三国志にまつわる嘘のようなホントの話2選

三国志にまつわる嘘のようなホントの話2選

真実は時として意外にも平凡であったり、誰も予知できない結果を生んでしまうことがあります。三国志にも嘘のようなホントの話がゴロゴロ転がっているので、今回はそれらのエピソードをご紹介します。


関羽(雲長)のために竈(かまど)を壊す

ここで言う「竈(かまど)を壊す」という表現は、竈をハンマーなどの鈍器で殴って物理的に破壊する意味ではありません。
親の代は地位が高く、財力も豊富にあった家が息子の代で財産を使い果たしてしまったり、落ちぶれてしまった者たちのことを「親の竈を壊した」とよく揶揄されます。この話はその代名詞となる話で三国志の時代から約1300年後におこりました。

大富豪の若旦那

明の時代、三国志は大衆的な演劇や講談の題材となっていました。人気の高い三国志は皇室から庶民にまで親しまれ、三国志を知らぬ者は村八分になるほどポピュラーな物語となりました。
ある大富豪の息子は生まれつき体が弱く、武芸はほとんどこなすことができず、いつも部屋に引きこもって人々との交流を好みませんでした。友達もほとんどおらずつまらない日常を送るなかで彼が最も傾倒したのが、三国志でした。
彼はもともと出不精で極度の人見知りだったのですが、三国志の演劇や講談を行う盛り場には、家で雇っている従者を引き連れていつも足を運んでいました。彼は特に関羽(雲長)の大ファンで、演劇や講談で関羽(雲長)が処刑されるシーンになると決まって「待ってくれー」と泣いて嘆願するほどであったそうです。

家督継承

大富豪だった父親が死去し、続いて彼の母親も夫を追うように死去しました。彼は仕方なく父親の地位と家を継いだのですが、金銭管理や屋敷の管理は家で雇った者たちにほとんど任せて自分は特になにもしなかったそうです。
俸禄は父親の代から変わらない額をもらえるのですが、若旦那は日常で消費する食費や酒代以外は本を買ったり、三国志を鑑賞しにいく入場料しか使いません。
お金はどんどん貯まっていくのですが、地域住民やヤクザ者たちは自分たちに流れてきていたお金が減ってきたので、内心面白く思っていませんでした。

チンピラの提案

若旦那は三国志の演劇を見るため劇場に足を運びました。いつもの特等席で酒と肴をあおりながら演劇を鑑賞していると近所のチンピラたちが酒や料理をたかりにやってきました。若旦那はなよなよしていたからなのか、よくチンピラたちに絡まれることがあり、その対処法も心得ていました。要はお酒や食べ物をわけたり、希望する小銭を与えればチンピラたちはあっさり帰っていくのです。
その調子で対応しようとしていたのですが、チンピラたちは地域住民たちと口裏を合わせてより多く金品を貪ろうと画策していたのです。
そしてあるチンピラが若旦那にこう切り出しました。「なあ、旦那よ。関公は何年も前に殺されちまったっていうのにさ~今も劇とか話で毎回毎回殺されて可哀想だよな?」
そのとき劇では関羽(雲長)が麦城から逃亡する最中に呂蒙(子明)に捕らえられ斬首されるシーンでした。
若旦那はついに自分の理解者が現れたことに感動し「おお、よくぞ言ってくれた。今もああやって関公はまた殺されてしまう」と言って目から大粒の涙をポタリポタリとこぼし始めました。
チンピラはしめしめ自分らの罠にかかったなと確信すると、追い討ちをかけるようにこう続けました。
「頼む若旦那。実は俺ら関公の葬儀をやってやりたいんだ(もちろん嘘)。しかし、酒や肉を買う金もなければ葬儀のやり方もわかんねえ。若旦那はお偉いさん方の葬式にも何度も参列しているし、父ちゃん母ちゃんって2回も喪主を務めたじゃないか。ここはひとつ関公のためにひと肌脱いでくんねーか?」
若旦那は初めて自分が頼りにされたことに喜びを感じました。そして、ついつい得意になって「ああ、たしかにそうだ。関公の葬儀は俺が手配するからぜひみんな来てくれ」と承諾してしまいました。

