かつての英雄も年老いて……
■ かつての英雄も年老いて……
かつての英雄も年老いて……
「老兵は死なず、ただ去るのみ」という言葉はかのマッカーサー元帥が引退する際に残した言葉です。まさしくこの言葉通り、去り際というのは戦場に生きるものにとって非常に重要な見せ場のひとつでもあります。
曹操を守って壮絶な最期を遂げた典韋や、関羽の仇討ちのために死地に赴こうとした劉備(玄徳)など、三国志にもその死に際が見せ場として描かれている英雄は多数いますが、一方でその逆に、やはり引くに引けずに晩節を汚してしまった武将達もいるのが現実です。
三国時代の建国の英雄の一人、呉王孫権は、そうした晩節に最大の汚点を残してしまった哀しき武将の一人です。
かつては強敵から呉を守り抜き、赤壁では5~10倍とも言われる曹操軍を前に果敢に戦った決断力は、晩年では見る影もなくなってしまいます。
酒乱だった孫権は、飲みすぎの影響か年をとるごとにすっかり疑い深くなり人を信用しなくなります。またそれに伴って、かつてあった決断力も衰えて、すっかり優柔不断になってしまったようです。
そしてその結果、孫権は後継者を選ぶ際に「二宮の変」という騒動を起こし、すっかり国を疲弊させてしまったのです。
孫氏短命
■ 孫氏短命
孫氏短命
三国志には「孫氏短命」という言葉があります。意味は字のとおり、孫家の人間は早死にしてしまう、という言葉。
そしてこうした運命が、呉の命運を大きく左右しました。
孫権の長男である孫登(母は徐夫人)は優しく慈悲深い人柄で、民からも慕われる人物でした。孫登は20歳のときには太子として立てられ、このまま行けば孫権の後を継ぐのは孫登。臣下からの信頼も篤く、反対するものはいなかったそうです。
しかし「孫氏短命」の通り、孫登は孫権の後を継ぐ前に、33歳のときに急死。孫権は大いに悲しみ、後に孫登のことが話題に上るたびに涙を流したといわれています。
さて、後継者予定だった孫登が亡くなってしまったのでさあ大変。孫権は急いで次の後継者を定めなければいけなくなりました。
ところが、優柔不断を絶賛発揮中の孫権は、なかなか正統後継者を決められず、それによって臣下を巻き込んでの大混乱を招くことになったのです。
これが後に9年間も続くことになる後継者を巡った政争、「二宮の変」の幕開けとなりました。
孫和と孫覇
■ 孫和と孫覇
孫和と孫覇
長男・孫登の死後、新たに太子として立てられたのは三男である孫和でした。(次男・孫慮が既に亡くなっていたため)
孫和は幼い頃から孫権の寵愛を受けており、本人も頭脳明晰だったため、孫和が順当な王位継承者として後を継げば、全てが丸く収まるかと思われました。
しかし、これを面白く思わなかったのが、孫権と歩夫人の間に生まれた娘・魯班でした。魯班は孫和の母である王夫人と仲が悪く、彼女の子である孫和が王位を継ぐことが気に入らなかったのです。
そこで魯班は孫権が病気になった際に、「孫和は張休(張昭の子)と一緒になにやらクーデターを企てているとか。それに王夫人は陛下がご病気になったことを知ると嬉しそうにしていましたよ」と嘘の告げ口を行いました。
病で弱っていたこともあり疑い深くなっていた孫権はその言葉をすっかり信じ込んでしまい、王夫人を問い詰めて悶死させ、さらに孫和への寵愛も一気に薄れてしまったのです。
その後孫和へと向けられていた寵愛は、謝夫人との間にできた末子、孫覇へと向けられることになります。孫和が太子に立てられた後も、孫覇は太子と同様の待遇を与えられたため、孫覇は自分が太子になれるのではないかという野望をもつようになったといわれています。
こうして水面下で始まった後継者争いは、やがて群臣をも巻き込んで呉の国内を二分する派閥争いに発展していきます。
