反董卓連合に参加した諸侯
■ 反董卓連合に参加した諸侯
反董卓連合に参加した諸侯
190年、洛陽の都と朝廷を牛耳る董卓に対抗すべく「反董卓連合」が結成されます。「三国志演義」によるとこれに参加した諸侯は17人おり、「十七諸侯」と呼びます。盟主に渤海太守の袁紹、南陽太守の袁術、冀州刺史の韓馥、陳留太守の張邈、広陵太守の張超、豫州刺史の孔伷、済北相の鮑信、兗州刺史の劉岱、上党太守の張楊、長沙太守の孫堅、河内太守の王匡、東郡太守の橋瑁、山陽太守の袁遺、北海太守の孔融、西涼太守の馬騰、北平太守の公孫瓚、徐州刺史の陶謙です。このうち孔融、公孫瓚、馬騰、陶謙の4人については、実際は反董卓連合に参加していません。三国志演義の創作になります。曹操は諸侯とは呼べない勢力でしたから名は連ねておりませんが、参加しています。公孫瓚が参戦していないということは、その弟分である劉備(玄徳)も董卓との戦いに参加していないことになります。
董卓の人材起用
■ 董卓の人材起用
董卓の人材起用
少帝を廃し、献帝を立てた董卓は朝廷を私有化していきます。一方で名士を積極的に採用し、広く民衆の支持を集めようとしました。そこで人事に関して担当することになったのが、人物鑑定の手腕で名声を得ていた許靖でした。放浪していた許靖は汝南郡の太守である劉翊に招かれ計吏となり、さらに孝廉に推挙されて洛陽にいたのです。官位は官吏の選抜を担当する人事課の尚書郎です。董卓にその実績を買われて地方の人材抜擢の任を得ました。このときの人事には他に吏部尚書の周毖がいます。伍瓊や何顒、鄭泰なども人事に係わったとされています。許靖と周毖は汚職にまみれた官吏をことごとく罷免していきます。そして名士を起用していくわけですが、董卓とつながりのある人物を要職につけないように注意を払ったといわれています。「三国志正史」では地方の人事においては、冀州牧に韓馥を、兗州刺史に劉岱を、南陽太守に張咨を、豫州刺史に孔伷を、陳留太守に張邈を任じたそうです。許靖は益州の巴郡太守になることを求められましたが、断って御史中丞に任じられています。
反乱と処刑
■ 反乱と処刑
反乱と処刑
名士を起用することで、今までの腐敗した政治を一新した董卓でしたが、刺史や太守となった者たちは董卓に対し反旗を翻しました。まずは劉岱、孔伷、張邈、橋瑁、張超の五人が董卓打倒のために盟約を交わします。この反董卓連合に袁紹や曹操が加わることになるのです。反乱のために挙兵したことを聞いた董卓は烈火の如く怒りました。ちょうどこのとき周毖らは長安への遷都にも反対の意を表明していたこともあり、董卓は捕らえて斬首にします。反乱分子を地方で起用したことも責めを負った理由の一つです。許靖は殺される前に洛陽を飛び出し、豫州刺史の孔伷のもとに逃れています。このように地方に反董卓の布陣をしたのが許靖だったということになります。
孔伷の死と許靖の南下
■ 孔伷の死と許靖の南下
孔伷の死と許靖の南下
自らを豫州刺史に推挙してくれた許靖を孔伷は厚遇します。孔伷は軍事面で活躍するような人物ではなく、許靖と同じように他を評価することに長けていました。弁舌が巧みだったとも記されています。人物鑑定の許靖とは気が合ったようです。ようやく安住の地を得た許靖でしたが、孔伷があえなく没します。豫州は戦場となり、荒廃していきました。許靖は戦乱を避けて南下していきます。そして長江を渡り呉郡に出て、さらに南へ向かい、会稽郡に到達しました。中央から見るとまさに僻地です。当時、会稽郡を治めていたのは太守の王朗でした。どうやら許靖と王朗は馴染みの仲だったようです。巨大な軍事力を有する群雄が割拠する中で、孔伷、王朗という大人しい勢力を選んだあたりが許靖の性格を表しているのかもしれません。
王朗の敗退と許靖の更なる南下
■ 王朗の敗退と許靖の更なる南下
王朗の敗退と許靖の更なる南下
会稽郡は王朗が善政を敷いていましたので安定していましたが、北から袁術軍の侵略を受けることになります。兵を率いるのは猛将・孫策。寡兵ながら兵は勇猛果敢で、大将の孫策が自ら陣頭に立って統率するので士気も高く、とても王朗では防ぎようもありません。王朗は孫策に降伏することになりますが、許靖はまたも落ち延びます。行く先は更に南の交州です。船に乗って現在のベトナムまで逃れました。支配者は交趾郡太守である士燮です。許靖の凄いところは、この交州までその名が知れ渡っていたことです。士燮は許靖を厚遇しました。
許靖、益州に招かれる
■ 許靖、益州に招かれる
許靖、益州に招かれる
会稽郡は王朗が善政を敷いていましたので安定していましたが、北から袁術軍の侵略を受けることになります。兵を率いるのは猛将・孫策。寡兵ながら兵は勇猛果敢で、大将の孫策が自ら陣頭に立って統率するので士気も高く、とても王朗では防ぎようもありません。王朗は孫策に降伏することになりますが、許靖はまたも落ち延びます。行く先は更に南の交州です。船に乗って現在のベトナムまで逃れました。支配者は交趾郡太守である士燮です。許靖の凄いところは、この交州までその名が知れ渡っていたことです。士燮は許靖を厚遇しました。
しかしこの交州にも呉の孫権の圧力がかかってきます。中原を制した曹操から仕官の誘いもありましたが、許靖はこれを断っています。そんな許靖のもとに、ぜひ自国に招きたいという書面が届きます。送り主は益州の牧・劉璋でした。高祖の血を受け継ぐ王族です。許靖はその招きを受けました。劉璋は喜び、早速この許靖を巴郡と広漢郡の太守に任じます。そしてさらに蜀郡太守に転じました。安住の地を得たかのように思えましたが、そこにまた侵略者が現れます。荊州の劉備(玄徳)でした。漢中の張魯征伐のために益州に兵を入れた劉備はそのまま益州を奪い取ろうとしたのです。このとき許靖は州府のある成都にいました。城は囲まれもはや逃げ場はありませんでした。
まとめ・許靖、劉備(玄徳)に仕える
■ まとめ・許靖、劉備(玄徳)に仕える
まとめ・許靖、劉備(玄徳)に仕える
ここで許靖は落ち延びることを諦め、城を出て降伏しようとしましたが、劉璋に見つかり処刑されそうになっています。ちょうどそのとき成都が陥落したので、許靖は処刑されることなく劉備(玄徳)に会うことができましたが、劉備(玄徳)は主より先に降伏しようとした許靖を侮蔑し起用しませんでした。そこを説得したのが軍師の法正です。法正は劉備に許靖の名声を利用しようと提案したのです。許靖は、考え直した劉備に重用されることとなり、左将軍長史に任ぜられました。そして劉備(玄徳)が王となると許靖は太傅にまで出世することになるのです。許靖は禅譲によって漢王朝が滅びたことを知ると、劉備(玄徳)に皇帝に即位するよう進言します。蜀漢として漢王朝を存続させようと考えたのです。そして蜀が建国されて後は、三公の一つである司徒となり、国を支えました。
許靖、字は文休。同じく人物鑑定で有名な許劭は従弟です。彼は洛陽から豫州、揚州、交州、益州と、広大な面積に及ぶ諸国を渡り歩いています。実に数奇な運命をたどった名士だったのです。