【男が惚れる男】ってどんな人物だろう

【男が惚れる男】ってどんな人物だろう

三国志の中では、【男が惚れる男】というのが定着化しています。しかし、そのような男性は女性でも惚れる要素が間違いないといった人物でもあります。義理堅く、主君や国の為に殉じた武将や家族を守るために戦った武将、己の野望を満たすだけに剣をふるった豪傑など、武将ごとに人を惹きつけるドラマがあります。


【惚れる男】は有名な武将であることが多い

【惚れる男】は有名な武将であることが多い

【惚れる男】は有名な武将であることが多い

【惚れる男】というくらいですので、時代が古い三国志において、登場人物の模写がはっきりと描かれていないと判断できません。多くの三国志ファンは、歴史書・演義(小説)・漫画・ゲームなどでその登場人物を好きになっていきます。

三国志で活躍した武将ほど模写が多いので、惚れる要素も高まります。必然的に有名な武将ほど【惚れる男】になっていますのでその代表的な三人【劉備(玄徳)】【趙雲】【馬超】を順にみていきましょう。

人を大事にした三国志の英雄【劉備(玄徳)】

人を大事にした三国志の英雄【劉備(玄徳)】

人を大事にした三国志の英雄【劉備(玄徳)】

三国志の主役的存在であり、同時代に最も力を付けた曹操(ソウソウ155年―220年)に対して、ライバルとして描かれているのが劉備(リュウビ 161年―223年)です。三国志の文献には必ず登場しており、三国志=劉備(玄徳)という図式が成り立つほど有名な人物です。

劉備(玄徳)は皇帝一族の血を受け継いでおり、すでに没落していた漢王朝を救おうと立ち上がります。当時は民衆の大規模なクーデターである黄巾の乱が勃発しており、劉備(玄徳)は義勇軍を率いて戦っていました。

身分で人を差別しない劉備(玄徳)

身分で人を差別しない劉備(玄徳)

身分で人を差別しない劉備(玄徳)

劉備(玄徳)の配下には義勇軍の立ち上げ当初から関羽(カンウ 生年不明―220年)・張飛(チョウヒ 生年不明―221年)といった豪傑が加わりました。若き日の劉備(玄徳)は負け戦も多く経験しています。呂布(リョフ 生年不明―198年)や曹操(ソウソウ 155年―220年)には何度も苦戦を強いられており、晩年には呉の陸遜(リクソン 183年―245年)を相手に惨敗しています。

しかし、劉備(玄徳)には常に優秀な配下が多く揃いました。その理由として人を身分で差別せず、民には経済的な恩恵を受けられるように配慮し、善政を行っていたからです。

恩を感じてチャンスを逃す

恩を感じてチャンスを逃す

恩を感じてチャンスを逃す

劉備(玄徳)が曹操の脅威を恐れ、201年に荊州の劉表を頼ることになります。劉表から新野城を与えられた劉備(玄徳)には多くの人が集まるようになります。この頃、劉備(玄徳)は諸葛亮(ショカツリョウ 183年―234年)を三顧の礼で迎え入れることに成功します。すでに劉表は亡く、息子の劉琮(リュウソウ 生没年不明)が跡を継ぎますが、南下を狙ってきた曹操に降服してしまいます。諸葛亮から劉琮を討ち、荊州(軍事的に最も大事な領地)を奪って曹操に対抗するように進言されますが、劉備(玄徳)は自分を受け入れてくれた劉表に恩を感じ、実行することができませんでした。この地は後に劉備(玄徳)たちにとって激戦区となる領地で、関羽を死なせてしまうことから、歴史を振り返るとこのチャンスを逃したのは大きかったといえます。

民を見捨てることができない男

民を見捨てることができない男

民を見捨てることができない男

また、荊州からさらに南下して逃げるときには、劉備(玄徳)を慕って十数万の民衆が劉備(玄徳)に付いていこうとしました。女性や子供がいるために進軍が遅くなり、曹操軍に追い付かれることを心配した部下から、民衆を見捨てて江陵(南下先の領地)を確保するように進言されますが、劉備(玄徳)は「大事を成すには人が大事であり、自分を慕ってくれるものを見捨てることはできない」と泣きたくなるようなセリフを残しています。

さらに、諸葛亮の天下三分の計で示された益州(西南方面)の地では君主の劉璋(リュウショウ 生年不明―219年)の代わりに国を治めてほしいという劉璋配下らにも重い腰をなかなか上げることができませんでした。劉璋は劉備を招きいれて宴会を開きますが、このとき劉備(玄徳)は配下から劉璋を暗殺して益州を奪うべきという進言を受けますが、劉備(玄徳)は他国に入ったばかりで恩義や信頼を得られていない、人の道に反するという理由で却下しています。

