三国志昔ばなし ~張飛(益徳)特集~

三国志昔ばなし ~張飛(益徳)特集~

三国志は本や演劇以外にも親が子へ語り継ぐ民話の形としても残されてきました。
アジア諸国の人々から財神とあがめられる関羽(雲長)ですが、読み物や演劇のスターとして登場回数が最も多いのは弟の張飛(益徳)です。今回は張飛(益徳)が登場する民話を紹介します。


張飛(益徳)は神様よりもスター

張飛(益徳)は神様よりもスター

張飛(益徳)は神様よりもスター

羅貫中が書いたと言われる三国志演義では劉備(玄徳)、関羽(雲長)、張飛(益徳)の義兄弟を前段の主役、諸葛亮(孔明)を後段の主役として物語が進められていきます。
劉備(玄徳)は中国国民公認の名君、関羽(雲長)はアジア諸国の人々が崇める財産の神様ですが、
義兄弟の中でひとりだけ張飛(益徳)は神々しい称号を得られていません。たしかに本人の性格上、
大酒飲みでたびたび失敗をするし、すぐに怒るわ暴れまわるわで手のつけられない乱暴者。それらが原因で自身の身を滅ぼす結果となってしまったので、万民の手本となることは決してあり得ません。
むしろ反面教師にするべき武将ランキングにランクインする可能性が高いです。

しかしながら、張飛(益徳)は後世の人々から悪者と評価されていません。そんな張飛が手にした称号は読み物や演劇のトップスターです。
京劇で三国志を上演するときはたとえセリフがなく、その場面に登場させる必要がなくても張飛(益徳)だけは登場させるといったことがあったそうです。張飛(益徳)が出てくると観客は大いに盛り上がりを見せた理由は曲ったことが大嫌いでいつも自分の感情に正直。活躍もするけどよく大酒を飲んでヘマをしてしまう張飛(益徳)の姿が三国志の数ある英雄たちの中で最も身近な存在であったからでしょう。そのため彼に関する民話は多く、筆者が調べられたものだけでも10話あります。今回は中国で伝えられている民話の中から張飛(益徳)に関するお話をチョイスしてご紹介します。

張飛(益徳)の武芸学習

張飛(益徳)の武芸学習

張飛(益徳)の武芸学習

張飛(益徳)の弟子入り

張飛(益徳)の弟子入り

張飛(益徳)の弟子入り

張飛(益徳)が十五歳のとき彼の両親が亡くなった。戦乱の時代の将来を考えて、やはり武術を身につけるのが得策と思い故郷を出て方々を旅しながら各地を巡り、優れた武術の師範を探しました。
ある日、鶏公山のふもとの古いお寺の前で一人の武術の稽古をしている老人と出会いました。老人は童顔鶴髪ないでたちで、目を見張るような拳法を鍛練し終えると、不思議なことが起きました。
老人はお寺の前の重い石を持って空中に飛び上がり、鶏のように飛翔していきました。そしてほどなく軽快に地面へと降り立ちました。
「ああっ、仙人だ!!」張飛(益徳)はすぐに老人の前にひざまづき「先生、弟子にしてください!!お願いします!!」と地面に額を擦りつけて懇願しました。しかし老人はそれを断わりました。「ぜひに!!」と言って張飛(益徳)はその場を動きませんでした。
一日、二日、三日と時が経っても張飛(益徳)はその場を離れようとしません。老人はついに張飛(益徳)の粘り強さに根負けして、弟子にすることを認めました。

