【三国志】英雄あだ名列伝~魏編その1~

【三国志】英雄あだ名列伝~魏編その1~

三国志演義の中で曹操は、自分の配下の武将にときどきあだ名を考えてつけたり、
武将の容貌を古の偉人の名前をあだ名にしていました。


曹操孟徳

曹操孟徳

曹操孟徳

治世の能臣 乱世の奸雄

治世の能臣 乱世の奸雄

治世の能臣 乱世の奸雄

曹操は、漢の大尉の嫡男で元十常侍の大宦官、曹謄の孫。魏建国の礎を築き、初代魏皇帝文帝(曹丕)の父です。
彼は死後、武帝と諡され陳寿の記す正史「魏志」では、「太祖」と記述されています。

若かりし曹操のことを橋玄(大喬と小喬の父親とされている)が紹介した人物鑑定家の許子將が、
「子治世之能臣亂世之奸雄」(子は治世の能臣、乱世の奸雄)。または「君清平之奸賊亂世之英雄」(君は清平の奸賊、乱世の英雄)と評価しました。

「能臣」は、日本語では「雄臣」となり優れた臣下という意味になります。「奸雄」とは、悪知恵を働かせる英雄・野心家という意味があります。
簡単に言うと「君は平和な世の中なら優れた臣下、戦乱の世では悪知恵をもつ野心家として、どちらの世の中でも台頭できる人物だ」ということになります。

橋玄自身は曹操のことを「私は天下の名士を多く見てきたが、君のような者はいなかった。君は善く自らを持せよ。私は老いた、願わくば妻子を託したいものだ」と語っています。このことで、曹操の名は広く国全体に知れ渡ることになりました。

非常の人 超世の傑

非常の人 超世の傑

非常の人 超世の傑

正史である「魏志」を記した陳寿は、曹操のことを「非常の人、超世の傑」と評価しています。
「非常に優れた才能を持ち、時代を超越した英雄」という意味になります。

夏候惇元譲

夏候惇元譲

夏候惇元譲

盲夏候

盲夏候

盲夏候

曹嵩(曹操の父)の兄の息子で曹操とは従兄弟同士の関係にあります。曹操が不良グループを結成したときからの配下で、魏に生涯を捧げた人物です。

呂布との合戦の最中に呂布配下の武将曹性は、敵将を猛追する夏候惇が陣中から現れたのを確認したので、夏候惇に向けて矢を放つとその矢は夏侯惇の左目を射抜きました。
この時、夏侯惇は曹性を睨みつけて刺さった矢を眼球もろとも引き抜き、「親から貰ったこの目玉、くれてやることなどなど出来ようか!!」と叫んで眼球を喰らい、その後左目を射抜いた曹性に突進。曹性は、次の矢を番える暇をも与えられず、顔面を刺突されて討ち取られました。
これがきっかけで夏候惇は隻眼の武将となり「盲夏候」のあだ名がつけられました。

このあだ名は同じ夏侯氏の武将、夏侯淵と区別するために付けられたようですが、本人はあまり気に入っていなかったようで、鏡で自分の顔を映す度に怒って鏡を破壊していたそうです。

荀彧文若

荀彧文若

荀彧文若

王佐の才

王佐の才

王佐の才

荀彧は春秋戦国時代に弁舌をふるい諸国で名を馳せた諸子百家のうちの荀子から数えて11代目の末裔にあたる人物です。

後漢末の動乱期では、曹操の下で数々の献策を行い、その覇業をたすけました。しかし、曹操が魏王就任することに反対し、曹操と対立。曹操から自害を迫られ憤死、または晩年の不遇に嫌気がさして自害したとも言われています。

若い頃から優れた才能を発揮して「王佐の才」と称賛されました。
「王佐」とは、徳治を旨とする王道を行なう君主を補佐する事とあり、その才能があった人物として全国に名を馳せました。

彼の祖父の荀淑は「神君」、父と叔父らは「八龍」と評されて三世代にわたり、人々から尊敬を集める名家のお坊ちゃんでした。

我子房

我子房

我子房

荀彧の弟(または兄)荀諶と同郷の辛評や郭図が先に袁紹に仕えていたこともあって、荀彧は袁紹に上賓の礼を持って迎えられましたが、「袁紹は大業を成す事の出来ない人物だ」と判断し、当時奮武将軍で東郡にいた曹操のもとを訪れました。

