杏仁豆腐を考案したのは医者!?
■ 杏仁豆腐を考案したのは医者!?
杏仁豆腐を考案したのは医者!?
みなさんも大好きなスイーツ「杏仁豆腐」の生みの親は宮廷料理人や飲食店の店長ではありません。
三国時代の名医・董奉(とうほう)”という人です。高い医術をもっており、農耕をせずに貧富を問わず人々の治療にあたっていました。さらに董奉(とうほう)は徳も高く、貧しい人からは治療費を一切受け取らず、代わりに杏子の木を自分の畑に植えてもらいました。軽い症状の治療は杏子1株。重い症状の治療は杏子5株というように杏子の木を植えてもらっていたので、この提案をしてから数年後には杏子の林ができあがっていたそうです。
良い医者の代名詞である「杏林(きょうりん)」は、董奉(とうほう)のことを周りの人々が称賛して生まれた言葉です。
なぜ杏子の木?
■ なぜ杏子の木?
なぜ杏子の木?
董奉(とうほう)はなぜ報酬として杏子の木だけを植えてもらっていたのでしょうか?
主食であるお米や小麦を植えてもらったほうが、食糧としての価値はありますし、手入れができないというのなら栗でも桃でもよいはずです。しかし、あえて杏子の木にした理由は、杏子の種にあると言われています。
杏子の種の効能
■ 杏子の種の効能
杏子の種の効能
杏子の種は当時から「肺や腸を潤す効果がある」と言われており、咳止め、喘息、便秘を治す民間薬として服用されていました。
董奉(とうほう)は報酬として受け取ったものでも人々の治療に役立てようと考えていたのでしょう。杏子の実が実るようになると「杏子を求める人は一缶分の穀物を倉庫に置いておけば同じ量の杏子を採ってよい」という看板を家の前に立てていつでも人々が杏子を食べられるようにしました。
杏仁豆腐はオブラート
■ 杏仁豆腐はオブラート
杏仁豆腐はオブラート
さて、いよいよ杏仁豆腐が作られるエピソードを書きましょう。
董奉(とうほう)はいつでも人々が杏子を食べられるようにしたわけなのですが、杏子の種はとても苦く食べづらいものでした。そのため、当時の人々は咳止めや便秘薬として服用するとき「うう…うう…」唸りながらチビチビと種をかじっていたのでした。
それを見た彼は、「糖蜜を混ぜて食べれば苦くないのでは?」と考えて、杏子の種をすり潰して粉状にしたものと砂糖水を混ぜ合わせて甘くて食べやすく杏子の種の効能を失わない薬を考案しました。その薬こそ杏仁豆腐なのです。杏仁豆腐は服用しやすい薬として瞬く間に中国全土へ広まっていき宮廷医官もこれを取り入れて皇帝や高官たちにも好まれるようになりました。杏仁豆腐を好んで食べた偉人として有名なのが楊貴妃です。彼女は杏仁豆腐にクコの実を乗せたものを毎日食べていたそうです。杏仁豆腐は苦い薬を飲みやすくするいわばオブラートとして考えられたものだったのです。
肉まんを考案した諸葛孔明
■ 肉まんを考案した諸葛孔明
肉まんを考案した諸葛孔明
みなさんは諸葛孔明(しょかつこうめい)をご存知ですか?
蜀の劉備(玄徳)に仕えた天才軍師にして、臥龍(がりょう:眠る龍の意)先生とも呼ばれる三国志には欠かせない人物です。
「三顧の礼」をしてまでも劉備(玄徳)が欲しがった人材、そして「天下三分の計」にて後の中国の勢力を予測した諸葛孔明(しょかつこうめい)。彼は兵法だけでなく漢詩や琴をたしなみ、卜占、天文、農作物の品種改良、兵器開発をも手掛けるスーパーマンです。
劉備(玄徳)は彼の非凡な才能をいちはやく聞きつけ誰よりも早く家臣として取り立てました。そして、息子である第二代皇帝・劉禅(りゅうぜん)の教育係として任命し、崩御の折には、息子の劉禅(りゅうぜん)へ「朕亡きあとは、諸葛亮を父として敬い、教えに従うべし」と遺言を残したそうです。
さて、そんなスーパーマンがなぜ肉まんを考案することになったのでしょうか?