張飛(益徳)の修行

張飛(益徳)の修行

張飛(益徳)の修行


翌日、老人は張飛(益徳)にこのように命じました。「寺の西側にある640個の石を寺の東側に運びなさい」石はとても重く、全部を運び終えるのに三ヶ月以上もかかりました。次は憲法を教えてもらえると思ったのに、次の日老人は拳法の教授を断わるとこのように命じました。「あの石を元の場所に戻しなさい。しかし今度はあまり手を使わず、なるべく足で運びなさい」。
張飛(益徳)はこのとき立腹しました。けれども未だに拳法を教授されていないから、辛抱しようと毎日文句を言わず、足を使って石を運びました。
その後、老人はまたまた同じ石の運搬を命じました。それでも今度は一ヶ月余りで運び終えました。しかし、石運びの最後の日に、張飛(益徳)はとうとう堪忍袋の緒が切れてしまいました。「おいっじじい、どうして武術を教えてくれないで、毎日毎日石運びばかりさせやがるんだ。
もうやめた!!うりゃー!!」ほんとに最後になった大きな石の塊を持ち上げて、思いっきり放り投げました。
ところが、驚愕したのは張飛(益徳)のほうでした。あんなに重かった石が数千メートルも飛んでいったのです。
そして張飛(益徳)は老人の命じた行為の意味を納得しました。これまでの毎日は、基礎となる体力をつけさせるための鍛練であったのだと。
それからは、熱心に老人がさまざまな拳法を教え込みました。三年後、張飛(益徳)は武術全般を体得し、特別な力持ちとなりました。

張飛(益徳)スイカ泥棒を裁く

張飛(益徳)スイカ泥棒を裁く

張飛(益徳)スイカ泥棒を裁く

義兄弟が敗走して散り散りになったとき、張飛(益徳)は古城県の県令となっていました。毎日愛刀の「丈八蛇矛」を持って、役所で執務をしていました。

ある日のこと、男が大きいスイカを抱え、赤ん坊を抱いている女性を連行して役所に訴えにきました。男は「県令様、この女は泥棒です。私のスイカを盗みました」と告発しました。女性は赤ん坊を抱き締め、身をすくめて泣いていました。短気な張飛(益徳)は、人とモノの証拠があることから、大声で「他人のスイカを盗むとは何事か!!有罪!!」と言い、「鞭打ち」と「投獄」のどちらを選ぶか尋ねました。女性は泣きながら「県令様、どうかお許しください。私は盗んでいません」と言いました。

張飛(益徳)は短期で率直なうえに泥棒と泣き虫が大嫌いとあってますます怒ってしまい、愛刀を持って女性を殺してしまいそうな勢いです。しかし、女性が抱いている赤ん坊を見たとき、子供には罪はないと考え、部下に子供を連れていくように命じました。ところが、女性は赤ん坊をしっかりと抱きしめて放そうとしないので、張飛(益徳)はふとどうしたらよいのか冷静に考えてみました。その時、男が「県令様、スイカをひとつ盗んだことで死罪はかわいそうです。どうか彼女を私の召使いにしてください」と頼みました。張飛(益徳)はしばらく考えて、「よかろう、どれでは、先ず赤ん坊とスイカを抱き、婦人を連れて帰るがよい」と指示しました。男は非常に喜び、女性から赤ん坊を取り上げて抱き、スイカを抱こうとしました。しかし、そのスイカは大きくて重く、片手では持ち上げることができません。

これを見た張飛(益徳)は大声で「スイカ泥棒はお前だろう!!男にできぬことが女にできるはずがない。赤ん坊を抱いた女がそのスイカを抱けるものか。お前は私を騙し、善良な婦人を陥れようとした不届者め、三年の実刑に処す」と処断しました。この話が噂されるようになってから古城県は治安のよい地域になりました。

まとめ

まとめ

まとめ

張飛(益徳)は一人で一万の兵に匹敵するといわれるほどの豪傑です。もともと怪力を持っていたのかと思っていたらちゃんと武者修行に出て各地を転々とし、優秀な師匠に弟子入りしていたようです。張飛(益徳)の裁判の話は遠山の金さんを彷彿とさせます。みんな大好き張飛(益徳)の民話はまだまだたくさんあるので、今後も紹介していきたいと思います。





この記事の三国志ライター

関連するキーワード


張飛

関連する投稿


英雄たちの物語はここから始まった!「桃園の誓い」とは?

