宦官がとっても嫌われた時代
■ 宦官がとっても嫌われた時代
宦官がとっても嫌われた時代
正史「三国志」で曹操について記述しているのは、魏書「武帝紀」というところです(曹操は魏の「太祖武帝」としてあつかわれています)。その冒頭部分では曹操の血筋についても触れていますが、そこにはこんな記述があります。
漢の相国 参の後(すえ)なり。
曹操は、漢の宰相をつとめた曹参(そうさん)の末裔であるというのです。
正直なところ、姓が同じだからといって、本当に曹参の流れをくむ家柄なのかは、なんともいえません。権力者が自分にハクをつけるため、自分の家柄を立派なものに偽るのは、よくあることだからです。
(ちなみに日本でも、織田信長は平氏、徳川家康は源氏の血筋だと称していました)
それ以上に注目されるのは、曹操の祖父・曹騰(そうとう)の存在です。彼が高位の宦官(かんがん)であったことが、色々な意味で曹操に影響を与えたのは間違いないからです。
宦官とは、性器を切除して皇帝に仕える男性役人のことで、主に皇帝一家の身の回りの世話などをする存在です。しかし宦官のなかには皇帝に近い立場を利用して、権力を欲したり、賄賂を受けて金儲けをする人間がたくさん現れました。特に後漢の時代は、宦官による政治の混乱がはなはだしい時代でした。
宦官は性器を切り落としているうえ、政治を私物化することが多かったため、人々にさげすまれる存在でもあったのです。
「宦官の頂点に立った」祖父・曹騰
■ 「宦官の頂点に立った」祖父・曹騰
「宦官の頂点に立った」祖父・曹騰
いかなる事情からか、曹騰は少年時代に宦官となりました。そして当時皇太子だった順帝のお気に入りの学友となり、以後宮中で重んじられる存在となったのです。
曹騰を引き立てた順帝は、宦官のおかげで即位できたこともあり、宦官を非常に優遇しました。彼は(それまで禁止されていた)宦官が養子を取ることや、遺産を相続させる事を認めたのです。こうした措置によって、後漢時代の宦官の権勢が高まり、宦官が政治を混乱させる一因となったといわれています。
そんな「宦官優位」の時代にあって、曹騰は中常侍(ちゅうじょうじ)や大長秋(だいちょうしゅう)といった、宦官としては最高レベルの役職にまでのぼりつめました。そして桓帝(かんてい)が即位する際は、宮中で策謀をめぐらせてそれを後押ししています。この手柄もあって、曹騰は功臣のみに与えられる特進(とくしん)というくらいを授かりました。宦官としては地位も名誉も極めた人物といっていいでしょう。
宦官が優位の時代ですので、彼らは後漢王朝の人事にも影響力を行使できました。この権勢を生かし、出世を望む者からワイロを取ったりする宦官もいましたが……曹騰は国の役に立つ人材を、積極的に引き立てたといいます。特に朝廷で高位に上った張温(ちょうおん/注)や、異民族との戦いで活躍した張奐(ちょうかん/注)らを推挙したのは、注目すべき点です。
またあるとき、曹騰を告発しようとした人物が現れました。このときも曹騰は告発者に腹を立てることなく、「官人としての正しい道を心得ている」と、むしろ高く評価したといいます。以上のエピソードからは、私利私欲をむさぼる宦官のイメージとは真逆の、「国に尽くす、度量の大きい人間像」が浮かび上がってきます。
(注)張温(ちょうおん)……後漢末の政治家。司空・太尉といった高官を歴任した。涼州での反乱鎮圧に司令官として出陣するが、十分な成果はあげられなかった。後に不仲だった董卓により処刑される。(注)張奐(ちょうかん)……後漢末、辺境地域での異民族対策で活躍した武将。巧みな戦術で勝利を重ね、異民族に畏怖された。権力闘争・党錮の禁(とうこのきん)では、その武力を宦官に利用された。
もちろん曹騰は、三国志の英雄である曹操の祖父なのですから、史書によっては功績が大げさに書いてある部分があるのかもしれません。それでも長きにわたって失脚することなく宮中で仕え、宦官の最高位にまでのぼったのですから、それなりの人物だったのは間違いないでしょう。
「どこから来たのか分からない男」父・曹嵩
■ 「どこから来たのか分からない男」父・曹嵩
「どこから来たのか分からない男」父・曹嵩
この曹騰の子が、曹操の父に当たる曹嵩(そうすう)です。
とはいっても、曹騰は性器を切除した宦官ですから、子供を作る事はできません。そこで曹嵩を養子に迎えたのです(先に述べたように、順帝の時代から宦官も養子を取ることが許されていました)。
では、曹嵩はどこから養子に来たのでしょうか? 三国志を執筆した陳寿は、彼の出自について「はっきりした事は分からない」と記しています。ただ一説には、曹嵩は夏侯(かこう)氏から養子に来た男で、後に魏の名将となる夏侯惇(かこうとん)の叔父にあたる―――とも言われています。
しかし中国には古くから「異姓不養」(いせいふよう/注)という考え方がありました。つまりは「姓のちがう家から、養子を迎えてはならない」という暗黙のルールがあったのです。
(注)異姓不養(いせいふよう)……異姓の者(祖先が異なる者)を養子にしてはならないという、中国の社会通念上の原則。「祖先の祭祀(さいし/祖先を祭ること)を継がせるためには、祖先を同じくする男系の血族でなくてはならない」という考え方に基づいている。
もし曹騰が、姓のちがう「夏侯氏」から養子を迎えたとすれば、当時の社会通念からするとタブーを犯したことになります。そんなタブーを犯してまで、わざわざ夏侯氏から養子をもらう理由があるのか……こう考えると、曹嵩は本当に夏侯氏の出身なのか、疑問を抱かざるを得ません。
曹嵩については、これといった政治的業績が記録されていませんが、慎み深い真面目な性格で、忠孝(主君への忠誠と親への孝行)を重んじる人物だったと記録されています。しかし……曹嵩という人は、そんな無難な説明ではおさまらない面も持っていたのです。
以上、曹操の祖父・曹騰と、父・曹嵩について、簡単に見てまいりました。
祖父・曹騰が宦官の大物であったことは、その後の曹操の人生にいろんな形でついてまわります。この項でも、そのつどご紹介していきたく思います。
さて次回は、父・曹嵩のエピソードを、もう少しお話しいたしましょう。