戦いの流れ(前)
■ 戦いの流れ(前)
戦いの流れ(前)
219年は劉備(玄徳)にとって激動の年でした。
1月に劉備(玄徳)は、定軍山の戦いで魏の宿将・夏侯淵を討ち取り、漢中を掌握します。
つづく曹操の本軍との戦いにも勝利した劉備(玄徳)は、7月には漢中王を名乗ります。
同じ年、劉備(玄徳)は孟達に命じて上庸を攻撃させます。漢中と荊州の中間に位置する上庸は、戦略拠点として奪うべき地でした。このとき、あとから孟達の援軍に差し向けられたのが劉封です。劉封は劉備(玄徳)の養子ですから、孟達より上位の指揮者なので孟達は、不服だったことでしょう。
一方、荊州を任されていた関羽は、8月に魏の襄陽をせめ、ついで樊城を囲みます。しかし、この間に呉の呂蒙は荊州を奪取し、孤立した関羽は麦城に籠城します。
関羽の援軍要請が劉封のもとに届くのですが、劉封は孟達の進言により援軍を拒みます。結果、関羽敗死という結末を迎えました。
戦いの流れ(後)
■ 戦いの流れ(後)
戦いの流れ(後)
関羽を見殺しにした――関羽の死によりもたらされた蜀の歪みは、孟達を魏に走らせることになります。劉備(玄徳)から討手を命じられた劉封は、5万の兵を率いてこれを追います。
襄陽郊外で、ふたりは敵味方として再会します。このとき孟達は劉封に書簡をおくり、利害を解いて魏への投降を勧めます。
そのまま蜀に残ったところで、劉備(玄徳)の嗣子は長男の阿斗であり、劉封は疎まれざるをえない。それならばともに魏に降ろうではないか、と。
劉封は、孟達の使者を切り捨て、孟達めざし討って出ますが、徐晃・夏侯尚らの軍勢に挟撃され、敗退。さらに上庸をも奪われ成都に帰還することとなります。
劉備(玄徳)は、群臣の目を気にした部分もあったでしょう。我が子だけ特別扱いはできないと死罪を言い渡します。
劉封の人柄
■ 劉封の人柄
劉封の人柄
劉封は、もと羅候寇氏の息子で寇封と名乗っていましたが、劉章の下で新野時代を過ごしていた劉備(玄徳)に見初められ養子となりました。
養子になる時期ですが、正史では阿斗誕生前、演義では阿斗誕生後となっています。共通するのはこの養子縁組により後継者争いの芽がしょうじていた、ということです。
劉封の戦ぶりは従順そのもので、つねにそつなく作戦を遂行していますが、あまり大局観をもって戦っていたようには見えません。孟達に従い関羽の使者を帰してしまったことも、一つには臨機応変に弱いところがあったからでしょう。
もちろん武将としては並み以上なんだろうと思うのですが、いまひとつ豪傑でもなければ知略に長けているでもない。人柄もすごく平凡な感じがしますね。凡将というか。暗愚とまではいいませんけど。
その劉封ですが、正史だと最期に言葉を残しています。それは、孟達の進めに乗らなかったのが悔やまれる、というものでした。
大人しく切られてしまう演義とはまた趣の違う最期になっています。
孟達からみた劉封
■ 孟達からみた劉封
孟達からみた劉封
孟達自身は、おそらく理論派で自信家だったのでしょう。正史での彼は蜀を去るときも劉備(玄徳)に手紙で別れを奏上し、魏に降ったあと劉封を誘う際にも懇々と手紙で利害を諭しています。
これは別に劉封の身を案じて、というものではなく魏に属してからの手柄としたかったのではないかと考えられます。
そもそも孟達と劉封の関係はそれほど良好ではありませんでした。
上庸に侵攻した孟達軍の援軍として派遣された劉封ですが、位は劉封の方が上ですから、孟達にしたらバカバカしい話だったでしょう。
どんなに奮戦したところで、手柄は上官の劉封のものです。関羽の援軍要請にしても、もし劉封がそちらに向かえば孟達だけで上庸は維持できず、かといって関羽救援に向かえばこれまた功績は関羽と劉封のものです。
その孟達からみた劉封は、おそらく歪んだ、血気のみ盛んで偽善者ぶっている若造に見えたに違いありません。
誰かに似ている?劉封の最期
■ 誰かに似ている?劉封の最期
誰かに似ている?劉封の最期
それにしても、劉封最期のシチュエーションって誰かに似ていませんか?
個人的な感覚かもしれませんが、漢の高祖つまり劉邦配下の大元帥・韓信に似ているような気がして仕方ありません。
韓信もまた、側近の蒯通から謀反を勧められますが、これを断っています。
しかし、結局は蒯通の言ったとおり、楚を滅ぼし天下を統一した漢にとって危険な存在となった韓信は殺される――そんなはかない宿命を負っていました。韓信もまた蒯通の言葉に従わなかったことを後悔しています。
劉封と韓信とでは存在感や能力は比べるべくもありませんが、劉封もまた国を二分しうる立場にいたことには違いありません。
もし劉封が生き残ったら、蜀はどうなったか
■ もし劉封が生き残ったら、蜀はどうなったか
もし劉封が生き残ったら、蜀はどうなったか
もし劉封が生き残っていた場合は、どのようなシナリオが待っているのでしょうか。
関羽救援に成功した場合と関羽敗死の場合とに分けて想像してみます。
・関羽救援に成功した場合
麦城の関羽救援に成功した劉封は、呂蒙軍の包囲を突破しつつひとます荊州を放棄して漢中方面に撤退します。
漢中からは関羽救援軍がおこされ、劉備(玄徳)・孔明を主力とした蜀軍と合流し、大勢を立て直します。
荊州を奪還できたかどうかは微妙ですが、劉備(玄徳)の後継争いが始まることは明らかです。
劉封の思惑とはべつなところで、阿斗派と劉封派とにわかれたことでしょう。蜀分裂の危機ですね。
・関羽敗死の場合
孟達はやはりあの性格から、魏に走るでしょう。上庸を奪われた劉封が仮に死罪を免れたとします。
この場合、やはり劉備との養子関係は解消させられたのではないでしょうか。少なくとも後継資格は剥奪されるべきです。
劉封そのものに野心があまり感じられないので、あとは一武将として孟獲討伐やら北伐に参加したのではないでしょうか。
次第に人材不足になっていく蜀軍の中では台頭はしたかもしれませんが、五虎将軍のような存在にはなれなかったように思います。
まとめ
■ まとめ
まとめ
以上、劉封と孟達の上庸での攻防戦を中心に、劉封の人柄などについてついてまとめてみました。
根はすごくいいやつなのに、なんか歯車が狂ってしまって可哀想なことになる人っていますよね。劉封はそんな青年だったのではないかなと思います。
英雄すぎないところが等身大の若者と言えるのでしょうが、その劉備(玄徳)の養子となってしまったために背負った宿命は、あまりにもはかないものでした。