三国志の英雄・曹操の汚点となった徐州大虐殺の真相は?

三国志の英雄・曹操の汚点となった徐州大虐殺の真相は?

三国志の主役・曹操の汚点ともいわれる「徐州大虐殺」。これにより諸葛亮や魯粛などの徐州出身者に生涯恨まれることになります。果たして曹操はなぜ徐州大虐殺を行ったのでしょうか。その真相に迫ります。


曹操の祖父曹騰と父親曹嵩

曹操、字は孟徳。宦官である曹騰の孫です。宦官は子を作れませんから養子に曹操の父となる曹嵩を迎えていました。曹操は曹嵩の実子ですが、曹騰と曹操には血のつながりはありません。
曹騰は宦官の中でもかなりの権力を持った人物で、中常侍・大長秋という官位に長くいたとされています。宦官の中でもトップクラスの実力者ということになります。よって、その孫である曹操は人脈・財力ともに初めから有利な位置にいたことになるのです。ちなみに父の曹嵩もこのコネと一億銭に及ぶ賄賂を使って三公の太尉に任ぜられています。
名士といえば四世三公を輩出した袁家ばかりに目がいきがちですが、曹操もまた立派なところの御坊ちゃまです。
ただし宦官の家柄であるということは後々まで曹操のコンプレックスになります。

治世の能臣、乱世の奸雄

曹操は恵まれた環境に育っていましたが、真面目な優等生というより、その真逆で、素行不良の問題児でした。お金持ちの不良は厄介です。恐ろしく頭も切れます。
当時の太尉であった橋玄は曹操の機知に触れ、「天下をよく安んずるのはお前だ」と評価していますし、有名な人物鑑定家だった許劭は「キミは治世の能臣、乱世の奸雄だね」と評しています。このフレーズは曹操も相当気に入ったようです。
とにかく、その道の第一人者が認めるほどの才能と素質を持っていたのが曹操なのです。
汚職が横行し、漢王朝は乱れに乱れていました。さらに外戚と宦官が政争劇を繰り返しており、誰も本腰を入れて民衆のための政治を行いません。やがて各地で反乱が起こり始めます。多くの人が漢王朝終焉の予感に震えていたことでしょう。その中で曹操は乱世が来たと、武者震いしていたのです。

曹操の出世

20歳で孝廉に推挙され、洛陽北部尉として徹底的に法を遵守して有名になり、頓丘県令、議郎、騎都尉、そして黄巾の乱を治めた後は皇帝直属軍の指揮をする西園八校尉に任命されています。友である袁紹もまた西園八校尉でした。
董卓が朝廷を掌握してからは故郷に戻り反乱軍を率いています。世にいう「反董卓連合」ですね。私兵の数も少なく、ここでは大きな活躍もできずに徐栄に敗れ撤退しています。
その後、兗州東郡の太守に任命されます。正規軍を組織するようになったのはこれからのことです。当時の兗州の刺史は同じ反董卓連合に名を連ねていた劉岱です。この一帯は黄河を挟んで北に広がる冀州の牧、袁紹と同盟を結んでいます。曹操も袁紹の上奏のおかげで太守になれたのです。冀州、兗州は袁紹の勢力下にあったといえます。

袁紹VS袁術

実はこの袁紹には対立グループがありました。それが同門である袁術です。袁紹と袁術は、袁家当主が董卓に虐殺されたために宙ぶらりんとなった家督を巡って争います。洛陽にいた袁家一門衆がことごとく殺されており、家督相続を決める人間もいなかったのです。互いに自分であると主張します。
袁紹は劉岱や劉表、曹操などを抱き込んで一大勢力を築きました。
対立する袁術もまた最北の雄である公孫瓚、徐州の陶謙と手を結びました。
192年、そんな中で発生したのが、青州における黄巾の残党による反乱です。戦闘員30万人、信徒合せて100万人という大規模な反乱でした。青州に発したこの反乱軍は隣州となる兗州に攻め込みます。兗州の官兵と青州の反乱軍の衝突がここに始まるのです。

青州の反乱軍との死闘

兗州刺史・劉岱のもとに兗州各地の将兵が集まってきます。済北国の相である鮑信は猛勇で知られてはいましたが、敵の数が多すぎるため籠城を提案します。しかし劉岱は討伐軍を従えて城を出て戦死してしまいます。鮑信は新しい兗州のリーダーに曹操を迎えます。
曹操は兗州牧となり反乱軍と死闘を繰り広げます。曹操自身が討ち死にする寸前の危機も訪れましたが、鮑信が自分の命を捨てて救出してくれたために命拾いしています。
激戦に次ぐ激戦の末、曹操と青州の反乱軍の間に和睦が結ばれます。非戦闘員に土地を与えて住むことを認める代わりに、戦闘員は曹操に手を貸すという内容でした。これは曹操が生きている間のみに限定していたようで、後に曹操が病没した際にはその鐘を聞いて彼らは契約が終了したことを知り、曹操軍を去っています。
これにより曹操の兵力は比較できないほどに大きなものになります。このとき加わった青州の戦闘員を「青州兵」と呼ぶのです。

匡亭の戦い

193年、対立するグループ同士の武力衝突が始まります。
荊州南陽に本拠地を持っていた袁術が兗州の曹操に襲い掛かったのです。同時に動いたのが公孫瓚と陶謙です。曹操は袁紹や劉表に援軍を要請します。
結果は袁紹・曹操側の圧勝に終わりました。恐らく袁術は曹操軍がここまで強化されていたことを知らなかったのでしょう。
青州兵は味方兵士からの略奪も黙認されていたほどの暴勇を誇っており、死を恐れぬ精鋭揃いでした。
袁術は逆に本拠地を劉表に落とされ、仕方なく揚州の寿春に落ち延びていきました。公孫瓚は客将の劉備(玄徳)に兵を率いさせて陶謙と共に兗州を攻めたようですが、敗北しています。
袁術らが描いたシナリオはこのようなものだったのではないでしょうか。
青州の反乱軍が兗州に攻め込み兗州は大混乱に陥る。その隙を突いて袁術・公孫瓚・陶謙軍が兗州を占領。さらに残った冀州の袁紹を亡ぼす。
しかし曹操の死力を尽くした健闘により青州の反乱軍は曹操に吸収されていました。
曹操の急成長は、誰も予想していなかった奇跡の展開だったのです。

まとめ・徐州大虐殺

直後に曹操の父親である曹嵩が徐州の兵に殺される事件が起こります。
曹操はほぼ全軍をもって徐州を攻めることになるのです。怒り狂った曹操は侵攻する村々の住民を虐殺しました。「死者は万を数え、その死体で河が堰き止められた」と正史には書かれています。青州兵はこのような戦いぶりを喜んだことでしょう。
そもそも曹操は父親の敵討ちのためだけに兵をあげたのでしょうか。
青州の反乱軍は南下して徐州を攻めることもできました。しかし兗州を攻めたのです。裏で陶謙が青州に反乱軍に兵量を供給していたという話もあります。
そのために曹操自身も戦死するところでしたし、多くの仲間が死んでいます。さらに陶謙はその隙を見て兗州に侵略するために兵を送っているのです。
曹操が陶謙に殺意以上の憎しみを抱いても不思議な話ではありません。
もちろん曹操の行為を正当化するつもりはありませんが、そこには私たちが知らない重大な理由があったのではないでしょうか。少なくとも陶謙とはなかなか狡猾な男だったはずです。曹操だけに非があったのでしょうか。

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