三国志・反董卓連合の根幹を築いた許靖の運命

三国志・反董卓連合の根幹を築いた許靖の運命

人物鑑定家として名を知られた許靖。実は反董卓連合の結成に絡んでいます。許靖のその知られざる数奇な運命をご紹介いたします。


反董卓連合に参加した諸侯

反董卓連合に参加した諸侯

反董卓連合に参加した諸侯

190年、洛陽の都と朝廷を牛耳る董卓に対抗すべく「反董卓連合」が結成されます。「三国志演義」によるとこれに参加した諸侯は17人おり、「十七諸侯」と呼びます。盟主に渤海太守の袁紹、南陽太守の袁術、冀州刺史の韓馥、陳留太守の張邈、広陵太守の張超、豫州刺史の孔伷、済北相の鮑信、兗州刺史の劉岱、上党太守の張楊、長沙太守の孫堅、河内太守の王匡、東郡太守の橋瑁、山陽太守の袁遺、北海太守の孔融、西涼太守の馬騰、北平太守の公孫瓚、徐州刺史の陶謙です。このうち孔融、公孫瓚、馬騰、陶謙の4人については、実際は反董卓連合に参加していません。三国志演義の創作になります。曹操は諸侯とは呼べない勢力でしたから名は連ねておりませんが、参加しています。公孫瓚が参戦していないということは、その弟分である劉備(玄徳)も董卓との戦いに参加していないことになります。

董卓の人材起用

董卓の人材起用

董卓の人材起用

少帝を廃し、献帝を立てた董卓は朝廷を私有化していきます。一方で名士を積極的に採用し、広く民衆の支持を集めようとしました。そこで人事に関して担当することになったのが、人物鑑定の手腕で名声を得ていた許靖でした。放浪していた許靖は汝南郡の太守である劉翊に招かれ計吏となり、さらに孝廉に推挙されて洛陽にいたのです。官位は官吏の選抜を担当する人事課の尚書郎です。董卓にその実績を買われて地方の人材抜擢の任を得ました。このときの人事には他に吏部尚書の周毖がいます。伍瓊や何顒、鄭泰なども人事に係わったとされています。許靖と周毖は汚職にまみれた官吏をことごとく罷免していきます。そして名士を起用していくわけですが、董卓とつながりのある人物を要職につけないように注意を払ったといわれています。「三国志正史」では地方の人事においては、冀州牧に韓馥を、兗州刺史に劉岱を、南陽太守に張咨を、豫州刺史に孔伷を、陳留太守に張邈を任じたそうです。許靖は益州の巴郡太守になることを求められましたが、断って御史中丞に任じられています。

反乱と処刑

反乱と処刑

反乱と処刑

名士を起用することで、今までの腐敗した政治を一新した董卓でしたが、刺史や太守となった者たちは董卓に対し反旗を翻しました。まずは劉岱、孔伷、張邈、橋瑁、張超の五人が董卓打倒のために盟約を交わします。この反董卓連合に袁紹や曹操が加わることになるのです。反乱のために挙兵したことを聞いた董卓は烈火の如く怒りました。ちょうどこのとき周毖らは長安への遷都にも反対の意を表明していたこともあり、董卓は捕らえて斬首にします。反乱分子を地方で起用したことも責めを負った理由の一つです。許靖は殺される前に洛陽を飛び出し、豫州刺史の孔伷のもとに逃れています。このように地方に反董卓の布陣をしたのが許靖だったということになります。

孔伷の死と許靖の南下

孔伷の死と許靖の南下

孔伷の死と許靖の南下

自らを豫州刺史に推挙してくれた許靖を孔伷は厚遇します。孔伷は軍事面で活躍するような人物ではなく、許靖と同じように他を評価することに長けていました。弁舌が巧みだったとも記されています。人物鑑定の許靖とは気が合ったようです。ようやく安住の地を得た許靖でしたが、孔伷があえなく没します。豫州は戦場となり、荒廃していきました。許靖は戦乱を避けて南下していきます。そして長江を渡り呉郡に出て、さらに南へ向かい、会稽郡に到達しました。中央から見るとまさに僻地です。当時、会稽郡を治めていたのは太守の王朗でした。どうやら許靖と王朗は馴染みの仲だったようです。巨大な軍事力を有する群雄が割拠する中で、孔伷、王朗という大人しい勢力を選んだあたりが許靖の性格を表しているのかもしれません。