南蛮征伐
■ 南蛮征伐
南蛮征伐
劉備(玄徳)によって蜀が建国されると、魏と呉を牽制しつつ南蛮という異民族と戦をして領土拡大と兵力増強をはかります。
西暦225年に諸葛孔明(しょかつこうめい)を総大将として、南蛮征伐が敢行されました。対する南蛮勢力は、孟獲(もうかく)を総大将として蜀軍の前に立ちはだかります。象や虎などの禽獣を戦線投入し、驚く蜀軍に毒矢を浴びせたり、土地勘を利用して攻めては逃げ、逃げては奇襲するゲリラ戦を仕掛けてくる南蛮勢力にさすがの諸葛孔明(しょかつこうめい)も舌を巻きました。
しかし、孟獲(もうかく)を生け捕りにしたことで、大量の犠牲を払ったものの諸葛孔明(しょかつこうめい)率いる蜀軍が勝利をおさめます。
肉まんを考案することになった事件は、この戦を終えて成都を引き上げる道中に起きました。
濾水(ろすい)の氾濫
■ 濾水(ろすい)の氾濫
濾水(ろすい)の氾濫
南蛮征伐で勝利し、南蛮を平定させた諸葛孔明(しょかつこうめい)率いる蜀軍は、成都を目指して進みます。
その道中では濾水(ろすい)という河川を渡らなければなりませんでした。蜀の領地はもともと巴蜀(はしょく)と言われていました。劉備(玄徳)の祖先にして漢の初代皇帝、高祖劉邦(りゅうほう)が項羽と覇権を争っていた時代には、巴蜀(はしょく)は住むことはおろか、農耕もまともにできないのではないかと噂されるほど周囲を岩山と切り立つ崖に囲まれた地帯です。
そのため諸葛孔明(しょかつこうめい)も迂回する進路がとれなかったのです。当然、氾濫した濾水は掛けられていた橋を濁流で飲み込んでいたため、流れがおさまらなければ架橋の工事もできません。疲れ果てている蜀軍は数日足止めを食らうことになります。
濾水(ろすい)の水はなかなか引きません。現地の住民に濾水(ろすい)の水がどれくらいでおさまるのかを聞いてみました。
すると、現地の住民は「この濾水(ろすい)の河には荒神がいて、時折荒れ狂います。その荒神を鎮めるためには、49人の首を生贄に捧げる必要があります。」と現地の風習について言ったそうです。それを聞いた諸葛孔明(しょかつこうめい)は、「戦で多くの兵が命を失った、もうこれ以上犠牲者を出すことはできない。」とつぶやくと料理人を呼びよせました。
諸葛孔明(しょかつこうめい)は、料理人に小麦粉をこねて人の頭の形に成形させ、その中に牛肉や馬肉を詰めるように指示します。出来上がった人頭もどきに顔を書いて祭壇に供え、祈祷を開始しました。祈祷をすると濾水(ろすい)の水は鎮まり、蜀軍は無事濾水(ろすい)渡河を成功しました。そして、諸葛孔明(しょかつこうめい)は現地の住民にこの人頭もどきの作り方を教えると人の首を生贄にすることを禁じました。この人頭もどきこそ肉まんの原型であり、当時は「蛮頭」と呼ばれましたが、後に食用として広まり食べ物を意味する「饅」が頭文字に置き換わって「饅頭」という料理になりました。
饅頭が日本に伝来したのは…
■ 饅頭が日本に伝来したのは…
饅頭が日本に伝来したのは…
饅頭が日本に伝来したのは鎌倉時代のこと。当時は食肉が禁じられていたことから饅頭の具は野菜が主流でした。そして、お茶菓子として有名な「まんじゅう」は饅頭の具をあんこにしたものです。もともと日本では「まんず」と呼ばれていたようですが、それがなまって「まんじゅう」に変化したそうです。
肉まんの店頭販売開始
■ 肉まんの店頭販売開始
肉まんの店頭販売開始
肉まんが初めて商品として販売されたのは大正時代。当時は「肉詰め饅頭」というネーミングで販売されました。そして「肉詰め饅頭」を略語として定着したのが「肉まん」です。
まとめ
■ まとめ
まとめ
我々日本人にも愛されている料理の「杏仁豆腐」と「肉まん」。これらの起源は三国志時代にあります。中華料理のひとつであることは多くの人が知るところではありますが、本にも登場する実在した偉人が考案したものだと知っている方は少ないと思います。「肉まん」のエピソードは羅貫中によって著わされている「三国志演義」に登場します。