国や民を最優先で考える男には惚れてしまう

国や民を最優先で考える男には惚れてしまう

国や民を最優先で考える男には惚れてしまう

恩を受けるとそれを裏切ることができない仁徳の劉備(玄徳)には多くの人が付いていきました。自身の死期が近づくと、諸葛亮と息子たちを呼び寄せて長男が国を治めるに値しないときは、諸葛亮に迷わず国を治めるように遺言を残します。歴史上では後継者争いで国が混乱に陥ることは珍しくなく、自身の息子よりもその配下に国を譲るという考え方は劉備(玄徳)くらいしかなく、常に国や民を思って行動していたからだといえます。このような男には惚れてしまいますね。

身を犠牲にして主君のために戦った【趙雲子龍】

身を犠牲にして主君のために戦った【趙雲子龍】

身を犠牲にして主君のために戦った【趙雲子龍】

三国志ファンならば好きな武将のトップ5に入るであろう趙雲(チョウウン 生年不明―229年)。劉備(玄徳)の配下として活躍しますが、実は史実の三国志ではそれほど出世しているわけでもなく、どちらかというと小説の三国志演義の方で人気が出ている武将といえます。

赤ん坊を抱きながら戦陣を駆け巡る

赤ん坊を抱きながら戦陣を駆け巡る

赤ん坊を抱きながら戦陣を駆け巡る

趙雲の惚れるところは、何といっても長坂の戦いでしょう。先述での荊州から南下して逃走を図るとき、遂に劉備たち一向は曹操軍に追いつかれてしまいます。混乱の最中、趙雲は劉備(玄徳)の赤ん坊を抱きながら劉備夫人を保護し、曹操軍の追手から守り抜きました。

三国志演義では曹操軍の真っただ中に切り替えして、赤ん坊を抱きながら単騎で駆け抜け、迫りくる大軍の中を無事に切り抜けて、劉備(玄徳)の元へ届けています。これはドラマや映画、演劇でも最も人気のあるシーンとなっており、また趙雲を演じる俳優は二枚目が多く、趙雲の人気の高さを物語っています。

単騎で曹操を震え上がらせた【馬超孟起】

単騎で曹操を震え上がらせた【馬超孟起】

単騎で曹操を震え上がらせた【馬超孟起】

一大勢力を誇った曹操が警戒を怠らなかったのが、劉備(玄徳)や孫権といった君主でした。彼らには有能な家臣が多く存在し、自身の覇道に邪魔になる恐れがあったからです。しかし、馬超(バチョウ 176年―222年)は君主一人の才能で曹操を追い詰め、震え上がらせました。

曹操をあと一歩で倒しかけた馬超

曹操をあと一歩で倒しかけた馬超

曹操をあと一歩で倒しかけた馬超

三国時代に西涼(北西地方)の地域を収め、父は曹操の領地に一族総出で移住している時に、馬超が父の跡を継いでいます。しかし、馬超が曹操と敵対したのを受けて、父が曹操に一族もとろも惨殺されてしまいます。

馬超と曹操が対決したのは211年の潼関の戦いで、しばらく睨み合っていた両陣営でしたが、曹操軍が馬超軍の一角を崩したところから均衡が破れ、曹操が黄河を渡ろうとすると馬超自らが騎兵をもって追撃し、曹操軍は大混乱に陥って、曹操自身も命からがら逃げ帰ることができたといいます。

トップが率先して先頭に立つ

トップが率先して先頭に立つ

トップが率先して先頭に立つ

トップの立場である人物が率先して軍を率い、その武勇で先頭に立って敵兵をなぎ倒す姿は味方を鼓舞し、敵には恐怖感を与えるのに抜群の効果があります。曹操はこの戦いがきっかけで馬超に恐れを抱きます。

その後形成が逆転し、もともと物量で勝る曹操が盛り返し、馬超は敗れてしまいます。馬超は後に劉備(玄徳)を頼り、その配下になります。馬超が劉備(玄徳)に帰順してきたことを受けて、その力を恐れた劉璋は劉備に降服する決断をしたほどでした。自身が先頭に立つという姿勢は、リーダーたるものなかなか実践できるものではありません。この姿勢は十分惚れる男として価値があるものでしょう。

まとめ

まとめ

まとめ

今回は蜀の人選でしたが、【惚れる男】というのは、劉備(玄徳)や趙雲、馬超に代表されるように、強く、正義感に溢れるところといえます。特に劉備(玄徳)はこれらの武将を多く従えたこともあり、趙雲や馬超が惚れた男であるともいえます。





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