に移動しながら生きていた。その姿は勇猛果敢で、各地の国々を相手に壮絶なバトルを繰り広げていたんだよ。


キングダム 蒙恬の死因とは? その真実に迫る

蒙恬は、コミック、キングダムにおいて主人公・信と同世代の武将であり、名門武家の出身でありながら、飄々とした性格で周囲を和ませる一方、戦場では冷静沈着な指揮官として才能を発揮。楽華隊、その旗印である「楽」の文字通り、戦場においてもどこか余裕を感じさせる姿は、多くのファンを魅了しています。史実では?死因は?興味あり。


キングダム 李牧 の史実を知りたくなった方、必見!

キングダムの李牧の活躍シーンを見て、その圧倒的な存在感に心を奪われた経験はありませんか? 趙の名将・李牧は、作品の中でも特に印象的な人物として多くのファンの心を掴んでいます。漫画やアニメ、映画で 李牧 の活躍を追っている人も少なくないでしょう。最強の知将として知られる李牧の人物像をご紹介します。


秦の始皇帝の時代、李信 の実像と影響

李信(りしん)は、中国春秋戦国時代末期の秦国で活躍した将軍で、秦の始皇帝(秦王政)の下で多くの戦役を指揮しました。彼の正確な生没年は不明ですが、紀元前3世紀の秦の統一戦争で中心的な役割を果たしました。『史記』においては、「若く勇壮で、軍事的才能があった」と記されており、特にその若さと大胆さが目立った人物として描かれ


アクセスランキング


>>総合人気ランキング