関羽(雲長)の葬儀

若旦那はすべて自腹を切って盛大に関羽(雲長)の葬儀を取り仕切りました。身分や地位は問わず「関公の死を弔いたい」と言えば、快く受け入れました。そうして若旦那の屋敷に多くの人々が集まっているうちにチンピラたちは金品を盗んだり、食べ物や酒を貪りました。そして葬儀が終わると人々は早々に退散していきました。
自分で家計の切り盛りをしていなかった若旦那はまだまだ財産があると思っていましたが、葬儀にかけたお金は莫大なもので自分が雇っている家人の給料を払えないほど使い果たしていました。
若旦那は泣く泣く自分の骨董品や絵画などを売ってその場をしのぎましたが、若旦那自身に才能はほとんどなく家計はどんどん苦しくなっていき、ひとりふたりと家人が辞めていきました。
ついには屋敷を売って小さな家に住んだそうですが、ついに病気にかかり若旦那は亡くなってしまったそうです。

絵本が国家の重要機密文書に!

かつて三国志平話(さんごくしへいわ)のストーリーをもとに本のすべて見開きページの上段が版画、その下段を文字で構成されている本がありました。この本のことを「三国志平話全図」というのですが、当時はすべてのページに絵と文字が印刷されているということで人気を博した本でした。

三国志平話全図を仕入れた当初の日本朝廷

日本と中国は当時美術品やお茶、日持ちがきく食品、織物などを輸出入していました。その際、文書なども仕入れていたのですが、その中に三国志平話全図がありました。
もちろん幕府や朝廷には献上品が上るのですが、それを将軍や天皇陛下に見せる前に家臣や大臣が検閲をおこなって目録と差異がないかや危険なものが含まれていないかをチェックします。
そして三国志平話全図の開いた大臣のひとりが腰を抜かすほど驚愕したのです。「なんだこの本は!!全部のページに挿絵と文字が書いてあるぞ!!」。そして目録のチェックが済むと三国志平話全図をわざわざ大内裏まで持って行き、時の天皇陛下にそれをご高覧いただいたそうです。すると、天皇陛下も同じ反応を示し、書いてある中国語の文章を読んでみるとあまり意味がわからなかったそうです。そのため、朱子学などで中国の古典を研究する者たちに読ませてみたのですが、その者たちもうまく訳すことができませんでした。
「これは最先端の語学の知識を駆使して書かれた本に違いない」と確信した天皇陛下は、三国志平話全図を国家の重要機密文書に指定し、文学者に研究させました。

三国志平話全図は絵本として読むものだった

そもそも三国志平話全図は、本を出版する書房と絵師のコラボ企画によって生まれた産物です。当時の書房はいろんな脚本家や小説家、講談師と契約して専売するスタイルをとっていました。より自分の書房の本を売るためにはほかの書房では置いていないオリジナル作品や有名な作家と専売契約した本を置いておかなければなりません。
そこで三国志平話全図を出版した書房は講談師が使う台本を借りて写し、絵師と契約を結んですべての見開きページに挿絵を入れるように依頼しました。
ところが、書房の主人は講談師が自分の話す台詞をすべて台本には書かないということを知らなかったのでしょう。借りた台本には大まかな筋書きしか書いておらず、断片的な書かれ方がされていました。それもそのはず、講談師は筋書きをヒントに脳内の情報を引っ張りだしながら、面白くなるように話を構成しつつ語ります。そのため、台本に書かれている情報は鉄板ネタを引き出すヒントや話の流れが大体わかるような短文が書いてあるだけなのです。
講談師がわざわざ不完全な台本を作っていた理由は、自分の話を他人に盗まれないようにするためであったそうです。
さらに三国志平話全図は挿絵と同じページにその場面の文章がおさまらなかったケースがほとんどだったので、文章を省略したり台本の誤字・脱字を直さずそのまま大量に印刷してしまったこともあって、文章だけでは話がまったくわからない本となってしまいました。しかし、すべてのページに絵が描いてあったので、老若男女が漫画や絵本の感覚で読んでいました。また、劇場に持ち運んで劇や講談をききながら読むための本としても使われました。
そうとは知らない日本人は、最先端の学問かもしれないということで躍起になって翻訳しようとしていたのです。

まとめ

さて、いかがでしたか?
ちょっとまぬけな嘘のようなホントの話を2つご紹介させていただきました。世間を知らないということは己の身を滅ぼしかねません。
以上の話を教訓に自分から進んで情報を仕入れること、人々と積極的に接して自分の助けになる人と騙そうとする人を判別できる目を養いましょう。

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