中国史からひも解く三国志の服装~皇帝編~

中国史からひも解く三国志の服装~皇帝編~

「誰でもよいから三国志の登場人物をイメージしてみて」と言われたら、あなたはどんな人物像を想像しますか?趙雲のように鎧を身に纏った武将でしょうか。それとも諸葛亮のように白い着物と冠を被った文官でしょうか。今回は、我が国の服装にも影響を与えた中国服装史から、当時の衣服や冠についてご紹介します。


冠服(かんぷく)制度について

三国志に登場してくる人物たちは、冠服制度に基づいた服装をしています。
冠服制度が整い始めたのは、暴君と名高い殷王朝最後の帝王の紂王(殷受:いんじゅ)を武王(姫発:きはつ)が倒して興した周王朝の頃です。

人々は道具を生み出し、扱うことによって自分自身の持つ潜在能力を発見してきたのですが、自然界におけるある種の現象は理解することが難しく、自分たちは何でもできると信じていても、心のどこかでいつもなにかの力に縛られているように感じ、超自然的な力つまりは魔法のような力を得たいと願いました。また、自分の力ではどうしようもできないと感じた瞬間、都合よく他人や帝王、神々にすがりつきたい願望があるのです。
当時はまだ占いによって都の場所や政策を決めていた時代でしたので、祭祀や儀式の類はとても重要な行事でした。

「神の恩恵をより多くあずかるためには、我々の尊敬の念を気持ちや言葉だけでなく、なにかで表現しなくては…」と周代の王や役人たちは考えたのでしょう。原始的な巫術と神々への崇拝をより一層改善し完全なものへと近づけようとした結果、儀式は厳粛な雰囲気の中で行われ、それに参加する人々の服装を「神聖・清潔」を意味する白い礼服と「強さ」を意味する黒い冠を被るように統制しました。

冕冠(べんかん:皇帝の冠)

「冕冠(べんかん)とは何ぞ?」と?マークしか脳裏に浮かばない方も多くいらっしゃることでしょう。冕冠とは皇帝のみが被ることができる冠です。シルクハットに天板をつけたような形をしており、その天板の前後には玉を糸を紡ぎ合わせたジャラジャラが複数本垂れています。

先ほど天板と説明した部位の名称を「綖(えん)」といい、玉を糸で紡ぎ合わせた部位を「旒(りゅう)」といいます。綖は木で形をつくり、幅が八寸、長さが1尺六寸、上を黒、下を赤色にしており、その前と後ろに旒が付けられます。綖は前が丸く、後ろが四角で、被るときは後ろを一寸ほど高くして板をやや前に傾けて被ります。旒は通常、前と後ろにそれぞれ12本取り付けられるのですが、
儀式の軽重、等級の違いによって9本、7本、5本、3本といくつか種類があります。そして1本の旒には、5~12個の五色の串玉を垂らすようになっています。

冕冠を頂く際には、笄(こうがい)で二つの穴に沿って髷に通して固定し、両側にはそれぞれ一つずつの玉を垂らし、それを「充耳(じゅうじ:耳をふさぐ)」と言いました。それは、天子が軽々しく讒言を聞かないように注意を呼び覚ますものであり、綖を前に傾けて被ることと同じく、天子に仁徳を勧めるという政治的な意味ありました。

衣裳(いしょう:皇帝の制服)

冕服(めんぷく)の多くは衣が赤、裳が黒で、上が夜明け前の天を下が日暮れの地を表し、それから文様を施すものです。
皇帝は盛大な場所に臨むとき、袞服(こんふく)を着用しました。すなわち上に巻き龍を刺繍し、それからいくつかの自然景物を縫い取って、それぞれ意味を含ませる。『虞書』には、服に刺繍する文様について皇帝が服飾を司る官吏に注文をしたときの言葉が残されています。
その注文とは、「朕は古人の姿を再現したい。日、月、星辰、山、龍、雉を絵にし、祭器、藻、火、米、黼、黻を細かい刺繍にし、五彩で五色を施し、服を作り人々に分からせる」というものです。その中で、日月星辰を刺繍するのはその光をとり、山の形を刺繍するのは穏健さをとり、龍を刺繍するのはその応変をとり、雉を刺繍するのはその上品さと美しさをとり、祭器を刺繍するのはその忠孝をとり、藻を刺繍するのはその清潔さをとり、火を刺繍するのはその明るさをとり、米を刺繍するのはその栄養をとり、黼(ふ:斧)をを刺繍するのは決断を、黻(ふつ:3匹の動物の背中合わせの形)を刺繍するのはその明祭さをとるためでした。皇帝の文様飾りは十二章とし、皇帝が出席する盛大な様式に用いられました。
他に冕冠につける旒の本数と組み合わせて、九旒七章と七旒五章があります。諸侯の場合は、九章、七章、五章のように数が次第に減り、それによって身分の等級を表しました。

腰に帯を締め、帯の下に「蔽膝(へいしつ)」をつけます。蔽膝はそもそも、腹と性器を覆う下着として利用されましたが、次第に礼服の一部となり、さらに後には単純に身分の高い者の尊さを示すものとなりました。冕服に用いる場合は、一般にそれを「芾(ふ)」と呼んだが、祭服の場合は、「黼」または「黻」と呼び、その他の服に用いる場合は「韋鞸(いひつ)」と呼びました。その多くは上の広さが一尺、下の広さが二尺、丈が三尺でした。そして、天子は純粋な赤色を、諸侯は黄色と赤色を、官吏は赤色を用いました。

舄(くつ)と履(くつ)

周代に儀式や服装の様式を記した『周礼』には、「王及び后の服と履を司り、赤色の舄、黒色の舄、赤色の丸紐、黄色の丸紐、青色の舄飾り、白色の履、葛布の履を作った」と記されています。冕服を着用し、足に赤色の舄をはき、諸侯は天子と同じく赤舄を履いていたのでした。三つの等級の中で、赤色の舄が上、その下が白、そのまた下が黒いものでした。后は舄をはき、黒、青、赤の等級になっていました。舄は絹布でその周りを作り、木で底を作りました。『古今注』には「舄は底に木をつけて、乾蝋を施しているため、泥道を恐れない」とあり、2重の靴底であったことがわかりました。履は一重の靴底で夏は葛と麻を、冬は動物の皮を覆いに用いたが、普段用の履物に適しており、また特定の布に組み合わせて、后と妃が蚕祖を祭るときに着用され、履の色は往々にして裳の色と同じでありました。
礼服の種類は非常に多く、袞服のほか、鷩冕(へつめん)、毳冕(もうめん)などにそれぞれに定まった使用場所がありました。そして、冕服、深衣、袍、皮衣及び、笄、六趣の珈(か:かんざしの一種で、玉を垂れ下げたもの)があり、冕服制度は、西周で基礎ができて以来、歴代の皇帝によって増やされたり、減らされたりしましたが、最後は封建王朝とともに歴史の表舞台から消えて行きました。

皇帝の服の飾りはオシャレじゃない

現代でも服装は着用するものの職業や集団意識、権威や個性を表すものであります。古代の人々もそのことを熟知しており、制服を統一したり色や飾りで階級を識別していました。皇帝ともなれば最高の権威を象徴する服装をしなければなりません。それと同時に臣下や国民に節度や徳度の高さを見せる必要がありました。それらを表すために冠に飾りをつけたり、龍や鳳凰の刺繍を服に施していたのでした。

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