三国志は今から約1800年前、昔の中国の史実です。(史実を元にした小説でもあります。)役人のわいろなどが横行し、治安の乱れた世を正そうと同じ志を持った若者3人が出合うところから三国志ははじまります。この出会いのシーンで最も有名なのが「桃園の誓い」なのです。


まるでコント!語り継がれてきた 桃園の誓い 三兄弟の姿とは?

『三国志演義』には作者・羅貫中の創作がさまざま盛り込まれており、劉備(玄徳と関羽、張飛の3人が志を確かめ合い、義兄弟の契りを交わす“桃園の誓い”もそのひとつ。羅貫中は民間伝承も参考にしたそうなのですが……。さて、桃園の誓い、桃園三兄弟は中国の人々の間でどのように語り継がれてきたのでしょうか?


ギャップ萌え?猛将・張飛の可愛らしさを探ってみた

「三国志で好きな武将は?」と質問したとき、「張飛」と答える男性はかなりいるのですが、女性にはなかなかお目にかかれません。イケメンに描かれていることが少ないから?でも、だからこそ女性にグッとくるポイントがあるんです!このコラムを読んだあと、「張飛素敵!張飛最高!」と張飛に心を鷲掴みされているかもしれません……。


そうだったのか!?英雄たちの前職や職歴

蜀の初代皇帝の劉備(玄徳)、関帝聖君として祀られ神様になった関羽、五虎将のひとりに数えられる張飛、漢の丞相となり魏国の基盤を作った曹操も呉を建国した孫権の父孫堅も、もともとは一端の商人や小役人だったのですが、小説やドラマではあまり触れられることがありません。英雄たちはどんな職業について生計を立てていたのでしょうか。


三国志お笑いネタ(2)

三国志のお笑いネタとして、前回も下らないエピソードをご紹介しました。爆笑とまではいきませんが、クスっと笑えるネタを今回もお届けします。


最新の投稿


春秋戦国時代 伍子胥の人生について

伍子胥(ごししょ)は、中国の春秋時代に活躍した楚の武人です。彼の本名は員(うん)で、楚の平王によって父と兄が殺されたため、復讐を誓いました。彼は呉に亡命し、楚との戦いで、ついに復讐を果たしました。しかし、後に呉王夫差が越王勾践を破った際、降伏を許そうとする夫差に反対し、意見が受け入れられず、自害させられました。


孫氏の兵法の孫武(そんぶ)とは?

『孫氏の兵法』における「孫氏」とは、古代中国の軍事思想家である孫武です。兵法書『孫子』を著し、戦争や軍事戦略に関する理論を全13篇から構成。特に「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」が有名で、戦争を避けることが最も優れた戦略であると説いています。 参考:ドラマ 孫子兵法 ‧


『キングダム』における羌瘣とは?

羌瘣は、漫画『キングダム』に登場する架空のキャラクターです。彼女は羌族出身の少女で、精鋭の暗殺者集団「蚩尤(しゆう)」に属していました。彼女は、原作、映画においても非常に魅力的なキャラクターです。その環境や周辺を史実を参考に紐解いてみます。


赤兎馬とは? 三国志初心者必見 三国志における名馬の物語

赤兎馬とは、三国志演義などの創作に登場する伝説の名馬で、実際の存在については確証がなく、アハルテケ種がモデルとされています。体が大きく、董卓、関羽、呂布など、三国時代の最強の武将を乗せて戦場を駆け抜けました。


春秋戦国時代 年表 キングダム 秦の始皇帝の時代の始まり

キングダム 大将軍の帰還 始まりますね。楽しみにしていました。 今回は、秦の始皇帝「嬴政」が、中華統一を果たす流れについて記述しようと思います。映画、キングダムのキャストの性格とは若干違うかもしれませんが、参考程度に読んでみてください。


アクセスランキング


>>総合人気ランキング