勝者側に与していたものたちはその後の政権で優遇され、逆に敗者側に与していたものたちは殺されることになってしまうので、自分の命を懸けた壮大な派閥争いは、徐々に深刻化していきます。
初めはそれぞれの側近だけだった争いは、次第に大臣・官僚や将軍たちをも巻き込んでいくことになったのです。
深まる対立
■ 深まる対立
深まる対立
孫和派の筆頭だったのは、後期の呉を大いに支えた重鎮、陸遜でした。
陸遜は丞相に就任した際に国内の状況を憂い「太子とその弟の待遇を同じにしていてはなりません。正しく差をつけて地位をはっきりさせることで国が定まるでしょう」と孫権に進言します。
しかしこうした進言は孫権に聞き入れられなかったばかりか、孫覇派の有力者に言いがかりをつけられて張休や吾粲といった陸遜の協力者たちが次々と誅殺されてしまいました。
また陸遜も殺されはしなかったものの、連日問責の使者を送りつけられ責め立てられたことで、やがて憤死してしまいました。
呉で大きな力を持っていた陸遜が死去したことで抑えが効かなくなり、その後も孫和派だった人物たちは次々に地方へ左遷されたり、流言を真に受けた孫権によって殺害されてしまいました。
さらに孫覇派の歩隲が陸遜の後任として丞相に就任し、同じく孫覇派の全琮や呂岱も昇進したことで、時勢はすっかり孫覇派が有利な状況へと進んでいったのです。
正統な後継者は孫和であるにもかかわらず、当の孫権自身が孫覇の味方をする始末ですので、孫覇派が有利な状況へと傾いていくのはしかたないことだったのかもしれません。
「二宮の変」の収束
■ 「二宮の変」の収束
「二宮の変」の収束
水面下で激化していった「二宮の変」は、時間を経るごとにもはや収集がつかなくなっていました。
国を二分して争いあい、誰もが疑心暗鬼に陥っている状況。これでは国が発展するはずもなく、呉の国力は見る見る疲弊していきました。
優柔不断によって内乱を招いたのが孫権なら、ここまでの状況になってしまえば、それを終わらせられるのも、もはや孫権だけでした。
いよいよこのままではどうにもならないと思ったのか、ある日孫権は側近に漏らします「国中がいがみ合って派閥争いをしているようでは、私は天下の笑いものになってしまう。今後二人のうちどちらが即位したとしても、必ず混乱を招くだろう」
ことココにいたってようやく事の重大さを認識した孫権は、太子である孫和を廃位し、孫覇を自殺させます。そして当時わずか8歳だった孫亮を新しく太子に立てることを決断。
そして全奇や呉安といった孫覇派だった人物たちを処刑していきました。
こうして孫登の死後9年に渡って繰り広げられた「二宮の変」はようやく収束しました。
しかし、この騒乱で群臣らに生じた亀裂は簡単に修復できるものでもなく、結局このことが後の呉の衰退のキッカケとなってしまいました。
裴松之の批判
■ 裴松之の批判
裴松之の批判
こうした騒動に対して、三国志に注釈を記した裴松之は次のように記述しています。
「孫権は既に太子として孫和を立てておきながら、その後に孫覇を寵愛し国を乱れさせるキッカケを作ったことで自ら国に災いをもたらした。暗愚で道理を踏み外した行為は、かつて跡目争いで一族を滅ぼした袁紹や劉表よりも、なお甚だしい」
このような厳しい批判は、「二宮の変」がかつての英雄孫権の晩節に残されてしまった最大の汚点だといわれる所以となっています。
まとめ
■ まとめ
まとめ
英雄にとって美しく表舞台を去るということは、最大の見せ場でありながら、また最大の難事でもあったのかもしれません。
後継者を誰にするかは、そのほかの英雄たちの間でも時々巻き起こる非常に難しい問題です。
年老いてからの子は可愛いものなので、ついつい寵愛してしまいそうになるのは理解できますが、年功序列の儒教思想が根強い中国では、年長である孫和を寵愛し即位させることがベストだったのかもしれませんね。