王朗の敗退と許靖の更なる南下

王朗の敗退と許靖の更なる南下

王朗の敗退と許靖の更なる南下

会稽郡は王朗が善政を敷いていましたので安定していましたが、北から袁術軍の侵略を受けることになります。兵を率いるのは猛将・孫策。寡兵ながら兵は勇猛果敢で、大将の孫策が自ら陣頭に立って統率するので士気も高く、とても王朗では防ぎようもありません。王朗は孫策に降伏することになりますが、許靖はまたも落ち延びます。行く先は更に南の交州です。船に乗って現在のベトナムまで逃れました。支配者は交趾郡太守である士燮です。許靖の凄いところは、この交州までその名が知れ渡っていたことです。士燮は許靖を厚遇しました。

許靖、益州に招かれる

許靖、益州に招かれる

許靖、益州に招かれる

会稽郡は王朗が善政を敷いていましたので安定していましたが、北から袁術軍の侵略を受けることになります。兵を率いるのは猛将・孫策。寡兵ながら兵は勇猛果敢で、大将の孫策が自ら陣頭に立って統率するので士気も高く、とても王朗では防ぎようもありません。王朗は孫策に降伏することになりますが、許靖はまたも落ち延びます。行く先は更に南の交州です。船に乗って現在のベトナムまで逃れました。支配者は交趾郡太守である士燮です。許靖の凄いところは、この交州までその名が知れ渡っていたことです。士燮は許靖を厚遇しました。

しかしこの交州にも呉の孫権の圧力がかかってきます。中原を制した曹操から仕官の誘いもありましたが、許靖はこれを断っています。そんな許靖のもとに、ぜひ自国に招きたいという書面が届きます。送り主は益州の牧・劉璋でした。高祖の血を受け継ぐ王族です。許靖はその招きを受けました。劉璋は喜び、早速この許靖を巴郡と広漢郡の太守に任じます。そしてさらに蜀郡太守に転じました。安住の地を得たかのように思えましたが、そこにまた侵略者が現れます。荊州の劉備(玄徳)でした。漢中の張魯征伐のために益州に兵を入れた劉備はそのまま益州を奪い取ろうとしたのです。このとき許靖は州府のある成都にいました。城は囲まれもはや逃げ場はありませんでした。

まとめ・許靖、劉備(玄徳)に仕える

まとめ・許靖、劉備(玄徳)に仕える

まとめ・許靖、劉備(玄徳)に仕える

ここで許靖は落ち延びることを諦め、城を出て降伏しようとしましたが、劉璋に見つかり処刑されそうになっています。ちょうどそのとき成都が陥落したので、許靖は処刑されることなく劉備(玄徳)に会うことができましたが、劉備(玄徳)は主より先に降伏しようとした許靖を侮蔑し起用しませんでした。そこを説得したのが軍師の法正です。法正は劉備に許靖の名声を利用しようと提案したのです。許靖は、考え直した劉備に重用されることとなり、左将軍長史に任ぜられました。そして劉備(玄徳)が王となると許靖は太傅にまで出世することになるのです。許靖は禅譲によって漢王朝が滅びたことを知ると、劉備(玄徳)に皇帝に即位するよう進言します。蜀漢として漢王朝を存続させようと考えたのです。そして蜀が建国されて後は、三公の一つである司徒となり、国を支えました。

許靖、字は文休。同じく人物鑑定で有名な許劭は従弟です。彼は洛陽から豫州、揚州、交州、益州と、広大な面積に及ぶ諸国を渡り歩いています。実に数奇な運命をたどった名士だったのです。


