1.曹操と織田信長
■ 1.曹操と織田信長
1.曹操と織田信長
もはや鉄板と言えるでしょう。両者に共通しているのはそれまでの常識にとらわれない能力主義です。
三国志の時代と戦国時代は共通点も多いのですが、一つにまだまだ格式が大切とされていた点にあります。三国時代も戦国時代も基本的には世襲制。
武士の子供として生まれれば武士ですし、重臣の子供として生まれれば将来は重信となるのが保証されていたと言っても過言ではありませんでした。
それだけに、能力よりも家柄だけで人を選ぶ人間も多かったのですが曹操と織田信長は家柄ではなく、各々の能力を見て家臣と登用。抜擢された側としても嬉しい気持ちもあれば、報いるためにとの気持ちもあったでしょう。
その一方で冷酷非道さもまた、共通点として挙げられます。
自分に刃向かうもののは容赦しない性格は、時に大きな災難を生み出すこともありました。
曹操にせよ織田信長にせよ、その苛烈な性格に「付いていけない」と離反した家臣も多いのです。それでも領土を拡大し、曹操は中国大陸のほぼ半分、織田信長は当時首都であった京都を中心にした畿内の制圧。
更には当人同士は天下統一を果たした訳ではないものの、息子ではなく家臣が天下統一を成し遂げた点も共通しています。曹操の場合、自分を継いで後に皇帝となった息子ではなく、その家臣である司馬炎が晋を樹立して三国を統一。
日本は織田信長の息子ではなく、家臣であった豊臣秀吉が天下と統一するなど比べれば比べる程似ている点が多い両者です。
2.関羽と上杉謙信
■ 2.関羽と上杉謙信
2.関羽と上杉謙信
この両者もしばし比べられることが多いのではないでしょうか。両者に共通しているのは「義に厚くて強い」という点です。関羽は曹操に囚われた際も帰順するこなく劉備を信じ続けました。
そして劉備の生存を知るや関所を破って劉備の元に帰参。劉備からの信任も厚く、結局は落としてしまうことになったとはいえ荊州を任されました。
一方の上杉謙信も義に厚い武将と言われており、自分の領土拡大のための争いではなく、弱者からのSOSのみしか戦わなかった程。
また、海がなく困っていたライバルである武田信玄に塩を送ったり、両者ともに「義」という言葉がぴったりの両者。ちなみに両者ともにお酒が好きな点や、領民から慕われていた点も共通しています。
3.魯粛と片桐且元
■ 3.魯粛と片桐且元
3.魯粛と片桐且元
少々マニアックかもしれませんが、この両者は似ている部分があります。それは交渉の仲立ちとして苦労した点です。
魯粛は呉と蜀の間で時には??責されることもありました。特に赤壁の戦いの際には主戦派として蜀との同盟を提唱したものの、保守派・非戦派からたしなめられることもありました。
更には後の荊州争奪戦に於いても孫権と関羽の間で右往左往させられるケースも多々ありました。一方、片桐且元も大坂の陣の際、大阪の豊臣方と江戸幕府の間で同じように双方からなじられることもありました。
更に共通しているのは、両者ともに優柔不断なイメージがついてしまっているものの、決して非凡な人間ではない点です。
魯粛は周瑜亡き後、呉の提督として国力の向上に努めています。決して優柔不断だけな男ではないのです。
また、片桐且元も元々は賤ヶ岳の七本槍に数えられる程武勇に優れた武将でしたし、結局片桐且元が大阪から退去したことで豊臣家は開戦の道を選択し、滅亡することになってしまっただけに、双方共に決して愚鈍な武将ではないのです。
4.諸葛亮孔明と石田三成
■ 4.諸葛亮孔明と石田三成
4.諸葛亮孔明と石田三成
石田三成のイメージがあまり良いものではないため、「これは違うだろう」と思う人もいるかもしれません。しかしこの両者もまた、共通点が多いです。
まず二人に共通しているのが忠義の士である点。諸葛亮孔明は劉備玄徳、石田三成は豊臣秀吉に抜擢されましたが、子供の代までしっかりと仕えています。
諸葛亮孔明は「息子に能力が無ければ君が収めろ」とまで言われていたにもかかわらず、最後まで劉禅を補佐。
また、諸葛亮孔明は三国志演義では天才軍師として活躍が目立つものの、実際には内政官としての能力に長けていたのです。
石田三成もまた、豊臣秀吉の片腕として内政面を支えたことで知られています。
そして両者共に最後は博打とまでは言いませんが大きな戦を仕掛けて敗北。陣中で没した諸葛亮孔明と、囚われて処刑された石田三成とではニュアンスは異なりますが、この両者は似ている点も多いです。決定的に異なる点といえば人望でしょうが…
5.徳川家康と司馬懿仲達
■ 5.徳川家康と司馬懿仲達
5.徳川家康と司馬懿仲達
この両者に共通しているのは思慮深さです。司馬懿仲達はその思慮深さから、最後まで諸葛亮孔明の知略から魏を守り通りしました。徳川家康もいろいろなことがあったでしょう。
織田信長との同盟という名の従属関係からの豊臣秀吉への服属。
それでも我慢に我慢を重ね、最後は天下を統一しました。
司馬懿も様々なことがありましたが、最後は魏になくてはならない人間になるとともに、その孫が天下を統一することになるなど、一族の繁栄の礎を作ったと言っても過言ではありません。
このように両者ともに忍耐があったからこそ勝利者と成りえたのです。その点では両者は似ていると言えるでしょう。
6.豊臣秀吉と劉備(玄徳)
■ 6.豊臣秀吉と劉備(玄徳)
6.豊臣秀吉と劉備(玄徳)
これは良く言われていることです。成り上がりという点ではなく、周囲の人間の使い方が上手な点、そのおかげで才能のある人間が集まって来た点。
劉備(玄徳)は天下統一とまではいきませんでしたが一応は皇帝の座まで上り詰めていますし、豊臣秀吉に関しては天下統一まで成し遂げているのです。
更には双方共に跡継ぎに恵まれなかった点も似ています。阿斗と豊臣秀頼。それぞれ事情が異なるとはいえ、結局は家を潰すことになってしまったのです。
豊臣秀吉と言えば成り上がりとしての面が有名ではありますが、天下統一を成し遂げたのは本人の才覚だけではなく、周囲の才覚があったからこそです。
まとめ
■ まとめ
まとめ
「似た者同士6選」のご紹介はいかがでしたでしょうか。もちろん他にも挙げられるでしょうし、「そこは違う」という突っ込みも聞こえてきそうですが、このような形でいろいろと比較することで三国志、戦国時代をよりイメージしやすくなるのではないでしょうか?漫画や映画、ゲームなどで観る機会がありましたら、戦国時代の武将を思い出してみるとより楽しめるのかもしれませんね。