荀彧が取次を受けて門から入るや否や、曹操が「我が子房が来た」と大喜びで裸足のまま荀彧を出迎えました。
子房とは、張良の字のことです。張良は秦の始皇帝の暗殺に失敗したり、前漢の高祖劉邦の参謀として補佐し、漢建国の覇業を達成させた偉人です。
曹操は荀彧のことを「自分にとっての張良だ」という意味のあだ名をつけました。

典韋

典韋

典韋

悪来

悪来

悪来

後漢末期の武将で曹操に仕えた武将です。

その容貌は堂々とした体格で重さ約50Kgの鉄戟を扱える怪力の持ち主。さらに固い節義と男気のある性格で、曹操の初代親衛隊長を任されるほど信頼されていました。

誰も持ち上げられなかった牙門の旗を片手で持ちあげたので、趙寵に一目おかれるようになり、怪力ぶりが曹操の耳に入ると黄巾の残党何儀を捕らえようとしたところに許褚が現れ、許褚と典韋を一騎討ちさせました。

その怪力を目の当たりにした曹操が「古の悪来が再来したようである」と言って感激してからあだ名が「悪来」となりました。

「悪来」とは、殷の紂王に仕えた官僚のあだ名で本名を嬴来と言い、剛力の持ち主でした。
嬴来は、紂王によって国政を任せられるが、人を讒言し、傷つけることが巧みであったので、諸侯から嫌われ「悪来」というあだ名をつけられました。そして彼が秦の始皇帝の先祖という説もあります。

悪来の父親の飛廉または、嬴胤は「嬴瞬」の異名をとり、馬よりも速い俊足だったので韋駄天のモデルになった、飛廉という空想上の神獣になって風神になったとも言われています。
嬴来は悪いことをしていたので、悪来と呼ばれても合点がいきますが、典韋はまったく悪いことをしていないので、曹操は悪来の剛力っぷりをイメージして名付けたものだと思います。悪い意味のあだ名をつけられた典韋ですが、まんざらでもなかったようなので、もしかしたら悪来が本当はどんな人だったのか典韋は知らなかったのではないかと思います。

許褚仲康

許褚仲康

許褚仲康

虎痴

虎痴

虎痴

怪力の持ち主で、曹操の親衛隊長として長く務めた武将です。 身長は八尺(およそ184cm)、ウエストが10囲(囲は5寸、およそ120cm)あり、容貌は雄々しく毅然とした巨漢で、武勇と力量は人並み外れていたそうです。

力が虎のようであるものの、痴(頭の回転が鈍い)であったため、「虎痴」と呼ばれていた。

それでもって天下の称賛を浴びることになったとされていますが、寡黙であったので頭の回転が鈍いと勘違いされたのではないかと思います。

実際の許褚は、自身の砦が黄巾党に武器や矢弾も尽き果てるまで追い込まれたとき、許褚は城中の男女に湯呑みや枡ほどの大きさの石を用意させ投げつけ、賊に対抗したり、食糧が乏しくなったので、一計を案じ、賊と和睦を結ぶ振りをして、牛と食糧を交換させたりしています。

また、牛と食糧の交換するときに牛が暴れて逃げてしまったのですが、許褚が牛の尻尾を掴んで100歩以上歩き、きちんと交換しようとしますが、賊はその怪力を恐れて牛を引き取らずに逃げかえってしまったそうです。

魏の武将のあだ名には偉人のアイディアが詰まっている

魏の武将のあだ名には偉人のアイディアが詰まっている

魏の武将のあだ名には偉人のアイディアが詰まっている

魏の武将には「悪来」と呼ばれた典韋や「虎痴」と呼ばれた許褚のように曹操が考えたり、人物評論家が考えたあだ名をつけられています。
曹操は生涯勉強することを怠らなかった人物なので、いろいろな書物を読んで昔の偉人やたくさんの言葉が頭に入っていたのでしょう。
なんとなくですが、曹操って豊臣秀吉や明智光秀に「サル/ハゲネズミ」、「きんかん頭」とあだ名をつけた織田信長に似ているなぁと個人的に思います。
しかし、信長はストレートすぎるので、曹操のほうがセンスがあるような気がします。
曹操のようにセンスのあるいじり感が低いあだ名をつけていたら、本能寺の変で臣下に討たれることもなかったのではないでしょうか。


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