この記事の三国志ライター

関連する投稿


三国志・良禽は木を択んで棲む!主君と家臣の難しい関係

三国志の時代の主君と家臣の関係はどのような価値観に基づいていたのでしょうか。孔子の「良禽拓木」という言葉に該当するような人物を探してみました。


董卓~三国志随一の暴君~

黄巾の乱後の政治的不安定な時期を狙い、小帝と何皇太后を殺害し、献帝を擁護し権力を掌握していく朝廷を支配していた絶対的存在。 政権を握った彼のあまりにもの暴虐非道さには人々は恐れ誰も逆らえなかった。 しかし、最後は信頼していた養子である呂布に裏切られるという壮絶な最後を遂げる。


三国志の中で強烈なインパクトを残した飛将、呂布

三国志の中で一際インパクトを残した男、呂布。裏切りを重ねながらも己の欲を全うし続けた呂布は、ある意味三国志の中でも魅力的な豪傑だと言えます。そんな呂布の波瀾万丈な生涯をまとめてみました。


三国志外伝 絶世の美女貂蝉

皆さんは貂蝉という女性をご存知でしょうか。三国志演義にその名をとどめる傾城の美女・貂蝉のはかなくも美しい生き様をご紹介します。


昔は優しく気のいい大将だった!董卓が暴君へと変貌するまで

洛陽に入るや皇帝を傀儡として実権を握り、暴虐の限りを尽くした董卓仲頴(とうたくちゅうえい)。その残虐非道ぶりは、正史三国志の著者である陳寿に「歴史上の人物でこれほどの悪人はいない」と評されたほどです。そのような人物がなぜ君主になれたの?という疑問の元、今回は若き日の董卓について調べてみました。


最新の投稿


魏が滅んだ戦犯は曹丕!?魏の初代皇帝はどんな人物だった?

曹操の後を継ぎ、魏の初代皇帝となったのが曹丕です。実は、曹丕は魏滅亡の戦犯と言われることが多く人物となっています。そんな曹丕はどんな人物だったのでしょうか。そこで今回は、曹丕がどんな人物であり、なぜ戦犯とまで言われているのかについて紹介していきます。


諸葛亮(孔明)の用兵術と老将軍たちの武勇

「曹洪(子廉)将軍は蜀軍を恐れている」と大口を叩いて蜀軍に対峙した張郃(儁乂)が大敗して戻ります。曹洪(子廉)は激怒して張郃(儁乂)を打ち首にしようとしますが、他の将軍たちに諫められ、再び張郃(儁乂)にチャンスを与えます。しかし「日の出の勢い」の蜀。再び魏軍を打ち破ったのは老将軍でした。


三国志演義の見どころ 人気武将【劉備・曹操・呂布・趙雲】

世間的に三国志といえば「三国志演義」が愛されているといえます。一騎討ちや神業ともいえる智謀の数々、妖術など、人間離れした活躍を見せてくれます。もちろん、フィクションの世界ですが、ある意味正史よりも有名である三国志演義について、人気武将である劉備(玄徳)・曹操・呂布・趙雲らの見どころをここで解説していきます。


三国の愚者として扱われている劉禅(公嗣)について

「三国志で最も嫌われている人物は?」と聞かれたら董卓(仲穎)が真っ先に上がるのではないでしょうか。高貴な位をいいことに暴政の限りを尽くし最終的には身内である呂布(奉先)に殺されました。もしかしたら曹操(孟徳)や呂布(奉先)を挙げる人もいるかもしれません。しかし彼らは嫌われるようなことをした反面カリスマ性があり「嫌いではない」と答える人も多いでしょう。ここでは嫌われていて且つ救いどころも少ない劉禅(公嗣)について紹介したいと思います。


なぜ曹操は官渡の戦いで大軍相手に勝利することができたのか?

三国志という時代の流れを決定づける重要な戦いの1つが官渡の戦いです。この戦いで、曹操が袁紹に勝利したことで、曹操勢力の拡大につながっています。官渡の戦いでは、曹操軍は袁紹の大軍を相手に勝利を収めたわけですが、注目すべきはなぜ曹操が勝てたのかです。そこで今回は、官渡の戦いで大軍相手に曹操が勝利できた理由にスポットライトを当てていきます。